ヨブ物語 34
「神の道のほんの一端を知るのみ」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記26章
愛がなき言葉に神なし
 26章から31章まで、ヨブの長広舌が始まります。そのうち27章までが三人の友人たちに対するヨブの主張で、28章以下は、神様に聞いていただくことを願って語るヨブの独白です。この長広舌の終わりには、「ヨブは語り尽くした」と記されています。ヨブの最後の渾身の力を込めた言葉が、26章から記されていると言っていいでしょう。

 「ヨブは答えた。」(1)

ヨブは、助言や忠告をする友人たちに言います。

 「あなた自身はどんな助けを力のない者に与え
  どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。
  どんな忠告を知恵のない者に与え
  どんな策を多くの人に授けたというのか。」(2-3)

 ヨブは、友人たちの助言や忠告がいかに無益なものであるかということを、痛烈に批判します。いくら賢者ぶって、「教えてやる」、「悟らせてやる」と言っても、あなたたちの言葉はいったいどんな助けを、救いを、知恵を、策を、無力な者に与えたのかと、問うのです。

 孔子も言っています。「巧言令色、鮮し仁」と。口先がうまい人には「仁」(=思いやり、慈しみ)がないのだという意味です。私は、パウロの愛ほ讃歌の一節を思い起こしました。

 「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」(『コリントの信徒への手紙1』13章1節)

 どんな霊的な言葉も、どんな知恵の言葉も、どんな巧みな言葉も、愛がなければ人を救う言葉にはなりません。それは無益だ、やかましいだけだと、パウロも言うのです。困っている人、助けを必要としている人に必要なのは、言葉巧みな知恵や忠告ではなく、愛なのです。

牧師というのも、ある意味で聖書という言葉に仕え、説教という形で言葉を用いる人間です。そのためには色々な意味で、言葉に対する感性を磨かなければならないと思っていますが、いくら言葉を勉強しても、「あなたの説教は巧いけれども、何の助けにもならないう」なんて言われた暁にはどうしようもありません。木訥(ぼくとつ)でも愛のある言葉を語りたいものだと、常日頃から思うのです。

 しかし、そのためにはどうしたらいいのでしょうか。まずは、自分自身が、人を救う言葉というものは如何なるものかを体験していなければならないと思うのです。たとえば、いくら聖書を文字として知っていても、それだけでは聖書をもって人を救う言葉は語れません。自分自身が聖書の言葉によって救われたという体験を持ち、そこから神様の生き生きとした言葉を受け取ったという者でなければ、聖書を人を救う神の言葉として語ることはできないと思うのです。

 またパウロの言葉ですが、こう言われています。

 「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(『コリントの信徒への手紙二』3章6節)

 聖書は文字で言葉が書かれています。しかし、文字を読むのではなく、その中に込められている著者の心(霊)を読み取らなければなりません。では、聖書の著者は誰か? いろいろな著者がいるのですが、パウロが書いたものであろうが、モーセが書いたものであろうが、聖書の著者はいずれも神の霊感を受けて、神の御旨を代弁して書いているのですから、本当の著者は神様だということができます。聖書の文字一つ一つの中に、神様の心(霊)が込められているのです。それを信仰をもって聞き取るとき、私たちは神の言葉に出会い、神の言葉の力に触れることになるでしょう。そして、聖書は人を救う言葉になるのです。

 ヨブが聞きたいのは、そのような言葉です。誰が語ろうと、その中に神の霊があるならば、ヨブは喜んで耳を傾けたでありましょう。しかし、愛なき言葉のうちに神様がおられることはありません。ですから、あなたがたの言葉は、神からのものなのか? 神の霊によって語っているのか? と、ヨブは問うのです。

 「誰の言葉を取り次いで語っているのか。
  誰の息吹があなたを通して吹いているのか。」(4)

 「誰の息吹が」というのは、「誰の霊が」ということで、あなたがたはやれ「一つの霊」が迫ったの、やれ「悟りの霊」が語らせたのと大層なことを口にしたが、その「霊」とは何ものなのか。私のように無力になってしまった者を、さらにむち打つ弱い者のいじめる霊が、神の霊とはとても思えないというのです。『ヨハネの手紙1』4章1節には、「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」と言われていますように、すべての霊が神からでているわけではないのです。
奈落の底にも神がおられる
  5節から、ヨブは神について語ります。ヨブは、神様の偉大さを知らないわけではないし、自分がいかに小さき者であるかを知らないわけではないのです。むしろ、三人の友人たちよりずっとよく知っているし、神を賛美している。だからこそ、ヨブはこのような者の訴えもちゃんと聞いてくださるはずだと信じて、神様に訴えるのでありましょう。

 「亡者たち、陰府の淵に住む者たちは
  水の底でのたうち回る。
  陰府も神の前ではあらわであり
  滅びの国も覆われてはいない。」(5-6)

 ヨブは、亡者(=死者)の国について語っています。水底で死者たちがのたうち回っている・・・たとえ陰府がそんなところだとしても、それは神なき世界ではないのだ、「陰府も神の前ではあらわであり、滅びの国も覆われてはいない」とは、そういうことです。神様の支配は天上だけではなく、このような奈落の底にまで及ぶのだと、ヨブは語るのです。

 これは、25章のビルダドの言葉と比べてみると思い白いでしょう。ビルダドはこういいました。

 「恐るべき支配の力を神は御もとにそなえ
  天の最も高いところに平和を打ち立てられる。
  まことにその軍勢は数限りなく
  その光はすべての人の上に昇る。」(25章2-3節)

