|
|
|
29章で、ヨブは過去の栄光を縷々と述べてきました。一言で言えば、「昔はよかった」ということです。といっても、ヨブは決して後ろ向きになっているのではありません。人はしばしば現在のつらさを忘れるために思い出の中に逃げ込むことがありますが、そんなのとは全然違うのです。ヨブの問題は、過去の自分と今の自分がつながらない事にあります。どうしてこんな事になったのか、それを知りたいと思っているのです。そのために、改めて、過去の自分と今の自分を比べているわけです。
「だが今は、わたしより若い者らが
わたしを嘲笑う。
彼らの父親を羊の番犬と並べることすら
わたしは忌まわしいと思っていたのだ。」(1)
「だが今は」と、ヨブは言います。人生には昨日と今日で、まったく状況が一転してしまうようなことが起こるのです。先日も、大阪の小学校で17才の少年が刃物を振り回し、三人の先生方が刺され、一人は亡くなられたというショッキングな事件がありました。このような事件に巻き込まれた方々の人生は、その瞬間まで平和であったに違いありません。しかし、突然地獄に落とされてしまうのです。私たちの人生にも、本当にいろいろなことが起こりえます。事件、事故、災害、突然の病、過ち、失業・・・いつ、私たちの人生がそのようなものに巻き込まれてしまうかわからない現実なのです。 |
|
|
|
|
しばしば経験するのは、人の変わり様でありましょう。また、それが一番悲しいことでもあります。昨日まで親しかった人が急によそよそしくなったり、優しかった人が冷たくなったりして、いったい何故だろうかと悩んだことは、誰にでもある経験だと思います。たとえ原因が分かっていても、そんなにも急に人というのは変わるのだろうかと、驚き怪しむのです。財産を失うことも、健康を損なうことも辛いことですが、そのような人の変わり様を経験することこそ辛いことはないのではないでしょうか。
それは、ヨブにとっても同じでありまして、過去と比べて今何が違うかを語る時、一番に口にするのは、やはり人の変わりようについてなのです。かつては誰もが自分に敬意を払ってくれていたのに、今は若者たちにあざけられ、彼らの親たちは自分をいぬ扱い、あるいはそれ以下に見なしていると、嘆くのです。ちなみに、聖書では「犬」はあまりいい動物として描かれていません。犬呼ばわりされるということは、畜生呼ばわりされることで、たいへんな侮辱であったのです。
ヨブは悔しさを滲ませて、彼らについてこう語ります。
「その手の力もわたしの役には立たず
何の気力も残っていないような者らだった。」(2)
誰のことを言っているのでしょうか。若者たちでしょうか。それとも、その父親でしょうか。おそらく父親たちのことでありましょう。そんな者たちの息子らにさえ、今の自分は馬鹿にされているのだということではないでしょうか。
「無一物で飢え、衰え
荒涼とした砂漠や沼地をさまよい
あかざの葉を摘み
れだまの根を食糧としていた。」
彼らは餓鬼のような人間であったと言います。ちなみに「餓鬼」とは、罪のために飢え渇きの地獄に堕ちた人達のことです。
「彼らは世間から追われ
泥棒呼ばわりされ」
彼らは泥棒も平気でするような連中でした。
「身震いさせるような谷間や
土の穴、岩の裂け目に宿り
茨の間で野ろばのようにいななき
あざみの下に群がり合っていた。
愚か者、名もない輩
国からたたき出された者らだった。」(6-8)
「野ろばのようにいななき」とか、「群がりあっていた」というのは、性行為のことを意味すると解釈されています。彼らはそのように品性がなく、不道徳で、卑しい人間であったということです。
「ところが今は、わたしが彼らのはやし歌の種
嘲りの言葉を浴びる身になってしまった。」(9)
再び「ところが今は」という言葉が語られます。ヨブの現在は、そんな下劣な連中に、自分はあざけられているというのです。
「彼らはわたしを忌み嫌って近寄らず
平気で顔に唾を吐きかけてくる。」(10)
なぜ、彼らはヨブに唾まで吐きかけたのでしょうか。日本でも、ホームレスが若者たちの暴行を受けて死亡するという事件が何件も起こっています。ある事件の加害者である少年に、「なぜ、ホームレスに暴行を働いたのか」と尋ねたら、「社会のゴミを掃除しようと思った」と答えたということもありました。またある事件では「ストレス解消」と答えた少年たちもいました。実は、彼ら自身も学校では落ちこぼれで、お荷物の存在だったようなのです。このように弱者が、さらに弱者を攻撃するという構図が、ヨブの場合にも働いたのではないでしょうか。よくあるいじめ事件もそうです。かつては「弱きを助け、強きを挫く」と言ったものなのですが・・・
「彼らは手綱を振り切り、わたしを辱め
くつわを捨てて勝手にふるまう。」(11)
「手綱」とは何の手綱でしょうか。「くつわ」とは何のことでしょうか。私は、これは理性ことではないかと思います。人間誰でも、全身から膿を出しているような人を見たら気味が悪いと思うものです。しかし、心の中でそのように思っても、それをそのまま表情に出したり、口にしたりすることはしないのです。いやそんな風に考えてはいけないのだと、感情とは別に理性が働くからです。その理性の手綱が切れ、くつわが捨てられたら、きっと人間はとんでもなく非道な存在になってしまうに違いありません。
「彼らは生意気にもわたしの右に立ち
わたしを追い出し、災いの道を行かせ
逃げ道を断ち、滅びに追いやろうとする。
それを止めてくれる者はない。
