|
|
|
エリファズに対するヨブの応答が始まります。
「そんなことを聞くのはもうたくさんだ。」(2a)
ヨブの友人たちに対する気持ちは、この一言に尽きると言ってもよいでしょう。
「あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる。
『無駄口はやめよ』とか、
『何にいらだって、
そんな答えをするのか』と言う。」(2b-3)
友人たちにしてもヨブを慰めよう、励まそうとして語りかけているのです。それがまったく通じないという、お互いの不幸があります。ところで、興味深いのは次の言葉です。
「わたしがあなたたちの立場にあったなら、
そのようなことを言っただろうか。」(4a節)
つまり、私がカウンセラーであったら、決してそんな言い方はしないと、ヨブは断言するのです。確かに、ヨブは、だれもが認めるカウンセラーであったようです(4章3-4節)。けれども、ここでは自分の方がカウンセリングの技術が上である、というようなことを主張しているのではないと思います。ヨブは今まで経験したことがないような苦しみを経験しているのでありまして、こうして自分が本当の苦しみを知る人間になったことによって、はじめて人の慰め方、励まし方ということが分かったという意味だろうと思います。
逆に言うと、ヨブの友人たちというのは、本当の苦しみを知らないから、ヨブの気持ちが分からないのです。そういうことはどのような愛や友情や信頼で結ばれた人間関係にも起こりえることでありまして、避けられないことだと思います。たとえば夫婦、親子、あるいは牧師と信徒、主にある兄弟姉妹という人間関係においても例外ではないのです。ですから、そのような謙虚さをもって、互いに許し合うということがとても大切なことになってくるような気がします。 |
|
|
|
|
6節からは、ヨブの言葉が神に向けられます。
「もう、わたしは疲れ果てました。」(7節)
長い長い苦難の中にあるとき、私たちもまた同じ言葉が口をついて出てきます。でも、私たちは、そんな時、こんなことは神様に言ってはいけないのではないか、と思ったりしませんでしょうか。そんなことを言ったら、もう自分は信仰者でなくなってしまうのだと思ってはいないでしょうか。
ヨブはそんな遠慮はしません。それどころか、「神様、あなたが私を疲れさせているのです」と言わんばかりです。
「わたしの一族をあなたは圧倒し
わたしを絞り上げられます。」(8a節)
「絞り上げる」とは、雑巾を絞ると皺が寄り、水気が絞り落とされるように、財産も、子供らも、喜びも、楽しみも、未来も、何もかも絞り落とされ、ヨブの身はやせ衰え、弱々しく、みずぼらしくなってしまったということです。
「このわたしの姿が証人となり、
わたしに代わって抗議するでしょう。」(8b節)
わたしをこんな姿にしたのは、神様、あなたではないですか。あなたが圧倒的な力で私をそのようにしたのです。と、ヨブは訴えるのです。しかし、このよう遠慮なく神様に心の底をぶちまけることができるということ、これが信仰者には大切なのではないでしょうか。
次の9-17節は、ヨブがどんな惨めで辛い経験をしているか、ということが切々と訴えられています。それだけではなく、「神がわたしを餌食とし」(9節)、「神は悪を行う者にわたしを引き渡し」(11節)、「平穏に暮らしていたわたしを神は打ち砕き」(12節)、「神は戦士のように挑みかかり」(14節)というように、私をこんな目に遭わせたのは神様だ、いったい、どうしてなのか、と訴えているのです。
「わたしは粗布を肌に縫い付け、
わたしの角と共に塵の中に倒れ伏した。」(15節)
「粗布を肌に縫いつけ」というのは、皮膚病(おそらく象皮病)によって、ヨブの全身がただれて黒ずんだ皮膚で覆われてしまったことと、悲しみの表現であった「粗布をまとう」を掛け合わせて表現しているのでありましょう。「わたしの角」というのは、別にヨブに角が生えていたわけではなく、ヨブの力を表現する言葉です。反対に「塵」は無力さや儚さの象徴です。つまり、ヨブはまったく力つきて、威厳もなにも失って、無力さや儚さの中に倒れ伏してしまったということです。
「泣きはらした顔は赤く、
死の闇がまぶたのくまどりとなった。」(16節)
これは何の説明もいらないでしょう。男が泣くというのはよほどのことです。そのヨブが泣きはらして顔を赤くしています。目の下にはどす黒い隈が出来ています。
「わたしの手には不法もなく、
わたしの祈りは清かったのに。」(17節)
ヨブが受けている苦しみは、罪の刑罰としての苦しみではありませんでした。逆にヨブの正しさを証明するための試練であったのです。しかし、その理由がヨブには示されていませんから、ヨブの苦しみは倍増します。 |
|
|
|
|
ところで、ヨブは、このように「なぜですか」と、神様に激しく抗弁する一方で、通常ではちょっと理解しがたい神秘的な希望について語ります。それは最初、9章32-35節に出てきました。
「このように、人間ともいえないような者だが、
わたしはなお、あの方に言い返したい。
あの方と共に裁きの座に出ることができるなら。
あの方とわたしの間を調停してくれる者、
仲裁する者がいるなら。
わたしの上から
あの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら。
その時には、あの方の怒りに脅かされることなく、
恐れることなくわたしは宣言するだろう。
わたしは正当に扱われていない、と。」
「あの方」というのは神様のことであり、ヨブは「裁判に出て神様に言い返したい」ということを、ここで言っているのです。しかし、天の裁判長は神様でありますから、神様を訴えるということは不可能なことなのです。ところが、ヨブは、「もし、神様とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら。」ということを言っています。ヨブが神様に訴えることはできないけれども、ヨブの味方となって、ヨブと神様の間に立ってくれる方がいたらいいのに、というそういう望みがここに語られています。
ここでは、それはヨブの勝手な願望であるかのように書かれていますが、今日のところを見ますと、19-20節をみますと、さらにその思いが発展した形で表現されています。
「このような時にも、見よ、
天にはわたしのために証人があり、
高い天にはわたしを弁護してくださる方がある。
わたしのために執り成す方、わたしの友、
神を仰いでわたしの目は涙を流す。
人とその友の間を裁くように、
神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように。」
9章では「そんな方がいたらいいのに」という仲裁者の存在への願望であったものが、16章では「天にはわたしの証人となり、わたしの弁護者となってくださる御方がおられる」という確信に近い希望になっています。
しかも、それは神様ご自身であるというのです。
「わたしのために執り成す方、わたしの友、
神を仰いでわたしの目は涙を流す。」
このように、先ほどまで神様を敵として抗弁していたのが、一転して神様を天の友と呼んでいます。神様こそわたしを理解してくださり、わたしを弁護してくださり、わたしの傷を包んでくださる御方であるというのです。別の言い方をすれば、自分を徹底的に責める敵なる神様の奥に、なおも自分を正しく理解してくださり、私を癒してくださる友なる神の存在を信じているのです。そして、神様に痛めつけられても、痛めつけられても、厳しき神様の中に友なる神を仰いで涙を流しているというのです。
苦難の中にありながらも、なおも深く神様の懐に飛び込んで、友なる神を見ることができたヨブ、神様はこのヨブを見てどんなに誇らしく思ったことでありましょうか。その傍らでサタンはどんなに悔しい思いをしていることでありましょうか。神様は、このようにサタンを辱め、ヨブを誇るためにこそヨブを苦難の中に委ねられたのです。そして、ヨブは見事に神様に答えているのを、ここに見ることができます。 |
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|