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前回は27章10節までのお話をしました。その中で、ヨブは友人達を「神を無視する者」と言い切っています。友人たちにとって、これはまったく心外な言葉であったに違いありません。しかし、自分は信仰深いと思いこんでいる人が、神の前でも深い信仰を認められているとは限りません。イエス様が言われましたように「主よ、主よ」というものが皆、信仰者であるとはいえないのです。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(『マタイによる福音書』7章21節)
結局、友人たちは神への信仰というよりも自分の信念を振りかざすばかりで、神の御心も、ヨブの気持ちも本気で考えようとしませんでした。その偽善ぶりを、ヨブはとっくに気がついているのです。だから、あなたがたは「神を無視する者だ」と言い放ったのでした。
11節以下は、ヨブらしかぬ言葉と思えるかもしれません。神に逆らう者の運命は災いばかりであるという悪人必滅論が述べられています。しかし、これはヨブの皮肉だと考えられます。ヨブは今までそのような友人たちの弁に反対をしてきましたが、ここでは皮肉を込めて、友人たちがこれまでヨブに浴びせかけてきた言葉をそっくりそのまま、友人たちにお返しをしようというわけです。
「わたしがあなたたちに神の手の業を示し
全能者について隠さずに語ろう。
あなたたち自身、それを仰いだのに
なぜ、空しいことを繰り返すのか。」(11-12)
今度は、私自身が、あなたがたの論を用いて、あなたがたの運命について語ろうと、ヨブは言っているわけです。そして、13節以下で悪人必滅論が展開されいくことになります。 |
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さて、今日は28章を学びましょう。28章は、神の知恵について語られておりまして、これ自体が一つの完結した詩のようにも読むことができます。この中には、今までのような論争色はありません。そんな違和感から、もしかすると後世に誰かがヨブの言葉の中に、この文章を挿入したのではないかとも言われています。しかし私たちは、確かなことが言えない以上、聖書に書いてあるとおり、これをヨブの言葉として読んで参りたいとおもいます。
まず1-11節に、人間が鉱石を採掘する知恵と技術、また執念の物凄さについて語られています。
「銀は銀山に産し
金は金山で精錬する。
鉄は砂から採り出し
銅は岩を溶かして得る。」(1-2節)
銀、金、鉄、銅は、人間の生活に極めて有用なものです。これらの鉱物の有効利用なくして、今の文明社会は成り立たないと言ってもいいでしょう。しかし考えてみますと、これらのものはどこにでも転がっているようなものではありません。人間が、地中の奥深くまで土を掘り、岩を砕き、石の中にある鉱物を発見し、それを採石し、さらに精錬するという非常に高い技術と努力のいることなのです。しかも、これらの作業にはいつどのような大事故が起こるとも知れない危険さえ伴います。それにも関わらず、人間は何キロにも及ぶ深い坑道を掘り、石の中に含まれている鉱物を探し求めてきたのでした。
「人は暗黒の果てまでも行き
死の闇の奥底をも究めて鉱石を捜す。
地上からはるか深く坑道を掘り
行き交う人に忘れられ
地下深く身をつり下げて揺れている。」(3-4節)
鉱物を採取しようとする人間の執念のようなものが見事に描かれています。特に「地下深く身をつり下げて揺れている」という表現は、採掘がどんなに危険で、命がけの仕事であったかということを物語っています。実際、鉱物採取のために従事した多くの人命が失われたことでありましょう。それは今でも代わりありません。それにも関わらず、人間はそれを止めることなく、穴を掘り続けてきたのでした。なぜなら、それが人間のより良い生活のために必要だと信じているからです。
「食物を産み出す大地も
下は火のように沸き返っている。」(5節)
これもまた、おもしろいところに目をつけた言葉だと思いますが、人間は地表では地を耕し、種をまき、作物を作ります。しかし、このような農業社会だけでは満足せず、地下にまで進出し、鉱石を取り始めました。「地下の火」というのは、火山などで山が火を噴くのをみて、地下というのはそのような火が燃えている恐ろしいところだと考えていたのです。しかし、そんな恐ろしいところにまで臆することなく進んでいき、鉱物を採掘してくる人間の知恵、勇気、技術、執念というのは本当に驚くべきものです。
その努力の結果、人間は宝石のようなさらに美しく、希少な鉱石をも発見し、手に入れてきました。
「鉱石にはサファイアも混じり
金の粒も含まれている。」(6節)
このような地下深くに隠された宝石を見つける方法は、人間だけが獲得したもので、人間の叡智だといえます。
「猛禽もその道を知らず
禿鷹の目すら、それを見つけることはできない。」(7節)
空の高いところから獲物を見つけだす猛禽の鋭い目を、人間のように地下深くにあるものまで見つけることができません。
「獅子もそこを通らず
あの誇り高い獣もそこを踏んだことはない。」(8節)
ライオンのような百獣の王も、どんなに力を誇る獣であっても、人間のように岩を砕いて進むことはできません。
「だが人は、硬い岩にまで手を伸ばし
山を基から掘り返す。
岩を切り裂いて進み
価値あるものを見落とすことはない。
川の源をせき止め
水に隠れていたものも光のもとに出す。」(9-11節)
つくづく人間というのは偉いものだなあ、と思うのです。人間の偉さは、「価値あるものを見落とすことがない」という、この一言につきるのではないでしょうか。鉱石の採石、精錬についてのこれまでの話は、一つのたとえでありまして、人間というのはあらゆる努力を払って、の生活に役立つものを追求し続け、そしてそれを手に入れてきたのです。 |
