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19章において、ヨブはついに奈落の底にまで射し込でくる一筋の神の光を仰ぎました。そのことを実に感動的な言葉で、ヨブは告白しています。
「わたしは知っている
わたしを贖う方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。
この皮膚が損なわれようとも
この身をもって
わたしは神を仰ぎ見るであろう。」(19:25-26)
たとえこの身が滅び朽ち果てようとも、わたしはこの身をもって神を仰ぎ見る・・・これはイエス様がおっしゃった「わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる」という復活信仰に通じる素晴らしい信仰告白です。
ヨブは、苦難の中でイエス様を見たと言っても良いのではないでしょうか。もちろん、ヨブはイエス様の生まれるより2000年も前の人です。しかし、信仰によって救い主を仰ぎ見たのです。このような信仰に至ったからには、ヨブはこれからどのような苦しみにも耐えうるはずです。考えようによっては、ヨブ記はここで終わっても良いとさえ思うのです。
しかし、暗闇の中で見たその光の確かな輝きは、ヨブをそのまま安住の地へは連れて行ってくれませんでした。光は瞬く間にかき消されてしまい、再びヨブは絶望の淵に沈み、出口の見えない苦難の中でもがき出してしまうのです。こうしてヨブの苦悩はさらになお延々と続くことになります。
わたしたちも同じ経験をするのでして、イエス様に出会って救われたと感激したのも束の間、更なる試練がわたしたちを襲い、再び苦悩の中に閉じこめられてしまうということがあるのではないでしょうか。このことについて、内村鑑三は、このようなことを言っています。
「吾人は信仰の絶頂によじ登り、希望の全光明にその身をひたすといえども、これだけで充分ではない。なお吾人に学ぶべきものが残っているのである。それは『信仰と望みと愛と、この三つのものは常にあるなり。この中最も大いなるものは愛なり』という。われらはなお愛について学ばねばならぬのである。さればヨブ記は19章をもって終わってはならぬのである。19章の最後を見よ。そこにヨブは明らかに友に勝っている。しかしそれは信仰による勝利ではあるが愛による勝利ではない。ゆえにこれは最上の勝利ではない。ヨブは信仰によって友を蹴破して終わるべきではなかった。愛をもって友をゆるして終わるべきであった。」
なるほど、内村の言う通りだと思うのです。ヨブ記は19章からさらに23章を加えて42章で終わります。その42章のところで、神様はヨブの友人たちの罪をお責めになります。「お前たちは、わたしについて正しいことをヨブに語らなかった」と。ところが、ヨブはこの友人たちのために神への執り成しの祈りを捧げ、神様もそれを受け入れてくださるのです。
本当の勝利は相手をたたきのめすことではなく、愛によって友の罪を赦し、友の罪が神に赦されるように祈ることにあるのです。そういえば、あるクリスチャン弁護士さんがこう言っていました。「裁判に勝利することよりも、わたしは和解を目標に仕事をしています」と。
悪を野放しにしておくことがクリスチャンの務めではないのですから、わたしたちも場合によっては人と争うことが必要になってくると思うのです。裁判を起こすようなことがあるかもしれません。しかし、悪人の滅びは、決してわたしたちの勝利ではありません。この世的にはそれで勝利かも知れませんが、霊的には敗北なのです。悪人が救われてこそ、本当の勝利が来ます。それは愛による勝利です。これこそ最上の勝利なのです。この愛の勝利に向かって、ヨブはさらになお戦いをしていかねばなりませんでした。
わたしたちもそうなのです。イエス様に出会って救われて、それでお終いではありません。イエス様の愛によって、世に和解を、平和をもたらす者として愛の勝利者になるまで、戦いは続くのです。
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では、20章の本文の学びに入りたいと思います。19章のヨブの言葉を受けて、今度はツォファルが答えました。
「さまざまな思いがわたしを興奮させるので
わたしは反論せざるをえない。
あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる。
明らかにすることを望んで、答えよう。」
ツォファルは、ヨブが「わたしには贖う者がいらっしゃる」という信仰の言葉を聞いて、苛立ちます。自分が非難されていると思います。どうして、素直に「それは良かった」と、ヨブが神様の救いを見たことを喜べないのでしょうか。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くこと(ローマ12:15)の難しさを見るような気がします。
「明らかにすることを望んで、答えよう。」というのは、わたしがあなたの間違いを正してあげようということです。ツォファルは、だいぶ自惚れ屋さんのようです。自分は常に正しくて、自分に反する人は皆間違っていると思っているわけです。
しかし、先ほども最も大いなるものは愛であるということをお話ししました。どんなに正しい言葉であろうとも、愛がなければその言葉は喧しい騒音にすぎなくなってしまうのです。パウロは、こう言っています。
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(1コリント14:1-2)
ツォファルは頭は良かったかも知れませんが、愛がありませんでした。ヨブは19章でこう言っていたのをツォファルは聞かなかったのでしょうか?
