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15章からヨブの三人の友人の議論が第二ラウンドに入ります。さに、議論はさしたる内容の発展もないまま第三ランドまで繰り返されるわけでして、それが『ヨブ記』のうんざりするような「長さ」の原因となっています。しかし、この長さこそヨブが直面している苦難の何たるかを示しているのです。つまり、ヨブの苦難とは財産を失ったこと、子供たちを失ったこと、健康を損ったことなどがありますが、これらは苦難の大きさを示す事柄ではありますが、苦難の本質ではありません。苦難の本質は、生きる意味の喪失、別の言い方をすれば希望の喪失にあるのです。
人間は希望さえあれば、どのような苦難にも耐える力をもっています。たとえば、自分が死ぬことによって愛する人を救うことができるという希望があれば、死を恐れぬ行動に出ることもできるのです。しかし、希望を失った人間は何気ない日常生活ですら苦痛で耐え難いものに感じてしまうのです。
ヨブはなぜ希望を失ってしまったのでしょうか。ヨブは財産と子供らを失ったとき、このように言いました。
「わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。」(1章21節)
健康を損なった時にも、なおこのように言うことができました。
「神から幸福をいただいたのだから、
不幸もいただこうではないか。」(2章10節)
このようなヨブの言葉は、財産失っても、子供達を失っても、病を得ても、決して希望を失わなかったヨブの心の強さを言い表しているのです。そして、このヨブの心の強さはどこから来るものであるかと言えば、神の愛や善意に対する信頼から、つまるヨブの神への信仰からなのです。
しかし、そのようなヨブの強い信仰が揺らぎ、希望が萎えていってしまったのは何故かといえば、祈っても、祈っても、神様が答えてくださらないという、「神の沈黙」によってなのです。ヨブは苦しみの理由を問い、生きる意味を問い、神に叫び続けます。もし、神様が一言でもヨブに答えてくださるならば、ヨブはそこに光明を見出し、どのような苦難にも耐える力を回復することができたでありましょう。しかし、神は沈黙を守っておられます。その神の沈黙の中で、ヨブの時間はとまってしまっています。いつ明けるとも知れない夜の長さの中で、ヨブはすっかりを希望を失ってしまっています。呼んでも呼んでも答えてくださらない神、これこそ、ヨブの苦しみの本質なのです。
内容の発展がないどころか、ますます泥沼にはまっていくような空しい議論を三回も繰り返されているのは、その苦しみの深さ、長さを物語っているのです。
ヨブが、神を挑発するような言い方をするのは、決して不信仰の故ではありません。否、むしろ、どんなに深い神の沈黙の中にあっても、神の存在を信じ、神の言葉を待ち続けるヨブの信仰であり、祈りでありました。しかし、ヨブの友人らにはそれが分かりません。ヨブの傲慢、無知、不遜から来る言葉にしか聞こえないのです。
エリファズは言います。
「あなたは神を畏れ敬うことを捨て
嘆き訴えることをやめた」(15章4節)
エリファズは、ヨブの信仰の戦いと祈りをまったく理解できていないのです。さて、ここまでが前回のお話しのです。今日は7節から、エリファズの言葉を見て参りましょう。 |
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「あなたは最初の人間として生まれたのか。
山より先に生まれたのか。
神の奥義を聞き、知恵を自分のものとしたのか。
あなたの知っていることで、
わたしたちの知らないことがあろうか。
わたしたちには及びもつかないことを、
あなたが悟れるというのか。」(7-9)
あなたは神のごとき人間なのか、私たちの誠心誠意の知恵と慰めの言葉を否定するほどお偉い人間なのかと、自分たちの言葉を頑として聞き入れないヨブを、エリファズは強く非難しています。
しかし、ヨブは「あなたがたに劣っていない」(12章3節)とはいいましたが、「あなたがたの及びもつかないことを知っている」とは言っていませんでした。つまり、エリファズは、「あなたと同じぐらいの知恵は持っている」と言ったヨブの言葉は、「あなた以上の知恵をもっている」という風に曲解して聞き取ってしまっていたのです。
私たちも十分に気をつけないと、このような過ちを犯ししてしまうことがあります。このような間違いが耳で聞き間違えるというよりも、心で聞き間違えてしまうのです。エリファズは親切でヨブに語りかけたに違いありません。しかし、その気持ちの背後には、応報主義がありました。つまり、苦しみに遭っているヨブは「罪人」であり、平穏な自分は「義人」であるという考えです。そのような考えが妨げとなって、ヨブの言葉や真意をまっすぐに聞き取れなくなってしまっているのではないでしょうか。