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しかし、それは本当の知恵でしょうか。動物は金や銀を探し出すことはできないかもしれませんが、それは彼らにとって金や銀など何の役にも立たない、必要のないものだからに過ぎません。
実は、彼らにも、自分たちが生きていくために必要なものを探し出す知恵、能力が備わっているのでありまして、しばしば人間にとっては超能力としか言えないような素晴らしい力を発揮するのです。たとえば、インド洋沿岸をおそった津波も、動物たちは自分たちのもっている鋭敏な感覚で素早くそれを察知し、山に逃げたと言います。しかし、人間はまったくそれを察知する事ができなかったのでした。
人間の鉱石に対する情熱は、私たちの生活を豊かにしました。しかし、それは物質的な豊かさに過ぎません。人間性が豊かになったかといえば、逆に退化しているのではないかと思えるほどです。物質文明に支配された人々は、忙しく働き回り、ストレスや思い煩いの日々を送り、いったい何のために生きているのかを振り返る余裕すらありません。皆、自分のことばかりを考え、自分の権利ばかりを主張し、人を思いやるということも少なくなりました。
まことの知恵とは、人間が本当に幸せになるためにはどうしたらいいのかということを知る知恵ではないでしょうか。
「では、知恵はどこに見いだされるのか
分別はどこにあるのか。」(12節)
人間は、鉱物を求めることにおいては「価値あるものを見落とすことがない」ほどに情熱と努力を惜しみません。そして、それなりの成果を上げてきました。しかし、人間を幸せにする知恵についてはどうでしょうか。物質的な豊かさを得る知恵や技術を持つことはできても、人間はどのように生きるべきかという知恵を持つことができないのが人間なのです。
「人間はそれが備えられた場を知らない。
それは命あるものの地には見いだされない。」(13節)
もっとも肝心なことを知らないのが、人間であるというのです。何という欠陥でしょうか!
「深い淵は言う
『わたしの中にはない。』
海も言う
『わたしのところにもない。』」(14節)
人間も手をこまねいてきたわけではないのですが、どこを探しても、生きる知恵、人生の謎を解く知恵を見つけることはできないのです。
これはヨブ自身のことでもあると思います。自分の苦しみの意味を解こうとして、いろいろと考え、尋ねも求めるのですが、どこにもその答えがないということです。もし、それを知り得たら、どんなに大きな富を得るにも勝ると、ヨブは考えたに違いません。
「知恵は純金によっても買えず
銀幾らと価を定めることもできない。
オフィルの金も美しい縞めのうも
サファイアも、これに並ぶことはできない。
金も宝玉も知恵に比べられず
純金の器すらこれに値しない。
さんごや水晶は言うに及ばず
真珠よりも知恵は得がたい。
クシュのトパーズも比べられず
混じりない金もこれに並ぶことはできない。」(15-19節)
本当に価値あるものは、金や銀ではない。そんなものでは決して手に入れることができないものだと言っているのです。それは何でしょうか。私は新約聖書の幾つかの御言葉を思い起こします。
「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(1ペトロ1:18-19)
この御言葉は、私たちを救うのは金や銀ではないということを教えています。金持ちの方が幸せだというのはウソなのです。私たちを救うのは、主の血なのです。
さらに次に御言葉も同様のことを語っています。
「その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」(使徒3:5-8)
人に喜びのうちに立ち上がらせ、歩ませるのは、金や銀の力ではありません。人間の生きる力、喜びは、イエス・キリストの御名の力を知ることにあるのです。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピ3:8-9)
パウロは、金や銀ばかりではなく、血筋や、名誉や、学問や、功績、そのようなものですら色あせて見えてしまうほど、すばらしいものがある。それはイエス・キリストを知ることだと言っているのです。 |
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ああ、もしヨブが、イエスキリストを知っていたら・・・。悲しいかな、ヨブはそれを知ることができません。神が、未だそれを隠しておられるからです。神のみぞ知る、なのです。
「では、知恵はどこから来るのか
分別はどこにあるのか。
すべて命あるものの目にそれは隠されている。
空の鳥にすら、それは姿を隠している。
滅びの国や死は言う
『それについて耳にしたことはある。』
その道を知っているのは神。
神こそ、その場所を知っておられる。」(20-23節)
最後に、ヨブは言います。私は知らないが、神様は知っているのだから、黙って神様を信じ、従うしかない。それが人間の持ちうる知恵ではないか、と。
「神は地の果てまで見渡し
天の下、すべてのものを見ておられる。
風を測って送り出し
水を量って与え
雨にはその降る時を定め
稲妻にはその道を備えられる。
神は知恵を見、それを計り
それを確かめ、吟味し
そして、人間に言われた。
『主を畏れ敬うこと、それが知恵
悪を遠ざけること、それが分別。』」(24-28節)
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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