「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ
神の手がわたしに触れたのだ。
あなたたちはわたしの友ではないか。
なぜ、あなたたちまで神と一緒になって
わたしを追い詰めるのか。
肉を打つだけでは足りないのか。」
ヨブは、友人たちの言葉に苦しめられながらも、なお彼らを友人だと信じ、「憐れんでくれ。あなたちはわたしの友ではないか」と、頼み込んでいます。しかし、ツォファルにはそのようなヨブの心の叫びが届きません。ツォファルにとってヨブは友人ではなく論敵になってしまっているからです。論破することだけが目的の相手になっているのです。 |
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ツォファルが20章で展開しているのは、これまで何度も繰り返されてきた悪人必滅の論に過ぎません。
「あなたも知っているだろうが
昔、人が地上に置かれたときから
神に逆らう者の喜びは、はかなく
神を無視する者の楽しみは、
つかの間にすぎない。」(4-5)
悪人は上手いことをやって栄えているように見えるけれども、それは束の間で、結局は自分の罪のゆえに苦しむことになるのだというお決まりの主張です。
確かに神を恐れぬ者たちはいつか自分たちの愚かさを思い知ることになるでしょう。ヨブも言っています。「裁きのあることを知るがよい」(19章29節)と。悪人への裁き、これは神様を信じる者が誰でも信じていることです。
しかし、ヨブが問題にしているのはそのことではありません。「なぜ正しい人が苦しむのか?」ということなのです。それに対して、ツォファルは、正しい者は苦しむはずがない、苦しむのはお前が罪人だからだ、ヨブの言葉にまったく耳を傾けずに、ヨブに悪人必滅を説いているわけです。
「たとえ彼が天に達するほど
頭が雲に達するほど上って行っても
自分の汚物と同様、永久に失われ
探す者は、『どこへ行ってしまったのか』
と言わなければならなくなる。
夢のように飛び去り
夜の幻のように消えうせ
だれも見いだすことはないだろう。」(6-8節)
悪人も一時的には栄えることがある・・・ツォファルは、かつてのヨブの繁栄のことを言っているのです。しかし、どんなに栄えていても、それは排泄物と同じで跡形もなく消えてしまうのだ、今の君がまさにそれだ、ツォファルはこんな風に言いたいのでありましょう。
「彼を見ていた目はもう彼を見ることなく
彼のいた所も二度と彼を見ない。」(9節)
「彼」は滅び、消え失せ、人々から忘れ去られるだろう、ということです。「彼」とはヨブへの当てつけに違いありません。
「その子らは貧しい人々に償いをし
子孫は奪った富を返済しなければならない。」(10節)
悪人の行いは、子供達が償うことになるだろうということです。確かに、自分が犯罪者となれば、子供達に苦しみが及ぶことになりましょう。しかし、ヨブに対して、「君の罪によって、子供達が死んだのだ」と言っているも同然でありますから、なんとも残酷な言葉であります。
「若さがその骨に溢れていたが
それも彼と共に塵の上に伏すことになろう。」(11節)
「若気の至り」という言葉がありますが、若いときは自分の力を過信したり、後先を考える知恵がないために、しばしば失敗をするものです。若いときの失敗は、その後の生き方によって人生の財産になることもあるのではないでしょうか。神様はそのような悔い改めのチャンスを与えてくださる御方であることをツォファルは知らないようです。 |
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しかし、ツォファルは、さすが自分の知恵を誇るだけのことはあって、なかなか上手いことも言っています。