 ビルダドは、神の支配は天上にあると言います。そして、人間など虫けらのような存在で、神様はそのようなものの訴えをいちいち取り上げられないのだというのです。

 しかし、ヨブはそんなことはないと言います。神様は天上のみならず、地の底までも目を注ぎ、耳を傾けられるのだ。だからこそ、神様は偉大なのだと言うのです。ヨブはそのように信じています。それゆえ、虫けらのようになりながらも、地の塵を嘗めるような低き所まで落ちぶれながらも、彼は神様に向かって叫ぶのです。神様は、このような者に目を注ぎ、このような者の声もちゃんと聴いておられるはずと信じているからです。
空に浮かぶ大地、海の中の怪獣
 さらにヨブは、陰府ですらも神様のご支配による確かさがあると語る一方で、堂々たる山々や大地というものが、実はまったく頼りなきものの上にあるのだということを語ります。

 「神は聖なる山を茫漠としたさかいに横たわらせ
  大地を空虚の上につるされた。」(7)

 山や大地というのは、私たちの目からすればこれほど確かな動かざる存在はありません。しかし、ヨブは言います。山々は茫漠のうちに横たわり、大地は空虚の上に吊されていると。

 ヨブが言いたいのは、神の創造の奇跡についてなのです。何もないところに(宇宙のただ中に)、この大地がふんわりと浮いているのは、なんと妙なる神の御業であるか、神の知恵、神の力はなんと素晴らしいものか。本当に確かなのは、山でも大地でもなく、それを作り、支えておられる神様なのだといいたいわけです。

 ヨブは、空についても、同じような不思議があると語ります。

 「密雲の中に水を蓄えられても
  雲の底は裂けない。
  神は御自分の雲を広げて
  玉座を覆い隠される。」(8-9)

 確かにこれは不思議です。水というのはたいへん重たいものでありまして、それを上に持ち上げるには相当な力が必要です。ところが、神様は何億トンという水を、白い雲の内に蓄え、それをふんわりと空の上に浮かばせているのです。神様の玉座というものは、そのような不思議のさらに奥に隠されているのです。

 「原始の海の面に円を描いて
  光と暗黒との境とされる。」(10)

 これはいったいどんなことを言っているのでしょうか。この世界というのは、丸い円状になっていて、周りが海、中心部に陸地があると考えていたのかもしれません。すると、海の向こうはどんな世界なのか。ヨブはその不思議を思ったのでありましょう。たとえば、私たちも宇宙の果てはどこにあるのか、その果ての向こうには何があるのか、そんなことを考えると不思議で夜も眠れないなんてことはないでしょうか?

 「天の柱は揺らぎ
  その叱咤に動転する。」(11)

 天の柱とは山々のことで、そうした高い山々が空を支えていると考えていたようです。ですから、これは地震のことではないでしょうか。すべては、私たちに人間にはまったく驚くべきことであるが、すべては神様の御業なのだという賛美しているのです。

次に、ヨブは海をも支配する神について語ります。

 「神は御力をもって海を制し
  英知をもってラハブを打たれた。
  風をもって天をぬぐい
  御手は逃げる大蛇を刺し貫いた。」(12-13)

 聖書において、「海」はあまりいいところではありません。神に反抗する勢力が渦巻くところであり、「ラハブ」は、その海に住む神話的怪獣です。「大蛇」とは龍のことでありましょうか。ラハブや龍の存在というのは、一種の神話に基づくものでありましょうけれども、今日だって海には何か得たいのしれない怪獣が住んでいるのではないかと本気で考えている人たちがいます。そういう、まだ人間の知らない存在も含めて、神様はすべてを知り、また納めておられるのだとヨブは信仰を告白しているのです。
神の道のほんの一端を知るのみ
 こうして見ますと、ヨブは相当な博学者であったと思われます。しかし、ヨブは分際をわきまえて、このように言います。私たちが知り得るのは、神様が実際なさっている御業のほんの一端に過ぎないのだと。

 「だが、これらは神の道のほんの一端。
  神についてわたしたちの聞きえることは
  なんと僅かなことか。
  その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。」(14)

 この謙虚さこそ、まことの知恵ではないでしょうか。世間で活躍している評論家たちの話を聞きますと、確かに色々なことを知っていて教えられるのですが、私はこんなことまで知っている、誰よりも知っている、何もかも分かっているというような顔をするのを見ると嫌な気分にさせられます。人間が知り得ることは、神様の御業のほんの一端に過ぎないのです。

 この自分の分際というものをわきまえることが、まことの知恵です。私はこのヨブの言葉を読んで、パスカルの有名な「覚え書き」を思い起こしました。1654年11月23日から24日にかけての夜半に、彼は回心と呼ばれる体験し、生きた神に出会いました。その記念すべき夜以来、彼は衣服の内側に小さなメモを縫い込んで、死ぬまで肌身離さずにいました。その中には次のように記されていたのです。

 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
  哲学者および識者の神ならず」

 聖書の中に記されている神は、断じて単なる理念や人間の思考の産物ではない、アブラハム、イサク、ヤコブ・・・私たちひとりひとりの人間に関わり、人間の歴史を作ってこられた神様であるということです。

 ヨブと、他の友人たちの違いは、生きた神様を信じているか、それとも知識としての神を信じているだけなのか、その違いにあったのかもしれません。
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