「わたしたちの中には白髪の老人もあり、
あなたの父より年上の者もある。
神の慰めなどは取るに足らない。
優しい言葉は役に立たない、というのか。
なぜ、あなたは取り乱すのか。
なぜ、あなたの目つきはいらだっているのか。
神に向かって憤りを返し、
そんな言葉を口に出すとは何事か。」(10-13)
エリファズは、「年長者の言うことを軽んじるのか」と、ヨブを諫めています。確かに、年長者の知恵は軽んじるべきではありません。が、人生の過ごし方、生き方によってその内容は違ってくるわけでありまして、必ずしも年長者が若者よりも正しいとは言えないことがあるのです。たとえば、自分の経験に固執し、そこからしか物事を見ようとしないために、新しい経験をなかなか受け入れられないとか、新鮮な洞察力を失うという危険があります。あるいは自己保身の術ばかりが長けてしまい、たとえ間違っていてもそこから脱することができないという危険もあるのです。
いつもながらのことですが、内村鑑三の注釈が素晴らしいので引用したいと思います。
「彼エリパズのたのむところは彼の高齢にあり。彼の長き生涯の経験にあり。彼は知恵は齢(よわい)にありと信ず。彼は神より直接に来る深き知恵のあることを知らず。ゆえにヨブを戒むるに傲慢無礼をもってす。あわれむべし、エリパズは白髪のゆえをもって神の深き事に関する自己の無識を覆わんとす。白髪あに必ずしも信仰の徴ならんや。神に導かれし者のみ、よく神の事を知るなり。古老あに必ずしも信仰の先導者ならんや」
また、ここでもう一つ興味深いのは、エリファズは一生懸命に神の慰めを優しく語っているつもりでしたが、ヨブにとってそれは神の慰めでも何でもなかったという気持ちのすれ違いがあったということです。エリファズは決して悪人ではないのですが、ヨブの本当の苦しみを理解できなかったのです。それゆえに、彼に語るべき慰めの言葉を間違えてしまい、その優しさはむしろヨブをいらつかせるものになってしまったというわけです。 |
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さらにエリファズがいけなかったのは、自分が神の代弁者であるかのように思っているところです。自分の慰めを受け入れないヨブに対して、神の慰めを取るにならないというのか、憤っています。このような態度が、ヨブを苦しめ、苛立たせているのです。
ヨブが健康であったならば、そのようなエリファズの心得違いをも大きな心で許すことができたに違いありません。しかし、苦しみの最中にある人は、他人のことを思いやる余裕がないのが当然で、それができる人はすでに自分の苦しみをある程度乗り越えている人なのです。ですから、慰めというのは、慰める側がよほど思いやりをもって語らなければならないということでありましょう。
「どうして、人が清くありえよう。
どうして、女から生まれた者が、正しくありえよう。
神は聖なる人々をも信頼なさらず、
天すら、神の目には清くない。
まして人間は、水を飲むように不正を飲む者、
憎むべき汚れた者なのだ。」(14-16節)
人間はだれも罪人である、これだけを読めば、これは聖書全体にも通じる正しい思想です。誰も認めなければならない真理です。たとえば、ヨブ自身も同じ事を言っているのです。
「人は女から生まれ、人生は短く、
苦しみは絶えない。
花のように咲き出ては、しおれ、
影のように移ろい、永らえることはない。
あなたが御目を開いて見ておられるのは、
このような者なのです。
このようなわたしをあなたに対して、
裁きの座に引き出されるのですか。
汚れたものから清いものを、
引き出すことができましょうか。
だれひとりできないのです。」(14章1-4節)
ヨブはこのことを神に向かって語ります。つまり、自分が罪深いものとして、正しくあり得ないものであることを語り、それになのにどうして神様はわたしに潔癖なまでの正しさを要求されるのかと訴えているのです。
エリファズは違います。エリファズは、「自分もまた罪人の一人である」ということは棚上げして、ヨブに罪を認めさせるために「人間はみな罪人なのだ」と語るのです。つまり、先ほどもいいましたが、エリファズは神の代弁者になろうとしているのであって、そこに大きな間違いがあるわけです。 |
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以上のようにヨブの傲慢・不遜に対する不快感を厳しく言い表したエリファズが、17節から神を畏れ敬わない不信仰者たちの行く末について持論を展開します。これはヨブへの警告のつもりなのですが、彼はヨブの信仰を信仰と認められないというところから出発をしているわけですから、当然、ヨブの心には届きません。
「あなたに語ろう、聞きなさい。
わたしに示されたことを告げよう。
それは賢者たちの示したところ、
