ヨブ物語 33
「私たちは虫けらか?」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記25章
我らは虫けら
 議論の趣旨が尽きたからか、もう語り尽くしたからか、ヨブに答えるビルダドの三度目の言葉はたったの11行しかありません。しかし、もっと短いのはツォファルだと言えます。というのは、彼はもはや三度目の答弁をしません。従って、延々と続けられてきたヨブと三人の友人の議論は、これに対する26-27章のヨブの言葉で幕となるのです。

 ついでに言うならば、論争後のヨブの独白と訴えが28-31章まで続き、するとそこにエリフなる第四の人物が登場して、32-37章まで語ります。このエリフの言葉の後に、ついに神様がヨブに語りかけるのです。

 さて、ビルダドの言葉について学びましょう。彼は、もはやヨブへの誹謗中傷を語りません。ただ一つのことを言っています。神様は限りなく高いところにいまし、それに比べたら我々人間など虫けらや蛆虫と変わらないというのです。

 「シュア人ビルダドは答えた。
  恐るべき支配の力を神は御もとにそなえ
  天の最も高いところに平和を打ち立てられる。
  まことにその軍勢は数限りなく
  その光はすべての人の上に昇る。」(1-3節)

 24章で、ヨブは、もし神様が義なる御方であるならば、どうして世の中の不義を野放しにしておかれるのかと、訴えました。それに対して、ビルダドは、神様は私たちをはるかに超越した御方であって、私たちの思いが納得できるか、できないかというレベルで、神様の正しさを計ってはいけないのだと言っているのです。

 なぜなら、人間の存在や思想などというのは、神の思いに比べたら虫けらの存在や思いに等しいものなのだから、とビルダドは言います。

 「どうして、人が神の前に正しくありえよう。
  どうして、女から生まれた者が清くありえよう。
  月すらも神の前では輝かず
  星も神の目には清らかではない。
  まして人間は蛆虫
  人の子は虫けらにすぎない。」(4-6節)

 確かに、人間というのは、神と比べるよりも、虫けらと比べた方が相似性を持っているのかもしれません。神様は永遠なる御方でありますが、人間も、虫けらも、死ぬべき滅ぶべき存在です。そして、朽ちてしまえば、人間も虫けらも同じ塵に帰るのです。

 また虫けらの一生は、生まれて、食べて、成虫となって、繁殖をして、それでお終いです。その目的は種の保存ということだけにあるのです。果たして人間の一生はそれ以上のものであると言えるでしょうか。確かに虫けら以上に、もっと複雑な一生を送りますが、この地上の生物としての範疇を越えるものではないような気がします。

 いや、この地球の中で最もエゴに満ちた存在であるという点を見れば、虫けら以下とさえ言えます。ビルダドの言葉は、決して間違いでもなければ、言い過ぎでもないのです。パスカルも『パンセ』の中でこのように言っています。

 「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。・・・・彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。」(中公文庫「パンセ」前田陽一/由木康)

 さらに、親鸞もこう言っています。

 「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし。虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになし。悪性さらにやめがたし。こころは蛇蝎のごとくなり。 修善も雑毒なるゆえに虚仮の行とぞなづけたる」(「愚禿悲歎述懐(ぐとくひたんじゅつかい)」、『真宗聖典』508頁)

 パスカルは、人間は「ひとくきの葦」で自然界でもっとも弱い存在であると言い、親鸞は、人間は「蛇やサソリ」で、たとえ信心をしていようと、善い業(修善)に励もうと、残忍で悪性のもった人間に変わりがないのだと言っています。パスカルは17世紀の人でフランス人、親鸞はそれよりも古く12世紀の日本人、しかしそれよりも更に古い時代、紀元前20000年に、ビルダドは人間は虫けらや蛆虫に過ぎないと言ったのでした。

 「然れば誰か神の前に正しかるべき
  婦女(おんな)の産みし者いかでか清かるべき
  視よ月も輝かず
  星もその目には清明(きよらか)ならず
  いはんや蛆のごとき人
  蟲のごとき人の子をや」(4-6節 文語訳)

 自分は弱い葦のような人間である。蛇やサソリのように毒に満ちた人間である。虫けらや蛆虫のように無価値な人間である。このような自己認識に目ざめることなくして、真理を語ることはできないのです。
我らは神の子
 しかし、ビルダドに足りないものがありました。それはこの虫けらのような人間に「神の形」を与え、「わが子」と呼び、慈しみを惜しみなく注ぎ給う神様の愛であります。

 「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神
  主は言われる。
  恐れるな、虫けらのようなヤコブよ
  イスラエルの人々よ、
  わたしはあなたを助ける。」(『イザヤ』41章14節)

