ヨブ物語 29
「世の矛盾をどう考えるか」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記21章
ヨブの変化
 ヨブの答弁にちょっとした変化が見られます。少し穏やかになっているのです。それは、これまでのヨブの答弁の切り出し方と比べてみると分かります。たとえば、これまでは、

 「そんなことを聞くのはもうたくさんだ」(16:2)

 「どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、
  言葉をもって打ち砕くのか」(19:1)

 このようにのっけから手厳しい言葉の一撃を喰らわせていました。ところが、今回は違います。

 「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。
  聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。
  我慢して、わたしに話をさせてくれ。
  わたしが話してから、嘲笑うがいい。」(2-3節)

 ヨブは「我慢して聞いてくれ」と頼んでいます。今までは、自分こそが我慢をしているという気持ちでいっぱいでした。今でも相当の我慢をしているはずです。しかし、そういうことを押し殺して、相手の気持ちに立とうとしている気持ちが、ヨブの言葉のうちから伺えるのです。

 前回お話ししましたように、これはヨブが苦しみの中で救い主を見出した結果なのです。別の言い方をすれば、神様との新たな出会いがあったということです。神様の関係が新たにされますと、私たちの生き方も新たにされます。当然、隣人に対する接し方にも変化が起こるのです。

 その変化の目指すところは「愛」にあります。今までのヨブは相手をやっつけてまでも自分の言い分を認めさせようとしていました。しかし、ここでのヨブには、互いに分かり合うことができるような対話をしたいという気持ちが働いています。それは、ヨブが彼らの話しに同調したという意味ではありません。やはり、どうしても同調はできないのです。でも、互いにもっとかみ合う話しをするために、ヨブの方から歩み寄っているわけです。その歩み寄りの中に「小さな愛」が隠れているのです。
神が問題である
 ところで、これまで友人たちとの議論がどうしてもかみ合わなかったのは、いったいどうしてなのでしょうか。友人たちは、「災難に遭うのは、悪い人間だからだ。正しい人間は、神様に祝福されて幸せになる」と主張してきました。実は、ヨブもそのように信じているのです。しかし、問題は、神です。

 「わたしは人間に向かって訴えているのだろうか。
  なぜ、我慢しなければならないのか。」(7)

 私が我慢できないのは、あなたがたではない。神様だと言っているのです。本当に神様は悪い人に罰を与え、正しい人に祝福を与えておられるのだろうか。それなら、どうして私がこんな酷い目に遭うのか。自分よりももっと悪い人が幸せそうにしているのか。ヨブは、そのことについてどうしても神様を訴えたいのです。

 「わたしに顔を向けてくれ。
  そして驚き、口に手を当てるがよい。
  わたし自身、これを思うと慄然とし
  身震いが止まらない。」(5-6)

 「神様を訴える」などということは、人間に許されないようなことです。ヨブは、それを敢えてしようとしているのですから、「これを思うと慄然とし、身震いが止まらない」というも当然です。けれども、ヨブはそれをやめようとしません。そこにヨブの神への絶大なる信仰があると言ったら、それは矛盾に思われるでしょうか。

 そんなことはないと、私は思います。神様を信じても、こんな酷い目に遭う。そんな神様は間違っていると思うならば、とっとと信仰などを捨ててしまうという生き方もあるのです。しかし、ヨブはそれだけはしません。たとえ神様を信じていても何もいいことがないと思われても、「神様は正しい」と言える信仰者であり続けようとするのです。

 だからこそ、「どうしてですか」と、執拗に訴え続けざるをえなくなってしまうのではないでしょうか。このような状態になってもなお、「あなたが正しい」と讃美できるように、神様自らが我が身に起こったことを説明してください。あなたの正しさを証明し、私を納得させてくださいと、問い続けるのではないでしょうか。

