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ヨブと三人の友人たちの論争は、第二ラウンドを終わりました。今日から第三ラウンドに入り、これまで同様にトップバッターであるエリファズからはじめられます。ただし、このラウンドでは三人目のツォファルは登場せずに終わります。そして、第四の人物エリフがどこからともなく現れ、ヨブに語り出すのです。このエリフの言葉の後、ついに神様とヨブの直接対話になります。
今日は、第三ラウンドのトップバッターであるエリファズの弁論を通して学びましょう。
「人間が神にとって有益でありえようか。
賢い人でさえ、有益でありえようか。」(2節)
人間がどんなに立派な行いをしても、また知恵に満ちて賢くあろうとも、神様にとっては取るに足らぬことだと、エリファズは言います。
どうして、エリファズはいきなりそんなことを言い出すのでしょうか。それはヨブが前章で「悪人必滅論」ならぬ「悪人繁栄論」を唱えたからです。神の目を逃れて栄えている悪人はたくさんいます。一方、神様の前に正しく生きてきた人がとんだ災難に遭うことがあります。ヨブは、「これが世の現実だ。しかし、それは神様のなさることとしておかしいじゃないか」と、訴えてきたのです。
それに対して、エリファズはいいます。
「あなたが正しいからといって全能者が喜び
完全な道を歩むからといって
神の利益になるだろうか。」(3節)
神様は、この地上に生きる小さな人間の一挙一動をたえず見守り、それで喜んだり、悲しんだり、人間によって振り回されるような御方ではないというのが、エリファズの考えなのです。
それなら、悪いことをしたものが神の罰を受け、善いことをしたものが神の祝福を受けるという、エリファズの主張である因果応報論はどう考えるのでしょうか。エリファズにとっての因果応報論というのは、いわば自業自得論なのです。神様は運命の法則というものをお定めになった。この法則こそ因果応報の法則であって、人はその法則によって自分のしたことの報いを自業自得的に受けることになるのだ、と。
このような考えによれば、不幸というのは、神様の怒りでも、裁きでも、試練でもなく、ただ単に自業自得ということになります。ヨブは、自分の不幸について、「なぜ?」と神様に問うているけれども、神様には責任はないのです。自分のしたことの結果が、自分にふりかかっているのだ、というわけです。
ですから、エリファズは、「原因」なくして神の責めがあなたに訪れることはあり得ないのだと言います。
「あなたが神を畏れ敬っているのに
神があなたを責め
あなたを裁きの座に引き出されるだろうか。」(4節)
さらに、あなたの身に訪れた「結果」をみれば、あなたのうちにどんな原因があったのかは言わずと知れてくるのだともいうのです。
「あなたは甚だしく悪を行い
限りもなく不正を行ったのではないか。
あなたは兄弟から質草を取って何も与えず
既に裸の人からなお着物をはぎ取った。
渇き果てた人に水を与えず
飢えた人に食べ物を拒んだ。
腕力を振るう者が土地をわがものとし
もてはやされている者がそこに住む。
あなたはやもめに何も与えず追い払い
みなしごの腕を折った。
だからこそ
あなたの周りには至るところに罠があり
突然の恐れにあなたはおびえる。」(6-10節)
エリファズは、証拠があって言っているのではありません。あなたがそんな不幸に陥るからには、きっと原因としてこのような生き方をしてきたに違いない、と言っているわけです。証拠もないのに、酷い話しだと思われるかもしれません。けれども、案外と私たちもまたエリファズと同じような思考に陥っていることがあるのではないでしょうか。
たとえば、ちょっと得した経験をすると、たいした根拠もないのに「日頃の行いがいいからだ」と自分で納得してみたり、人を褒めそやしたりしていないでしょうか。結果だけを見て、都合のいい原因を考えてしまっているのです。逆に、結果だけを見て、「心がけが悪いからだ」と、人を悪人と決めつけてしまうこともあるように思います。このような思考は、要するにエリファズの言う自業自得論なのです。 |
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しかし、ヨブにとって、神様は、「運命の法則を定めて、あとは知らんぷり」というような御方ではありませんでした。神様は、私たちを子供のように愛してくださり、私たちの信仰や善行を喜び、不信仰や悪行を悲しまれる御方でした。実際、聖書の神様はそういう御方なのです。たとえ『エゼキエル書』のこんな御言葉を見ても、それは分かります。
「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル書33章11節)
神様は私たちの善悪に深い関心をもっておられる御方です。そのことによって喜んだり、悲しんだりなさる御方なのです。しかし、悪しき者が自業自得によって、いわば自動的に滅んでいくことを決して良しとされず、彼らが立ち帰って命を得るようにと招き続けてくださっている神様なのです。
けれども、この様な愛に満ちた神様を信じているからこそ、ヨブは現実世界とのギャプに苦しむのです。どうして、悪人が野放しにされているのか。どうして、神様は正しく生きてきた私にこんな災難に遭うのか。神様は、この地上世界に対して正しい御業を行っておられるのか、と。
それに対して、エリファズは、「あなたが暗黒に包れ、見えるべきものが見えてないから、そんな風に悩むのだ」と言います。
「また、暗黒に包まれて何も見えず
洪水があなたを覆っているので
あなたは言う。
『神がいますのは高い天の上で
見よ、あのように高い星の群れの頭なのだ。
だからあなたは言う。
『神が何を知っておられるものか。
濃霧の向こうから裁くことができようか。
雲に遮られて見ることもできず
天の丸天井を行き来されるだけだ』と。」(11-14節)