それを彼らの父祖も隠さなかった。
これらの父祖にのみ、この地は与えられており、
異国の者が侵すことはなかった。」(17-19節)
エリファズは非常に自信に満ちて、それを語り出します。この自信は、「わたしに示されたことである。しかも賢者たちの教えに一致するところである」とありますように、エリファズ自身の霊的な深い体験から来た知識であるということのようです。
この霊的体験については1回目のエリファズの言葉の中にあった神秘体験(4章12節以下)のことでありましょう。しかし、神秘体験というのは、神様が信仰者に個人的に示してくださる出来事です。個人にとっては深い意味があり、重要な体験であるに違いありませんが、それを一般化して、「これはわたしが神に示されたことだ。だから、誰にとっても正しいことなのだ」と言ってしまうと、非常に一面的な信仰に陥ってしまう危険があるのです。
神様は、人によって色々な表れ方をします。その恵みの体験は一方的に人に押しつけるのではなく、互いに分かち合って、神様をたたえ合うということが大切なのではないでしょうか。
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「さて人の一生は不安に満ち、
暴虐な者の生きる年数も限られている。
その耳には恐ろしい騒音が響く。
平安のさなかに略奪者が彼を襲うのだ。
暗黒を逃れうるとはもう信じられない。
彼の前には剣が待つのみだ。
彼はパンを求めてどことも知らずにさまよい、
暗黒の訪れる時が間近いことを知る。
苦しみと悩みが彼を脅かし、
戦いを挑む王のように攻めかかる。」(20-24節)
エリファズは、悪人は短命であり、平安なく、恐怖にさいなまされ、ついに餓死をし、様々な苦しみと悩みに脅かされて一生を送るのだと、一気に語ります。
「彼は神に手向かい、
全能者に対して傲慢にふるまい、
厚い盾をかざして、頑に神に向かって突進した。
顔は脂ぎって、腰にはぜい肉がついていたが、
滅ぼされた町、無人となった家、
瓦礫となる運命にある所に、
彼は住まねばならないであろう。
再び富むことなく、力も永らえず、
その家畜は地に広がらない。
彼は暗黒から逃れられない。
熱風がその若枝を枯らし、
神の口の息が吹き払う。」(25-30節)
神に逆らう者は破滅の道を進んでいるのだ、神がそのような者を許しておかれないのだということが語られています。
このように、エリファズは悪人の破滅というものを信じて疑っていないようでありますが、これは真理の一面にすぎず、すべてではありません。なぜなら、義人もまた傷つけられることがあり、飢えることがあり、多くの艱難の中に生きることがあるのだということを、エリファズは語らないからです。
イエス様のご生涯をみますと、イエス様は神様にまったく従順でありましたが、罪人の仲間に数えられ、枕するところもなく一生を過ごされ、仲間に裏切られ、孤独を味わい、十字架にはりつけにされました。しかし、その十字架を見て、ローマの百人隊長は「この人はまことに神の子であった」と告白したのです。このような義人の苦難、十字架の福音というものがあることをエリファズは未だ知りません。
それは仕方がないとしても、自分の思想にとらわれず、世の現実というものをあるがままに見ようとしたならば、短命か長命か、豊かであるか貧しいか、試練が多いか少ないか、そのようなことで善人と悪人を区別できないということが分かりそうなものです。しかし、エリファズはそれが分かりませんでした。彼の語るところは、彼の理想に過ぎなかったのです。
「惑わされてむなしいものを信じるな。
その報いはむなしい。
時が来る前に枯れ、枝はその緑を失う。
未熟な実を荒らされるぶどうの木、
花を落とすオリーブの木のようになる。
神を無視する者の一族に子は生まれず、
賄賂を好む者の天幕は火に焼き尽くされる。
彼は苦しみをはらみ、災いを生む。
その腹は欺きをはぐくむ。」(31-35節)
エリファズの信仰の正しい一面は、神の裁きを信じているということです。それはその通りでありますが、神の裁きというのは必ずしも現世においてくだされるとは限りません。エリファズに足りないのは、見えないものを信じる信仰ではありませんでしょうか。ヨブの一見、不信仰と思える中に、まことの信仰が隠されているということ。神の裁きとしか思えないような苦しみの中に、実は神様の愛が隠されているということ。そのような見えないものを信じるのが、まことの信仰なのです。 |
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(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
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