 ともかく、信仰者が神を訴えるという異常事態が起こっているのです。あなたがたが安易な言葉で口を挟むことができないような出来事なのだ。そんなことをしている私を見て驚き、少しは沈黙をしていて欲しいと、ヨブは言っているわけです。
世の現実
 ヨブとて「正しい者は祝福され、悪人は滅ぶべきだ」と考えているのだと、先ほど申しました。しかし、現実はどうでしょうか。何でもかんでも不幸な人は悪い人で、繁栄している人は正しい人だなんて、本当に言えるでしょうか。ヨブは現実をよく見よと促します。

 「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ
  年を重ねてなお、力を増し加えるのか。」

「神に逆らう者」というのは、「神様を信じない人」という意味で遣われています。そういう人は、世の中にたくさんいます。では、彼らはみんな不幸な生き方をしているでしょうか。そんなことはありません。そういう人たちだって、それなりに幸せを享受して生きて居るのです。

 「子孫は彼らを囲んで確かに続き
  その末を目の前に見ることができる。
  その家は平和で、何の恐れもなく
  神の鞭が彼らに下ることはない。
  彼らの雄牛は常に子をはらませ
  雌牛は子を産んで、死なせることはない。
  彼らは羊の群れのように子供を送り出し
  その子らは踊り跳ね
  太鼓や竪琴に合わせて歌い
  笛を吹いて楽しむ。
  彼らは幸せに人生を送り
  安らかに陰府に赴く。」(7-13)

 神様を信じなくても、「幸せに人生を送り、安らかに陰府に赴く」のならば、「どうして神様を信じなくてはならないのか」という人たちが出てきても不思議ではありません。

 「彼らは神に向かって言う。
 『ほうっておいてください。
  あなたに従う道など知りたくもない。
  なぜ、全能者に仕えなければならないのか。
  神に祈って何になるのか。』」(14)

 これはなかなか痛烈な言葉です。「神様を信じれば、あなたは救われますよ」と言ったとしても、相手が「わたしは救われる必要などありません。今のままで充分幸せなのです」と答えたとしたら、あなたはどのように答えることができるでしょうか。「いや、あなたの幸せは本当の幸せではありません」と言ったところで、「それなら、本当の幸せとは何ですか。あなたのように家を失い、子供らを失い、体中を皮膚病にさいなまされ、妻に厭われ、友人たちに罪人と攻撃されることですか。そんな幸せなどいりません」と言われるのがオチではありませんか。それほど世の現実は矛盾しているのです。
なぜ、神を信じるのか
 「なぜ、神を信じるのか」、これは『ヨブ記』の重要なテーマの一つなのです。今一度、ヨブ記1章のサタンの誣告(ぶこく)を思い起こしてみてください。

 「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」(1:9-11)

 「ヨブは自分の利益のために神様を信じているだけなのだ、そんなのは本当の信仰じゃない。」と、サタンは言います。「それなら、試してみよ」と、神様は答えます。『ヨブ記』の苦難の物語はここから始まっているのです。

 神様を信じたら、幸せになれる、病気が治る、心が楽になる・・・もちろん、そういうこともあるでしょう。でも、そのために信じるというのは邪心だというわけです。神様を信じるというのは、究極的には、幸せとか、不幸せとか、そういうことと関係なく神様を信じるということなのです。

 「だが、彼らは財産を手にしているではないか。
  神に逆らう者の考えはわたしから遠い。」(16)

 神を信じない者たちは、平気で「神様など信じていてもつまらない」と言い、そして「財産を手にしている」のです。しかし、ヨブははっきりと「神に逆らう者の考えはわたしから遠い」と言っています。私には彼らのような考え方はできない、ということです。幸せになるとか、不幸になるとか、そんなこととは関係なく、「神様を信じて生きる」ということだけが私の生き方なのだというわけです。

 そして、その通り、ヨブは「こんなに苦しい思いをするなら、神様を信じていても仕方がない」とは、決して言わないのです。
神の義はいずこに
 しかし逆に、神様に逆らう者たちに対しては、もっと「神の義」を、はっきりと示して頂きたいものだと、考えています。あまりにも、悪い人たちが神様の裁きを受けずにのうのうとして生きているのを見るからです。

