ヨブ物語 37
「過去の栄光」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記29章
昔はよかった
 29章から31章は、いよいよヨブの最終弁論ともいうべき箇所です。29章では過去の栄光について語り、30章では現在の悲惨について語り、31章で神に自分の無罪を訴え、神の最終的な答えを求めます。今日は29章、つまりヨブが過去を振り返って語っている部分をご一緒に学びましょう。

 「ヨブは言葉をついで主張した。
  どうか、過ぎた年月を返してくれ
  神に守られていたあの日々を。」(1-2)

 私は、「昔はよかった」という言葉があまり好きではありません。まず、過去を単純に理想化し過ぎているように思います。昔には昔の問題があり、誰もがいろいろ大変な思いをして生きていたはずです。「それも今はいい思い出だ」というのは、私にもよく分かります。しかし、それならばたいへんな現在もまた時が経てば、「いい思い出」になる可能性があるのではないでしょうか。「昔はよかった」という言葉には、いつの日にか、現在を「よい過去」にしようとする前向きな姿勢が見られないように感じるのです。

 さらに、過去というのは決して良い思い出だけではなく、負の遺産というものがあります。それを忘れてはいけないと思うのです。たとえば戦争の罪、高度成長の罪、バブル経済の罪、そういう負の遺産をしっかりと受け止め、今という時代にそれを清算する努力をしたり、また同じ過ちを繰り返さないように戒めとするということが必要なのです。

 要は、歴史観を持つということ大事なのではないでしょうか。歴史観というと、すぐに日本史や世界史の授業を思い浮かべる方もあると思います。そういう社会の歴史も大事ですが、一人一人の人生にも、過去があり、現在があり、未来があるのです。その自分史における歴史観を持つということも、実はとても大切なことなのです。

 歴史観を持つというのは、過去が現在にとってどういう意味をもっているかということを考えることであり、その現在をどういう未来につなげていくかということを考えることです。「昔はよかった」だけでは、そういう歴史観が出てこないのです。歴史観がないから、現在の意味も分からず、未来への希望も沸いてこないのです。
一歩も前に進めない
 では、ヨブはどうなのでしょうか。29章では、ヨブは過去を振り返り、「ああ、昔はよかった」と言っているように聞こえます。しかし、ヨブは過去の栄光の感傷に浸っているだけではありません。このヨブの弁論が終わる31章まで読むとはっきりとしますが、どうして、その過去が失われてしまったのか、という神への問いが根底にあるのです。

 先ほど、過去と現在はつながっていると言いました。それがどうつながっているのかということを読み解くのが歴史です。しかし、ヨブの最大の問題は、過去の栄光と現在の悲惨がどうつながっているのか、それが分からないということにあるのです。

 友人たちは、ヨブの現在における悲惨を見て、ヨブの過去を推測します。きっと悪いことをしたのだろう、道を間違えたのだろう。その結果が現在の悲惨なのだ、と。しかし、ヨブにはどんな悪いことをしたのか、どこで道を間違えたのかわかりません。それが分かれば、ヨブは過去ではなく、未来に向けて、今というものを考えることができたでしょう。悪いことを悔い改めるとか、苦しみを受け入れつつ生きる道をさぐるとか、いろいろとあったはずです。

 私たちも、そうです。今がどんなに大変であっても自業自得だと思えば、贖罪の意味を込めて苦しみや傷みにも黙って耐えようとか、なんとかやり直しの道はないかと前向きになるとか、そういうことができるのです。しかし、どうしてこんな目に遭うのか分からないという状態になりますと、一歩も前に進むことができなくなってしまうのです。

 まさに、ヨブはそういう状態にいるのです。単純に昔はよかったと言うのではなく、どうしてその昔が失われたのか、昔の中に答えを見つけようとしているわけです。しかし、見つかりません。ですから、神様に問うのです。どうしてですか、と。 
失われた過去
 では、ヨブの思い起こす過去の日々について見て参りましょう。

 「あのころ、神はわたしの頭上に
  灯を輝かせ
  その光に導かれて
  わたしは暗黒の中を歩いた。」(3節)

 ヨブは、過去を思い起こしつつ、「わたしは暗黒の中を歩いた」と言っています。これを読みますと、ヨブが単純に「昔はよかった」と言っているのではないことが、よく分かります。過去にも、辛いことや、苦しいことはたくさんあったのです。しかし、過去にはあって、今にはないことがあります。それは人生の闇路を導く神の光です。それさえあれば、ヨブのダビデのように「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」(詩編23編4節)と言うことができたにちがいないのです。

 別の言い方をすれば、ヨブをここまで苦しめている問題は、財産を失ったことではなく、子供らを失ったことではなく、健康を失ったことでもなかったのです。インド洋津波災害で、目の前でお父さん、お母さん、そして弟を失い、ひとりぼっちになってしまった六年生の男の子の話が、テレビなどで紹介されました。彼は一度、死のうと思って水の中に入ったと告白していました。少年の気持ちを考えると、本当に胸が締め付けられる思いがいたします。しかし、彼は思い直して、生きる道を選んだのです。なんと強い心をもった男の子だろうと感動しました。ヨブとて、本当に何もかも失いましたが、だから死にたいなどと言っているのではないのです。しかし、ヨブはもっとも大事なものを失ったといっています。