後半部分は、ヨブの言った言葉としてエリファズが語っている部分です。これだと、まるでヨブが「神様は、地上のことにまったく関心を持たれず、天であぐらをかいている」と言ったようになりますが、エリファズはヨブの真意を汲み取っているとは言い難いでしょう。ヨブは、確かに神様が正しい裁きを行ってくださらないということを嘆きました。しかし、それは神様が天であぐらをかいているということを認めているのではありません。「神様は、本当はそんな御方ではないはずだ」という強い期待があるからなのです。それなのにどうしてなのか、そういうヨブの言葉であったはずなのです。
エリファズは、ヨブを誤解しているのです。そして、「いいかげんにしたまえ。神は高き天におられても、神の定めた因果応報は不変の法則なのだ。それは昔からの道を見ればわかるじゃないか。悪人が繁栄するなどといい加減なことをいっちゃいけない。君は悪い種を蒔き、それを刈り取っているのだ」と、お説教をたれるわけです。
「あなたは昔からの道に
悪を行う者の歩んだ道に気をつけよ。
彼らは時ならずして、取り去られ
流れがその基までぬぐい去った。
神に向かって彼らは言っていた。
『ほうっておいてくれ
全能者と呼ばれる者に何ができる。』
それに対してあなたは言った。
『神はその彼らの家を富で満たされる。
神に逆らう者の考えはわたしから遠い。』
神に従う人なら見抜いて喜び
罪のない人なら嘲笑って言うであろう。
『彼らの財産は確かに無に帰し
残ったものも火になめ尽くされる。』」(15-20節)
「彼らは時ならずして、取り去られ、流れがその基までぬぐい去った」とありますが、ノア時代の洪水のことを思い浮かべて語っているのかもしれません。悪人たちは「神など恐ろしくない」と言って、平気で悪事を働き、あなたも悪人繁栄論など口にして悪人が栄えると平気で言うが、彼らは思いがけなず神の裁きが来ることを経験したのだ。このように悪事を働く者は必ず滅んでいくのだと、エリファズは言っているのです。 |
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エリファズは、三人のヨブの友人らの中の最年長者だけあって、ヨブを責めるだけではなく、なんとか彼に慰めをも語ろうと努めることを忘れません。21節以下の言葉は、そういうエリファズの良いところが表れている部分だと言えましょう。
「神に従い、神と和解しなさい。
そうすれば、あなたは幸せになるだろう。」(21節)
どんな理由があるにしろ、神様と争い続けることが良いとは言えないのです。それは、確かにヨブに対しても言えることです。どんな人間も、神様と和解することが必要です。その点で、エリファズのこの言葉は実に正しい言葉だと言えましょう。
「神が口ずから授ける教えを受け
その言葉を心に納めなさい。
もし、全能者のもとに立ち帰り
あなたの天幕から不正を遠ざけるなら
あなたは元どおりにしていただける。」(22-23節)
神様と和解するためには、まず神様の御言葉に耳を傾け、それをあなたの心に納めることだというのも、まったく正しいことだと思います。しかし、エリファズは、「あなたの天幕から不正を遠ざけよ」と言います。ここが問題なのです。ヨブには、エリファズが言うような不正が思い当たらないからです。 |
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しかし、エリファズの言葉の中にも的を射た名句があります。「神と和解せよ」もそうですが、次の「黄金を塵の中に・・・」もなかなか味わい深いものです。
「黄金を塵の中に
オフィルの金を川床に置くがよい。
全能者こそがあなたの黄金
あなたにとっての最高の銀となり
あなたは全能者によって喜びを得
神に向かって顔を上げ
あなたが祈れば聞き入れられ
満願の献げ物をすることもできるだろう。」(24-27節)
オフィル産の黄金は最上の金でした。シェバの女王がソロモンに贈った高価な贈り物の中にもオフィルの黄金があったと書かれています(1列王記10章11節)その宝の中の宝、黄金の中の黄金を、土の塵の中に捨てて、川底に沈めてみよ。そうすれば、神ご自身があなたの黄金になってくださるというのです。
こういう話しがあります。伊達政宗が、名器・家宝とする茶碗を危うく落としそうになりました。正宗は冷や汗をかきましたが、幸い、茶碗は落とさずに済んだのでした。ところが、しばらくすると何を思ったか正宗はその茶碗を鷲づかみにすると、庭の沓脱石に叩きつけてしまったのでした。もちろん、家宝は木っ端微塵に砕かれました。「いかに家宝名器とはいえ、泥をこねた器一つのために、天下のダメ正宗ともあろう者が、ビクビクし、命を縮めるような思いをするとは何事か。いっそ、これを打ち砕いて、わが命をのびのびとするにしかず」としたからでした。
私たちも、大切なものをたくさん持って生きています。家宝だけではなく、家族や生きがいとも言える仕事もあります。「たとえ神様が命じて、これだけは手放せぬ」という気持ちもあると思うのです。しかし、実はそのために、私たちの人生が縛られ、神様の喜び給わないものになってしまっていることがないでしょうか。思い切って、それを捨ててしまえば、案外自由になって、神様の素晴らしさがもっともっと良く解るということがあるのです。
「あなたが決意することは成就し
歩む道には光が輝くことだろう。
倒れている者に、
立ち上がれとあなたが言えば
目を伏せていた者は救われる。
清くない者すら
あなたの手の潔白によって救われる。」(28-30)
イエス様も「自分を救おうとするものは、それを失い、わたしのために命を捨てようとするものは、それを得る」と言われました。逆説的ですが、自分を捨てることによって、本当の自分を得ることがあるのです。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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