 「神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い
  神が怒って破滅を下したことが何度あろうか。
  藁のように風に吹き散らされ
  もみ殻のように
  突風に吹き飛ばされたことがあろうか。
  神は彼への罰を
  その子らの代にまで延ばしておかれるのか。
  彼自身を罰して
  思い知らせてくださればよいのに。
  自分の目で自分の不幸を見
  全能者の怒りを飲み干せばよいのだ。
  人生の年月が尽きてしまえば
  残された家はどうなってもよいのだから。」(17-21)

 最後の、「人生の年月が尽きてしまえば、残された家はどうなってもよいのだから」というのは、神様を信じない人たちは、永遠の命とか、永遠の裁きとか、そういう死後のことなど考えずに生きています。そんな人たちには、生きている間にもっと厳しい神様の裁きというものを示されるべきではないか、という意味でありましょう。神様は、神様を信じる自分にはこんな厳しくされるのに、神様を信じない人たちには甘いじゃないか、というわけです。

 「『人が神に知識を授けえようか。
   彼は高きにいまし、裁きを行われる』と言う。」

 これは友人たちの言葉を引き合いに出しているのでしょう。あなたがたは、神様の裁きについて人間がとやかく言えないというけれども、あまりにも酷いじゃないかと、世の悪人たちののうのうとした様子と、悩み嘆く義人の姿を比べて描き出します。

 「ある人は、死に至るまで不自由なく
  安泰、平穏の一生を送る。
  彼はまるまると太り
  骨の髄まで潤っている。
  また、ある人は死に至るまで悩み嘆き
  幸せを味わうこともない。
  だが、どちらも塵に横たわれば
  等しく、蛆に覆われるではないか。」

 こんなことで、「神の義」と言えるのか? ヨブは実に率直に問いかけているのです。

 「あなたたちの考えはよく分かっている。
  わたしに対して不法にも悪をたくらんでいるのだ。」

 ちょっと、この意味は分かりにくいのですが、友人たちが最初から妙なたくらみをもってヨブのもとに来たとは考えがたいのです。しかし、彼らはどうしてもヨブを罪人に仕立て上げたいようです。そうしないと、彼らの因果応報の理論が崩れてしまうからではないでしょうか。そのように、彼らはヨブのことを考えるのではなく、自分たちのことを考えて、ヨブを罪人に仕立て上げようとしている、そのことに対して、ヨブは「あなたたちの考えはよく分かっている。わたしに対して不法にも悪をたくらんでいるのだ。」と、批判をしているのではないでしょうか。

 そんなに因果応報に拘るならば、ちなみに道行く人を掴まえて聞いてみたらどうだ。あの義人はどうなりましたか。あの罪人はどうなりましたか。彼らは、みんな、私と同じように、悪人がまるまると肥えふとっている現実と、義人が死ぬまで悩み苦しんでいる現実について語るだろうと、ヨブは言います。

 「『あの高潔な人の館はどうなり
   この神に逆らう者の住まいとした天幕は
   どうなったのか』とあなたたちは問う
  通りかかる人々に尋ねなかったのか。
  両者の残した証しを
  否定することはできないであろう。
  悪人が災いの日を免れ
  怒りの日を逃れているのに
  誰が面と向かってその歩んできた道を暴き
  誰がその仕業を罰するだろうか。
  彼は葬式の行列によって運ばれ
  その墓には番人も立ち
  谷間の土くれさえ彼には快さそうだ。
  人は皆彼の後に続き
  彼の前にも、人は数えきれない。」(28-33)

 あなたがたの言っているのは、空論なのだ。現実的ではないのだ、とヨブは言います。

 「それなのに空しい言葉で
  どのようにわたしを慰めるつもりか。
  あなたたちの反論は欺きにすぎない。」(34)

 以上、ヨブの反論を読んできましたが、ヨブは何か結論めいたことを言っているのではありません。ただ、現実をよく見なさいと言っているのです。世の中はそんなに杓子定規ではないではないか。矛盾に満ちて居るではないか。それをどう考えるのかというわけです。
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