ヨブ物語 32
「神なき人生、神なき社会」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記24章
神様が見えない人生
前章の復習から始めたいと思います。ヨブは神様がどこにも見出すことができないと嘆いていました。

「だが、東に行ってもその方はおられず
 西に行っても見定められない。
 北にひそんでおられて、とらえることはできず
 南に身を覆っておられて、見いだせない。」(23章8-9節)

 私たちにこんな時があります。しかし、ヨブは決して無神論を主張しているのではありません。ヨブはどんなに苦しいときにも、決して「神などいない」とは決して言わないのです。

 「しかし、神はわたしの歩む道を
  知っておられるはずだ。」(23章10節)

 たとえ、自分に神様が見いだせなくても、神様は存在する。しかも、わたしのすぐ側にいて、わたしの歩む道を逐一見てくださっているはずだ。ヨブはそのように言います。ヨブにとって神様が見いだせないのは、神様がいないからではなく、見えないように姿を隠しておられるからだと言うことなのです。

 言うまでもありませんが、神が見えないというのは、姿形が見えないということではありません。ヨブにとって神様は正義であり、愛なるお方でした。しかし、自分の人生を見ると、神の正義、神様の愛はいったいどこにあるのか、さっぱり分からなくなってしまうということです。まじめに生きてきたのに報われない、これが神の正義なのか。神様への信頼に生きてきたのに、これが神様の答えなのか。ヨブは、神様の気持ちやなさっていることが理解できずに苦しんでいるのです。

 ところで、今は神様のなさることが分からなくても、後で分かるようになるということがあります。たとえば最後の晩餐の夜、イエス様が腰に巻き、たらいに水を汲んできて、弟子たちの足を洗い始めたとき、ペトロは、主がそんなことをなさるのはとんでもないことだ、わたしは主に自分の足を洗わせるなんて決してできないと思いました。しかし、イエス様はそんなペトロに、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる」と言われたのです。「後で」というのは、ペトロが自分の思い上がりに気づいた時ということでありましょう。そして、「神様のために」ではなく「神様によって」、自分が生かされていることに気づいた時のことです。

 試練についても同じ事が言えます。

 「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブライ人への手紙12章11節)

 神様の厳しさも、すべては神様の愛から出たことでありますから、必ず私たちに良い実を結ばせることを目的としているのです。試練の最中にあっては辛いばかりで、なかなかそのことにまで思いが至りませんが、後になると必ずそれは分かるときが来ます。ですから、どんなに辛くても、信じて神様の時を待つということが大切なのです。

 ところが、ヨブはこう言います。

 「なぜ、全能者のもとには
  さまざまな時が蓄えられていないのか。
  なぜ、神を愛する者が
  神の日を見ることができないのか。」(1節)

 わたしも最初は神様の時が来る時を信じて、黙って待っていた。しかし、いくら待っても、そんな時は来ないではありませんか、と言うわけです。たしかに、ヨブは最初から神様を訴えていたわけではありません。財産を奪われ、子供たちが死んだ時にも、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1章21節)と言って、「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。」(1章22節)と言われています。

 さらに、病苦に打たれ、妻が「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(2章9節)と言った時にも、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(2章10節)と言って、「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。」(2章11節)と言われています。それは神様を愛する者は、必ず神の日を見ることができると信じていたからなのです。

 しかし、待てど暮らせどその苦難の意味、目的が明らかにされる日は訪れません。そこでヨブは、「神を愛する者が、神の日を見ることができないのか。」と訴えるのです。

神様が見えない世の中
 ヨブは、これまでのところ自分の人生の苦難からそのようなことを言っているわけですが、24章では、さらに世の中に目を向けて、社会の現実がいかに不公平で、正義に欠けているかということを訴え始めています。

 正義とは何でしょうか。一般的な解釈をするならば、正義には配分正義と調整正義があります。配分正義とは、この世の富がみんなに正しく分配されるということです。それは単純な平等とは限りません。多くの功績を果たした人には、それなりの褒賞が与えられる必要があります。また、どんな怠け者に対しても、最低限の分配というものがあっても良いでしょう。しかし、強い者が弱い者から搾取して肥え太っている世の中というのは、決して正義のある世の中とは言えないのです。

 調整正義とは、他人に与えた損害を弁償しなければならないということです。つまり、「目には目を、歯に歯を」ということです。要するに、正義というのは釣り合いだと言っても良いでしょう。みんなが納得できる合理的な分配なり、調整なりが行われることが理想なのです。そのためには、誰もが自分のことばかりを考えていてはいけません。人との釣り合いということを考えて、自分の報酬に満足し、義務に励まなければならないのです。

 ところが、楽をして儲けたいとか、他人には厳しく自分には甘くしたいとか、人間というのはついそういうことを考えてしまうのですが、それがまかり通るようになりますと、釣り合いがとれなくなってしまいます。そこに社会の歪み、つまり不正義の問題があるのです。

 こういうことが起こらないように、神様という方は正義の番人としていらっしゃるはずではなかったのか。それなのに、どうして世の中は人間のやりたい放題になって、正義が失われているのだろうかと、ヨブは言うのです。