「悪が口に甘いからと
舌で抑えて隠しておき
惜しんで吐き出さず
口の中に含んでいれば
そのパンは胃の中に入って
コブラの毒と変わる。」(12-14)
「悪が口に甘い」とは、「悪いことは楽しい」ということでありましょう。確かに、正しいことをするのはたいへんで、時には苦痛ですらありますが、悪いことは誘惑的です。甘美な楽しみにすら見えてきます。しかし、それは「毒」ですから、手を出せば必ず痛い目に遭うでしょう。
「呑み込んだ富は吐き出さなければならない。
神は彼の腹からそれを取り上げられる。
彼の飲んだのはコブラの毒。
蝮の舌が彼を殺す。
彼は蜂蜜と乳脂の流れる川の
その流れを見ることはない。」(15-17)
悪人は、その悪が「蜂蜜と乳脂の流れる川」に見えてくるのであります。エバも禁断の木の実を食べる前、「見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(創世記3章6節)と言われています。しかし、それを食べても決しておいしくなく、また幸せになれるわけでもありません。罪は「毒」であり、罪を犯して幸せになれるはずがないのです。けれども、それで「ああ、間違っていた」と気づくことができればいいのですが、悪というのは、罪に罪を重ねるように私たちをさらになお誘惑し続けます。
「労して獲たものをも呑み込まずに返し
商いで富を得ても楽しむことはない。
なぜなら、貧しい人々を虐げ見捨て
自ら建てもしない家を奪い取ったから。
その腹は満足することを知らず
欲望から逃れられず
食い尽くして、何も残さない。
それゆえ、彼の繁栄は長くは続かず
豊かさの極みにあって欠乏に陥り
すべて労苦する手が彼を襲う。」(18-22節)
悪の泥沼に入り込んでしまった人の姿を描いています。決して満足できないのですが、誘惑に打ち勝つことができず、ずるずると引き込まれてしまう。そして、神の裁きをますます大きなものとしていく。その繰り返しの地獄に落ちてしまうわけです。「豊かさの極みにあって欠乏に陥り、すべて労苦する手が彼を襲う」、悪の誘惑に陥らぬよう心に留めておきたい格言です。
「腹を満たそうとすれば
神は燃える怒りを注ぎ
それをパンとして彼に浴びせかける。」(23節)
悪人は楽しみや幸せを悪に求めていますが、彼らが手にすること出来るのは、神の裁きだけであると、ツォファルは言います。
「鉄の武器から逃れても
青銅の弓が彼を射抜き
矢は彼を貫いて背中に出る。
それは胆汁にぬれて光り
神の威力が彼を圧倒する。」(24-25)
神の裁きから逃れることはできない、という悪人必滅論が再び展開されます。
「暗黒が彼の宝を待ち構え
吹き起こされたのでもない火が
彼をなめ尽くし
天幕に残っているものをも滅ぼし尽くす。
天は彼の罪を暴き
地は彼に対して立ち上がる。」(24-27節)
「天は彼の罪を暴き、地は彼に対して立ち上がる。」これもなかなか小気味の良い言葉です。天も、地も、悪人を赦さない。悪人を裁くために立ち上がるということです。
「神の怒りの日に、洪水が起こり
大水は彼の家をぬぐい去る。
神に逆らう者が神から受ける分
神の命令による嗣業はこれだ。」(28-29)
「嗣業」とは、神様から与えられた賜物や財産、所有のことです。悪人が神から受け継ぐことができるのは、厳しい裁きだけであるということです。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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