 「神との親しい交わりがわたしの家にあり
  わたしは繁栄の日々を送っていた。
  あのころ、全能者はわたしと共におられ
  わたしの子らはわたしの周りにいた。」(4-5節)

 このような神様との親密なる交わりが、ヨブの過去にはありました。それがあれば、ヨブはどんな暗闇の中も、感謝と賛美をもって生きることができました。実際、ヨブが苦しみにあった直後はそうだったではありませんか。子供らが死んだ時も、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言いましたし、健康を害したときも「主から幸せを受けてきたのだから、苦しみをも受けようではないか」といったのです。しかし、本当に近くにいました神様が、どこにいるか分からなくなってしまった。それがヨブが失った神様と交わりなのです。

 「乳脂はそれで足を洗えるほど豊かで
  わたしのためには
  オリーブ油が岩からすら流れ出た。」(6節)

 「乳脂」とは、バターとかクリームの類です。実際に、そのようなもので足を洗ったのかどうか分かりませんが、神様との交わりのしたたるような恵みの豊かさを物語るための一つのたとえでありましょう。
過去の栄光

 「わたしが町の門に出て
  広場で座に着こうとすると」(7節)

 町の門の広場というのは、公共の場所であり、そこで商取引や、裁判が行われたようです。ヨブは、町の長老として、そこに座することが多かったようです。

 「若者らはわたしを見て静まり
  老人らも立ち上がって敬意を表した。
  おもだった人々も話すのをやめ
  口に手を当てた。
  指導者らも声をひそめ
  舌を上顎に付けた。」(8-10節)

 ヨブがいかに町の人々から尊敬されていたかがよく分かります。

 「わたしのことを聞いた耳は皆、祝福し
  わたしを見た目は皆、賞賛してくれた。
  わたしが身寄りのない子らを助け
  助けを求める貧しい人々を守ったからだ。」(11-12節)

 町の人々がヨブを信頼し、尊敬していたのは、ヨブが金持ちだったとか、身分が高かったとか、そんな理由ではありませんでした。ヨブの正しい行い、慈悲深い行いの故であったというのです。

 「死にゆく人さえわたしを祝福し
  やもめの心をもわたしは生き返らせた。
  わたしは正義を衣としてまとい
  公平はわたしの上着、また冠となった。
  わたしは見えない人の目となり
  歩けない人の足となった。
  貧しい人々の父となり
  わたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。
  不正を行う者の牙を砕き
  その歯にかかった人々を奪い返した。」(13-17節)

 自画自賛しているようですが、ヨブは自分の過去に本当に過ちがあったのかどうか、神様に申し開きをしているつもりなのでありましょう。いったい、このような人生のどこに過ちがあったのかと、神様に問うているのではないでしょうか。

 「わたしはこう思っていた
 『わたしは家族に囲まれて死ぬ。
  人生の日数は海辺の砂のように多いことだろう。
  わたしは水際に根を張る木
  枝には夜露を宿すだろう。
  わたしの誉れは常に新しく
  わたしの弓はわたしの手にあって若返る。』」(18節)

 年を取っても若々しく、長生きをして、家族に囲まれて死ぬ。これは、誰もが願う幸せな人生の最後でありましょう。ヨブも同じような願いを持っていたと単純に読むこともできますが、これはヨブの神様にたいする信頼の言葉ではないでしょうか。先ほども言いましたように、ヨブは決して安楽の人生を送っていたわけではありません。しかし、神様が共にいまして、導きとなり、心に安らぎと楽しみを与えてくださっていたのです。ですから、ヨブは神様を信じ、将来を神様の手に委ねて、何も心配していなかった、そういう意味ではないでしょうか。

 さて、21節以下は、このままではちょっとつながりが悪く、10節の続きとして読むといいかもしれません。つまり、広場で人々から尊敬の眼差しを向けられているヨブであります。

 「人々は黙して待ち望み
  わたしの勧めに耳を傾けた。
  わたしが語れば言い返す者はなく
  わたしの言葉は彼らを潤した。
  雨を待つように
  春の雨に向かって口を開くように
  彼らはわたしを待ち望んだ。
  彼らが確信を失っているとき
  わたしは彼らに笑顔を向けた。
  彼らはわたしの顔の光を
  曇らせることはしなかった。
  わたしは嘆く人を慰め
  彼らのために道を示してやり
  首長の座を占め
  軍勢の中の王のような人物であった。」

 ここを読みますと、ヨブはまるでイエス様のような優しさと力をもっていて、それ故に人々に尊敬されていたということがよくわかります。特に24節は、口語訳ではこうなっています。

 「彼らが希望を失った時にも
  わたしが彼らにむかってほほえんだ。」 

 ヨブの慈愛が目に見えるようではありませんか。だいたい、神様が「地上で彼ほどのものはいない」と言ったぐらいですから、本当に優れた人物だったのでありましょう。

 それなのに、どうして今のような状況になってしまったのでしょうか。ヨブが過去を振り返る理由は、この問いを神様にぶつけることにあります。そして、ヨブの弁論は30章以降に続くのです。
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