襲って来て甚だしく打ち破り
押し寄せて来て廃虚にする。」(12-14)
彼らは、ヨブに対してやりたい放題のことをしているということです。
ヨブの苦悩の言葉が続きます。
「死の破滅がわたしを襲い
わたしの力は風に吹きさらわれ
わたしの救いは雲のように消え去った。
もはや、わたしは息も絶えんばかり
苦しみの日々がわたしを捕えた。」(14-16)
「もはや」という言葉には、「今や」という意味が込められています。ヨブは、30章の中で「だが、今は」、「ところが今は」、「もはや」と三回も繰り返しています。どうして、こんな風になってしまったのだろうか、訳が分からない気持ちで一杯なのです。
以上は、このように人から受ける耐え難い屈辱で魂の苦しみと言えますが、それに加えてヨブは絶えず肉体の苦痛にさいなまされます。
「夜、わたしの骨は刺すように痛み
わたしをさいなむ病は休むことがない。
病は肌着のようにまつわりつき
その激しさにわたしの皮膚は
見る影もなく変わった。
わたしは泥の中に投げ込まれ
塵芥に等しくなってしまった。」(17-19)
|
|
|
|
|
ここで、ヨブは神に目を向けます。
「神よ
わたしはあなたに向かって叫んでいるのに
あなたはお答えにならない。
御前に立っているのに
あなたは御覧にならない。」(20-)
わたしはここを読んだとき、イエス様が十字架上で口ずさまれた詩編が思い出されました。
「わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わたしの神よ
昼は、呼び求めても答えてくださらない。
夜も、黙ることをお許しにならない。」(詩編22:2-3)
これは、ダビデもヨブのごとき苦しみを経験したのでありましょう。また、ナチス政権下で殉教したドイツのボンフェッファー牧師の「神の前に、神と共に、神なしに生きる」という言葉をも思い起こしました。ボンフェッファーはナチスの支配する帝国教会に抵抗し、牧師でありながらヒトラーの暗殺計画に加わり、逮捕され、処刑されました。その獄中書簡の中に記された有名な言葉です。
神様の前に、神様と共に生きようとしていながら、神なしに生かされているような苦悩を味わうことがある。しかし、それにも関わらず、神の前に、神と共に生きようとした、それがこの言葉ではないかと思います。十字架の主も、ダビデも、そしてヨブもまた同じ心境なのではないでしょうか。
「あなたは冷酷になり
御手の力をもってわたしに怒りを表される。
わたしを吹き上げ、風に乗せ
風のうなりの中でほんろうなさる。
わたしは知っている。
あなたはわたしを死の国へ
すべて命あるものがやがて集められる家へ
連れ戻そうとなさっているのだ。」(21-23)
「わたしを吹き上げ、風に乗せ、風のうなりの中でほんとうなさる」と、ヨブは言っています。自分の人生が、神様の訳の分からない怒りによって翻弄されているということを、このように表現しているのです。そして、わたしを死の国に連れ戻そうとしている。なんと不条理なことか、とヨブは嘆きます。
「人は、嘆き求める者に手を差し伸べ
不幸な者を救おうとしないだろうか。
わたしは苦境にある人と共に
泣かなかったろうか。
貧しい人のために心を痛めなかったろうか。」(24-25)
前章でも見ましたように、ヨブは貧しい人々に憐れみ深い人でした。人間に過ぎないヨブですら、そうであるに、神様はどうしてこんなに私に辛く当たるのだということを言いたいのでありましょう。
「わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。
光を待っていたのに、闇が来た。」(26)
イエス様は、「魚を求める子に蛇を与える父親がいようか? 卵を求める子供にサソリを与える父親がいようか?」と言われました。「この世の悪い父親ですら自分の子供にそんなことはしない」と教えられました。しかし、ヨブにとって神様は、魚を求める者に蛇を与える父親のようだということなのです。
「わたしの胸は沸き返り
静まろうとしない。
苦しみの日々がわたしに襲いかかっている。
光を見ることなく、嘆きつつ歩き
人々の中に立ち、救いを求めて叫ぶ。」(27-28)
29章では、ヨブは過去を振り返り、こう言っていました。
「あのころ、神はわたしの頭上に
灯を輝かせ
その光に導かれて
わたしは暗黒の中を歩いた。
神との親しい交わりがわたしの家にあり
わたしは繁栄の日々を送っていた。」(29:3-4)
「神様が共にいてくださる」という確信があれば、どんな暗い道にも光を見て歩くことができるのです。しかし、ヨブは、今はそうではないと言います。「光を見ることなく、嘆きつつ歩く」というのです。
「山犬の兄弟となり
駝鳥の仲間となったかのように
わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち
骨は熱に焼けただれている。
喪の調べをわたしの竪琴は奏で
悲しみの歌をわたしの笛は歌う。」(29-31)
ヨブの孤独、悲しみ、惨めさが言い尽くされた30章であります。しかし、その中にも、先ほどいいましたような「神の前に、神と共に、神なしに生きる」そのようなヨブのたくましさを感じるのは、私だけではないと思います。 |
|
|
|
|
● 神の前に、神と共に、神なしに
|
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|