ヨブ物語 35
「神の重み」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記27章1-10節
神様の重み
 新しい年を迎えますと、多くの人々が一年の幸せを願って初詣に行きます。初詣というのは、御利益宗教の典型的な姿を呈していると言えましょう。そのような御利益宗教は、人間の願望が作り出した宗教で、決して本当の信仰とは言えません。

 では、本当の宗教とは何でしょうか。本当の宗教は、神様と人間を正しい関係で結ぶものです。神様が、天地万物の創造者であり、主なる神であられるならば、人間が願い、神様はそれを叶えるだけというのでは、決して神と人間の正しい関係とは言えないのです。

 しかし、サタンは言います。人間は利益もないのに神を敬うでしょうか、と(ヨブ記1章9節)。人間が神を敬うのは、究極的には自分のためだ。神のお守りや祝福が欲しいからなのだ。神様が褒めそやすヨブなる人間とて同じ事だ。ヨブ記の主題は、このサタンの言葉にあると言っても過言ではありません。人間は、結局、自分の利益のためにしか信仰心を持てないのだろうか、ということなのです。

 驚くべき事に、このサタンの告発に対して、神様は「いや、決してそんなことはない。少なくとも、あのヨブという男の信仰は本物だ。あの男をみていると、人間も捨てたものじゃないということが分かる」と、人間を弁護されるのです。その結果、ヨブは、サタンの試みに遭わせられることになったのでした。それまでヨブに与えられていた神様の祝福がすべて奪い去られました。それでも、ヨブは神様の期待に応えて、神を信じる者であり続けるだろうか。それともサタンの告発の通りに、これでは神様を信じる意味がないと言って、信仰を捨てる者になるか、ヨブ記はその成り行きを記しているのです。

 さて、今日は27章です。26章からヨブの最後の抗弁が始まり、その中にある1章です。私はここを読んで、その最初の言葉に圧倒されました。

 「ヨブは更に言葉をついで主張した。
  わたしの権利を取り上げる神にかけて
  わたしの魂を苦しめる全能者にかけて
  わたしは誓う。」(1-2)

 ヨブは、神様を「わたしの権利を取り上げる神」と言います。また、「わたしの魂を苦しめる全能者」とも言います。確かに、ヨブは神様の御手によってあらゆる幸せをもぎ取られ、不幸のどん底に落とされたのでした。ヨブにとって、神様は何の利益にならないばかりか、大きな損失を受けているのです。それにもかかわらずヨブは、そのような神に、わたしは自分をかけて誓うと言いいます。それは、いったいどういうことなのでしょうか?

 日本語の「かける」という言葉は、非常に多くの意味をもった面白い言葉です。洋服をかける、火にかける、会議にかける、船をかける、お金をかける、罠にかける、迷惑をかける、鼻にかける、体重をかける・・・その基本的な意味は、「事物の一部分を何か固定して、つながらせ、全体の重みをそこに委ねる」ということにあります。そこから考えますと、「神にかける」とは、自分の全存在の重みを、神様の御手に委ねることだと言ってもよいでありましょう。

 実はヘブライ語本文においては「神にかけて誓う」という言葉はありません。「神は生きておられる」と書かれているのです。それは誓いにおいて用いられる慣用句であったために、新共同訳では「神にかけて誓う」と訳されているわけです。

 「神は生きておられる」というのは、神様が生きているか、死んでいるかということを問題にしているのではないと思います。自分の中で神が無視できない、非常に重みのある存在として生き生きと息づいておられるということ、それが神は生きておられるということでありましょう。もっと言えば、この神によって自分は今を生きているのだということでありましょう。

 しかし、ヨブは自分を不幸にした神に対して、神は生きておられる、私の中で神は非常に重要な存在で、自分の全存在はこの御方にかかっているのだと、告白しているのです。このような信仰は、まさにあのサタンの言葉を打ち砕く信仰ではありませんでしょうか。ヨブは決して自分の利益のあめに、神を信じているのではないのです。もし、そんなことであったら、とてもこのような言葉がヨブの口から出るとは思えないのです。
命の息吹きである言葉
 さて、「かける」というのは、ある一点においてつながり、その一点に重みを委ねることです。その一点とは何でしょうか。ヨブにとって、それは「言葉」でありました。言葉というのは、そこに自分の存在の重みを委ねれば委ねるほど、神に向かう言葉、神とつながる言葉、つまり祈りになっていくのです。

 「神の息吹がまだわたしの鼻にあり
  わたしの息がまだ残っているかぎり
  この唇は決して不正を語らず
  この舌は決して欺きを言わない、と。」(3-4)

 「神の息吹がまだわたしの鼻にあり」とは、創世記に記された人間創造の物語から出てくる言葉です。

 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)