 そして、神様は人間が自然界で最も弱い葦のようであるからこそ、優しくこれを取り扱われます。

 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
  わたしが選び、喜び迎える者を。
  彼の上にわたしの霊は置かれ
  彼は国々の裁きを導き出す。
  彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
  傷ついた葦を折ることなく
  暗くなってゆく灯心を消すことなく
  裁きを導き出して、確かなものとする。」(『イザヤ』42章1-3節)

 神様は、このような虫けらのような人間を神の子供らとして創り、愛し、救い給うのです。ビルダドには、そこがまだ分かりません。ですから、神様は高き天におられて、人間界に関わりなど持たれないのだと言わんばかりなのです。

 私たちはむしろ、ダビデのように言うべきでありましょう。

 「主よ、わたしたちの主よ
  あなたの御名は、いかに力強く
  全地に満ちていることでしょう。
  天に輝くあなたの威光をたたえます。
  幼子、乳飲み子の口によって。
  あなたは刃向かう者に向かって砦を築き
  報復する敵を絶ち滅ぼされます。
  あなたの天を、あなたの指の業を
  わたしは仰ぎます。
  月も、星も、あなたが配置なさったもの。
  そのあなたが御心に留めてくださるとは
  人間は何ものなのでしょう。
  人の子は何ものなのでしょう。
  あなたが顧みてくださるとは。
  神に僅かに劣るものとして人を造り
  なお、栄光と威光を冠としていただかせ
  御手によって造られたものを
           すべて治めるように
  その足もとに置かれました。
  羊も牛も、野の獣も
  空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
  主よ、わたしたちの主よ
  あなたの御名は、いかに力強く
  全地に満ちていることでしょう。」(詩編8編)

我らは女から生まれた者
 最後に、もう一つ、「女から生まれた者」という言葉に注目しておきたいと思います。女から生まれたという言葉は、ヨブ記に三回出てきます。
 
 「人は女から生まれ、人生は短く
  苦しみは絶えない。」 (14章1節)
 
 「どうして、人が清くありえよう。
  どうして、女から生まれた者が
  正しくありえよう。」(15章14節)
 
 「どうして、人が神の前に正しくありえよう。
  どうして、女から生まれた者が清くありえよう。」(25章4説)

 14章はヨブの言葉、15章はエリファズの言葉、そして25章はビルダドの言葉です。これだけを取り出してみますと、三人の主張はまったく同じです。「女から」というのは、「卑しい者から」という意味で使われていますが、女だから卑しい存在であると考える必要はありません。どんな男も、女から生まれた存在であり、女以上のものではない、そういうことを言っているのです。

 ところで、注目すべき事は、人間を「女から生まれた者」という言い方をしているのは、旧約聖書ではヨブ記だけであるということです。しかし、新約聖書の中には、何度かこの表現が出てきます。

 「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(マタイ福音書11章11節、参照:ルカ福音書7章28節)

 イエス様が仰ったみ言葉ですが、ここでは女から生まれた者の中で最も偉大な者も、天国の最も小さい者にすらかなわないということが言われていまして、ほぼヨブ記と同じような意味で使われています。

 「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。」(1コリント11章11-12節)

 これはパウロの言葉です。「女から生まれた者」などというと、聖書は女性蔑視だと言われそうですが、ここを読みますとそうではないことが分かります。むしろ、アダム以外のすべての男は女から生まれた者で、女以上のものではないと言っているのです。しかし、それだけではありません。最初に限って言えば、まず神様は男を作り、そこから女を造り出されたのでありまして、この一点で、人間は神様につながっています。

 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」(ガラテヤ書4章4節)

 これもパウロの言葉です。イエス様が「女から生まれた者」と言われています。ビルダドの言うところの、人間には及びもつかないいと高き神の子が、「女から生まれた者」として、私たちと同列のところまでへりくだってくださったというのです。

 「兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ書4章31節 参照4章22,23,30節)

 これは、私たちクリスチャンについて語られているところです。女奴隷の子というのは肉によって生まれた者であり、自由な身の女から生まれた子というのは、霊によって生まれた者であるとも書かれています。この場合の「女」とは、人間の女性ではなく、比喩として語られているのです。

 こうして見てみますと、人間は「女から生まれた者」として、罪と有限性の中に生きています。しかし、聖書はそれだけを言っているのではなく、その原初においては神から生まれたということがあるのです。さらに、神様は独り子であるイエス様を女から生まれさせ、神様と人間の距離を縮めてくださったのです。そして、このイエス様の救いによって、新しく生まれた者は、自由の女から生まれた者と呼ばれ、この自由を得させるためにイエス様は私たちの所に来てくださったのです。
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