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前章で、エリファズはヨブに対して貧しい者の搾取家だと謂われのない非難を浴びせました。しかし、ヨブはもはやそのことでエリファズと言い争うとはしていません。ヨブの心と口はただ神に向かうのです。19章において、ヨブは贖い主との出会いを果たしました。それ以来、ヨブの発言は変わりました。いたずらに争うような激しさが無くなったのです。
昔から「弱い犬ほどよく吠える」と言います。私たちは自分に自信がない時、弱みがある時ほど人と争い、神とも争うのです。しかし、贖い主と出会うということは、どんな自分をも両手でしっかりと受け止めてくださるお方がいるということを知るということです。この恵みを知るならば、たとえ未だ様々な問題が解決していない時にも、人と争うのではなく、「神われらと共にいます」の平安のうちに、神に祈る者へと変えられていくのです。
本章におけるヨブにもそのような変化が認められます。ヨブは、エリファズと争ったり、神と争ったりするのではなく、自らの内に深く問い、自分の中にある信仰を確かめるかのように自問自答しているのです。
「ヨブは答えた。
今日も、わたしは苦しみ嘆き
呻きのために、わたしの手は重い。」(2)
「今日も」というため息まじりの言葉に、ヨブの疲れ果てた心が窺われます。よく私たちは「足が重い」という言い方をしますが、ヨブは「わたしの手は重い」と言っています。「足が重い」というのは「気が進まない」という意味ですが、「手が重い」というのはどういう意味でしょうか。
手とは何かを持つためであり、また仕事する手でもあります。それともう一つ大事なことは「清い手をあげて祈りなさい」という御言葉がありますように、祈るための手でもあります。ヨブは祈っても、祈っても、答えが与えられないことに、疲れ切っているのではないでしょうか。しかし、それでも、その重い手をあげて、ヨブは今日も祈るのだというのであります。 |
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「どうしたら、その方を見いだせるのか。
おられるところに行けるのか。
その方にわたしの訴えを差し出し
思う存分わたしの言い分を述べたいのに。」(3-4)
ヨブは、神のおられるところに行って、神様と直談判をしたいと願っています。しかし、ただ一方的に自分の言いたいことを言って、神様を思い通りにしようというのではありません。
「答えてくださるなら、それを悟り
話しかけてくださるなら、理解しよう。」(5)
ヨブの本当の願いは、「思う存分わたしの言い分を述べたい」ということにあるのではなく、神の言葉を聞きたいということにあるのではないでしょうか。そして、それを悟り、理解することができるようになることなのです。
なぜなら、神様のうちには必ず憐れみと慰めがあることを、ヨブは信じて疑わないからです。
「その方は強い力を振るって
わたしと争われるだろうか。
いや、わたしを顧みてくださるだろう。」(6)
私たちもまた、ヨブほどではないにしても、様々な苦しみや悩みを経験します。そのような時、苦しみや悩みを神様に包まず述べることはもちろん必要ですが、それ以上に私たちの切なる願いとしなければならないのは、この苦しみ、悩みの中にある私に対する神様の御言葉を聞き、それを悟り、理解することではないでしょうか。神様の御心の中には、必ず私たちを慰め、納得するだけの真実があるのです。それを聞き得ないこと、聞いても悟らず、理解していないということによって、私たちの苦しみが耐え難いものになってしまっているのです。
「そうすれば、わたしは神の前に正しいとされ
わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう。」(7)
自分の訴えが聞き届けられることによってではなく、神の言葉を聞くことによって救いが与えられるのだというのが、ヨブの信仰なのです。 |
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ところが、その神様がどこに行っても見いだせないと、ヨブは嘆くのです。
「だが、東に行ってもその方はおられず
西に行っても見定められない。
北にひそんでおられて、とらえることはできず
南に身を覆っておられて、見いだせない。」(8-9)