 人の命は、息にあると考えられていました。息が止まれば、人は死ぬからです。そして、聖書は、その人間の命=息は、鼻から吹き込まれた神様の息なのだと教えるのです。生物学的な呼吸だけを見れば、そんなのは幼稚な神話と思えるかもしれません。しかし「息」というのは「霊」を意味する言葉であります。生物学的には霊の存在など認められないかもしれませんが、確かに人は霊によって生きているのです。生物学的に健康な人も、霊が萎えてしまえば生きる力を持てません。逆に病弱であっても霊が元気であれば、力強く生きることができるのです。

 ところで、命が息にあるように、言葉も息にあります。命と言葉は、同じ息の働きなのです。ですから、神の息によって生きているのは、神に息によって真実の言葉を語り、神の息によって生きていないものは、神の息によらない口先だけの不真実の言葉を語るのです。そこで、ヨブは言います。わたしの内に神の息が残っている限り、わたしは命をかけた真実の言葉を語ると。

 このように、聖書は言葉というものを非常に大事にします。イエス・キリストは神の言であると言われていますし、福音も言葉によって伝えられ、信仰は言葉によって告白されます。愛もまた人を慰め、癒し、励ます言葉によって表現されると言ってもよいでしょう。もちろん、それは愛が口先だけのものという意味ではありません。神の息によって発出される言葉でありますから、命が、つまり真実な行いが伴うものでもあります。しかし、少なくとも不真実な言葉が語られるところに、本当の愛の業もないのです。
分かったつもりではなく・・・
 さらにヨブは言います。

 「断じて、あなたたちを正しいとはしない。
  死に至るまで、わたしは潔白を主張する。」(5)
 
 非常に強い語調です。「死に至るまで」とは、「息の絶えるまで」ということです。まさにヨブの中に息づく命の霊から絞り出された言葉だと言ってもよいでありましょう。しかし、次の言葉を読みますと、少々自信過剰な気がしないでもありません。

 「わたしは自らの正しさに固執して譲らない。
  一日たりとも心に恥じるところはない。」(6)

 「一日たりとも心に恥じるところはない」、果たしてここまで断言できる義人がいるでしょうか。ヨブは本当に神に恥じるような思いや行いをしたことがないのでしょうか。少し言いすぎのような気がしないでもありません。

 しかし、ヨブは軽率にこのようなことを言っているのではなく、内なる神の息によって自分を命をかけた言葉として語っているのですから、少なくともヨブの中ではそれほど神様に忠実に生きていたということなのでありましょう。

 このような自分の義に対する自信は、必ずといっても良いほど、他人への裁きの言葉となって表れます。ヨブもそうなのです。

 「わたしに敵対する者こそ罪に定められ
  わたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ。」(7)

 自分は誰よりも正しく生きてきたと自信があるのに、誰よりも不幸になって苦しんでいる。それがヨブの現実です。それゆえ、ヨブは友人たちの裁きを願います。それは彼らを妬むとか、憎いとかいおうのとは違い、彼らは神の裁きを受けることによって、自分の正しさが神様によって証明されるからです。なぜなら、ヨブには友人たちが偽善者に見えて仕方がないからです。

 「神に命を断たれ、魂を取り上げられるのだから
  神を無視する者にどんな望みがあろうか。
  災いが彼に臨むとき
  その叫びを神は聞いてくださるだろうか。
  全能者によって喜びを得
  常に神を呼び求めることができるだろうか。」(8-10)

 ヨブは、友人たちを「神を無視する者」と言っています。友人にはそんなつもりはありません。友人たちもまた自分を信じるところを大まじめに語ったのです。

 しかし、因果応報という教義を唱えるだけで、世の中の現実をみようとしません。現実を見たら、「どうして、こんないい人が・・・」と思うような無惨で悲劇的なことはいくらでもあるはずです。そういう問題に対して、友人たちは真っ正面から取り組み、神に尋ねるということをしません。そして、何もかも分かったつもりで「神は正しい」の一点張りなのです。

 イエス様はいと小さき者への憐れみを忘れてはいけないと教えられました。いと小さき者を憐れむ者は、私を愛してくれた者であり、いと小さき者を無視する者は、わたしを無視する者であると言われています。

 そして、そのような者にどんな望みがあろうか、とヨブは言います。災いに遭う人がすべて悪人として神の裁きにあっているとするならば、災いにあった途端、罪人に定められ、神に望みを持つことができない人間にされてしまうのではないかというわけです。そんな考え方をしていたら、信仰をしていても、神様との交わりを喜び楽しむということができません。

 ダビデは「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる」と賛美しました。信仰というのは、ダビデのように、どんな辛い日にも、神をわが喜び、わが楽しみとして生きることなのではないでしょうか。

 ヨブにはそれが分かっています。しかし、分かっていても、ヨブ自身そこには到っていません。それなら同じ穴の狢ではないかとも言えますが、ヨブが求めているのは物質的な豊かさや、肉体の健康ではなく、どんな時でも神ご自身を喜び楽しむことができる、そのような神との交わりであるということは分かると思うのです。

 その点、友人たちが求めているのは、教理の正しさとか一貫性でありまして、それを揺るがすような現実は無視をするのです。ヨブと友人たちとの違いはとても大きいといえましょう。
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