 「人は地境を移し
  家畜の群れを奪って自分のものとし
  みなしごのろばを連れ去り
  やもめの牛を質草に取る。」(2-3節)

 イスラエルでは、地境を動かすことは堅く禁じられていました。

 「あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地で、すなわちあなたが受け継ぐ嗣業の土地で、最初の人々が定めたあなたの隣人との地境を動かしてはならない。」(申命記19章14節)

 土地というのは、本来だれのものではないはずです。たとえば、太陽はだれものでしょうか。月は誰のものでしょうか。誰もその所有権を主張することはできません。この地球という星もまた、人間が、これはわたしのものだと所有権を主張するのはおかしいのです。もし、ある人が地球のすべての土地を買い占めたら、地球はその人のものになるのでしょうか。そんなことはないはずです。

 土地は神様のものなのです。それを神様が御心のままに分け与えられました。そこには配分正義があったはずです。ですから、人は、それぞれ神様に与えられた分で満足することをしなければいけません。そうすることによって釣り合いのとれた世の中になるのです。

 しかし、強い者が勝手に地境を動かし、弱い者を追い出せば、神様の配分正義が崩れてしまいます。その結果、貧しい人々、身よりのない人々がどんなに虐げられていることでしょうか。

 「乏しい人々は道から押しのけられ
  この地の貧しい人々は身を隠す。
  彼らは野ろばのように
  荒れ野に出て労し、食べ物を求め
  荒れ地で子に食べさせるパンを捜す。
  自分のものでもない畑で刈り入れをさせられ
  悪人のぶどう畑で残った房を集める。」(4-6節)

 ここには、貧しい人々の飢え、つまり衣食住の「食」を奪われた様が記されています。

 「着る物もなく裸で夜を過ごし
  寒さを防ぐための覆いもない。
  山で激しい雨にぬれても
  身を避ける所もなく、岩にすがる。」(7-8節)

 これは、衣食住の「衣」を奪われた人々の様子です。

 「父のない子は母の胸から引き離され
  貧しい人の乳飲み子は人質に取られる。
  彼らは身にまとう物もなく、裸で歩き
  麦束を運びながらも自分は飢え
  並び立つオリーブの間で油を搾り
  搾り場でぶどうを踏みながらも渇く。」(9-11節)
 
 これは、衣食住の「住」を奪われた人々の様子です。こうして、悪賢い者たちによって、人間としての最低限の「衣食住」さえ奪われてしまう人々がいるわけです。

 「町では、死にゆく人々が呻き
  刺し貫かれた人々があえいでいるが
  神はその惨状に心を留めてくださらない。」(12節)

 神様は、なぜそのようなことをお許しになっているのか。そのように衣食住を奪われて死んでいく人々を見ても、その惨状に心を留めてくださらないのはどうしてなのか。ヨブならずとも、そのように思う人は多いのではないでしょうか。
神の光はいずこに
 
 「光に背く人々がいる。
  彼らは光の道を認めず
  光の射すところにとどまろうとしない。」(13節)

 子供の頃、親に隠れて悪いこともたくさんしましたが、神様からはいつも見られているという罪責感を持っていました。クリスチャン・ホームに育たなくても、日本では昔から「お天道様が見ている」ということをよく言ったものです。しかし、お天道様なら夜は隠れてしまいます。ですから、悪いことをする人は、夜は働くのだとも聞かされました。ヨブも同じ事を言うのです。

 「人殺しは夜明け前に起き
  貧しい者、乏しい者を殺し
  夜になれば盗みを働く。
  姦淫する者の目は、夕暮れを待ち
  だれにも見られないように、と言って顔を覆う。
  暗黒に紛れて家々に忍び入り
  日中は閉じこもって、光を避ける。」(14-16節)

 人殺し、盗人、売春婦について語られています。彼らは光を避け、闇に隠れて、その悪行を遂行します。しかし、神様の目からは逃れられるはずがありません。はずがないのに、彼らの悪行に対して神の裁きが行われないのはどうしてなのか。

 18-24節以下は友人達の言葉として読むのが良いでしょう。悪を行う人は必ず神の裁きに合うという悪人必滅論です。それに対して、ヨブは言います。

 「だが、そうなってはいないのだから
  誰が、わたしをうそつきと呼び
  わたしの言葉をむなしいものと
  断じることができようか。」(25節)

 やはり、彼らは神の目(神の義)を逃れているとしかいえないではないか。少なくとも、そういう現実があるのを認めないわけにはいかないではないかとヨブは言うのです。

 信仰とは、現実を無視して理想的な事を唱えていることではありません。現実をしっかりと見て、その上で神様を仰ぎ、神様を信じていくことなのです。しかし、そうしますと、確かにヨブの言うように、世の不条理の現実と神の義の支配という信仰との間に矛盾が起こっているように見えるのです。

 その問題を真正面から取り組み、そこを乗り越えて、神の義を信じる者とならなければ、私たちの信仰は現実に引き戻されるたびにぐらつき、骨なしの信仰になってしまうに違いありません。
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