この言葉は、気をつけて読まないとヨブの言わんとしていることを誤解するはめになります。「東に行ってもその方はおられず、西に行っても見定められない」というところだけを読みますと、神様はどこを探しても、どこにもないという風に読むことができます。しかし、次の「北にひそんでおられて、とらえることはできず、南に身を覆っておられて、見いだせない。」というところでは、神様はすぐそばにいらっしゃるのだけど、隠れておられて、それを見つけることができないということになるのです。
もちろん、これは東西に神様はおられず、南北に神様がおられるということを行っているのではありません。神様はすぐそばにいらっしゃるはずなのに「潜んでおられ」、「身を覆っておられる」。つまりご自分を隠していらっしゃるために、懸命に探しても、どこにいらっしゃるのか、さっぱり見出すことができないということなのです。
それにも関わらず、ヨブは、自分は神様を見いだせないけれども、神様はいつも自分を見ておられるはずだという確信を揺るがせません。
「しかし、神はわたしの歩む道を
知っておられるはずだ。
わたしを試してくだされば
金のようであることが分かるはずだ。
わたしの足はその方に従って歩み
その道を守って、離れたことはない。
その唇が与えた命令に背かず
その口が語った言葉を胸に納めた。」(10-11)
相変わらず、ヨブは自分の潔白を主張しますが、今までとは違って、神様と争うような口調ではありません。神様は、それを分かっていてくださるはずなのだ、と言っているのです。神様が見えないし、そのご臨在さえもさっぱり感じられないのに、「神様は分かっていてくださる」と、これだけはっきり言えるのは、本当にすごいことだと思います。
世の人々は、人生の不条理に際して、「神も、仏もあるものか」と簡単に無神論者に成り下がってしまいますが、ヨブはどんなに苦しいときにも無神論者にはなりませんでした。神様を見ないで、神様を信じる者こそが本当に幸せな者だと、イエス様が仰った言葉を思い起こしてもいいと思います。ヨブは、この世でも最も大きな不幸を経験しながら、「見ないで信じる信仰」という、もっとも揺るぎない幸福を手にしていたのではないでしょうか。
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しかし、ヨブは神様にある種の恐怖をも感じています。
「神がいったん定められたなら
だれも翻すことはできない。
神は望むがままに行われる。
わたしのために定めたことを実行し
ほかにも多くのことを定めておられる。」
ヨブは、人間には抗いがたい運命というものを考えているのでありましょう。それは神の定めであり、だれも翻すことができないものであります。さらに、人間には不可解なことも多くあります。ヨブは自分の受けた苦しみを、そのような神様が望むがままに定められたものであると捉えたのでありました。
それは友人たちの因果応報に対する反論でもあります。人間の受ける苦しみには、因果応報では説明できないことがあるのです。それは、人間には不可解でありますが、神様のご計画の中で定められたことであり、人間の力でひっくり返すことができないものなのです。
「それゆえ、わたしは御顔におびえ
考えれば考えるほど、恐れる。
神はわたしの勇気を失わせ
全能者はわたしをおびえさせる。」(15-16)
神様が人間を越えたお方であり、御心のままに、自由に事を行われるお方であることを知るとき、神への恐れが生じるということは、ある意味で正常なことでありましょう。むしろ、そのことを忘れ、何でもかんでも人間の思い通りになると思っていることのほうが異常なことなのです。
「わたしは暗黒を前にし
目の前には闇が立ちこめているのに
なぜ、滅ぼし尽くされずにいるのか。」(17)
ヨブは神を恐れます。神様は不可解でありますし、神様が見えない世界は、暗黒の世界であります。しかし、それでもなお自分が生かされているのは不思議なことだと、ヨブは言うのです。
私たちもそうです。いろいろ苦しいこと、辛いことがあるかもしれません。けれども、その中にあって、神様は私たちを生かしておられるということに、神様のご計画を見たいと思います。神様は私たちを滅ぼすためではなく、生かすためにこそ御業をなしておられるのです。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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