ヨブ物語 22
「苦しみはいつまで続くのか」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記15章1-6節
苦しみはいつまで続くのか
 15章から21章までは、ヨブと三人の友の議論の第二ラウンドになります。といっても、その内容に劇的な変化があるわけではなく、再びエリファズ、ビルダト、ツォファルが順番にヨブに同じような意見を述べ、ヨブがそれに反論するという形が繰り返さるのです。実は第二ランドが終わりますと、さらに同じような第三ラウンドがあります。

 いつであったか、この学び会で「ヨブ記は長い」という感想を述べられた方がありました。「長い」というのは、単に長編であるということを言われたではありません。内容的に進展がないままダラダラと続いているということなのです。正直に言うと、私もそろそろヨブ記のダラダラ感が苦痛になってきています。これから第二ラウンドが始まり、さらには第三ランドまであるのです!

 しかし、人間の苦難を取り扱った『ヨブ記』が、読者にまで苦痛を与えるという事実こそが、この書物の持つ凄みだとは言えなくもありません。決して冗談や皮肉ではなく、内容的な進展のないままダラダラと続くというのは、ある意味で苦難の本質をついたことだと言えるからです。

 今は天国にいらっしゃるKさんが入院していらっしゃるときのことです。病院に行きますと、「先生、見てください」と言って一冊の手帳を取り出し、目的の場所を開こうとしてぱらぱらとめくられました。覗いてみると、一ページに一週間分の日付が入った普通の手帳です。入院しているわけですから、予定などあるわけがありません。みると、やはり何も書かれていません。しかし、Kさんはあるページを開いて、私に見せてくださいました。すると、ある日付の欄に「退院」と大きな字で書かれていたのです。「ああ、退院が決まったのですね」と、私は喜びました。するとKさんは、「いや、決まったわけではありません。これは私の予定です。予定がなければ張り合いがないでしょう」と説明してくれたのでした。

 Kさんは気持ちを察して胸が痛みました。人間にとって「病む」というのは、「止む」ことです。Kさんの予定表は、入院した途端に真っ白になってしまいました。病気というのは、このように私たちの人生をストップさせてしまうのです。一日や二日ならば、それも良い休息でありましょう。しかし、大病をしますと、本当にもう一度動き出すときがくるのだろうか、いつまで待ったらいいのだろうか、と際限なく不安は増加していきます。

 この不安をくい止めるために、Kさんは自分で目標を立てて真っ白な予定表にそれを書き込んだのです。それは、もう一度病から立ち上がるぞという強い意志と希望の表れであったと思います。結局、Kさんの予定は実現しませんでした。しかし、Kさんは最期まで希望を失わず病気と戦い続けることができました。

 病気に限らず、自分の人生が悩みや苦痛のある地点からまったく進み出せない状況に陥ってしまうということがあります。悲しみとか、憎しみとか、骨肉の争いとか、悪癖とか、借金とか、自分の人生が抜け出したくても抜け出せない所に陥ってしまうことがあります。叫んでも、もがいても状況は変わりません。その長い夜が永遠に続くかのように思えてきます。そこに、人間の耐えられない苦痛、苦難とうものが存在するのだと思います。

 『ヨブ記』の進展のなさ、同じ議論の繰り返しというのは、まさに苦難というものが何であるかということを表しているとはそういうことなのです。読者は、その繰り返しにもどかしさを感じながら、ヨブの体験した苦難の深さというものを追体験できる仕組みになっている、それが『ヨブ記』の凄みなのです。
丸裸の真実
 というわけで、気を取り直して第二ランドを読み進んで参りたいと思います。第二ラウンドも第一ランドと同様の順番で、まずエリファズから語り始められます。

 「知恵ある者が空虚な意見を述べたり、
  その腹を東風で満たしたりするであろうか。
  無益な言葉をもって論じたり、
  役に立たない論議を重ねたりするであろうか。」(2-3)

 ヨブが一生懸命に訴えたことに対して、エリファズは「空虚な意見」、「無益な言葉」、「役に立たない議論」と言い切っています。なんと連れない言葉でしょうか。ある方が、相談というのは「そうだ、そうだ」と話を一緒に聞いてあげるから、「そうだん」というのだと言っていましたが、そういう優しさがエリファズにはなくなってしまっています。

 さらにエリファズは、ヨブの腹の中は東風で一杯だというようなことを言います。「東風」とはシロッコと呼ばれる砂漠地帯から吹いている風のことで「植物を枯らし、人間を窒息させる熱い死の風」とも言われているそうです。つまり、ヨブが腹の底から必死になって友人たちに語りかけた言葉は、シロッコのように荒々しく吹き荒れて、それを聞いた人々の息苦しくさせ、そのみずみずしい生命をカラカラにして枯らしてしまう毒のような言葉だという意味です。

 ここにエリファズの本音がありましょう。つまり、彼はヨブの言葉を空虚だとか、無益だとか攻撃しながら、実はまるで熱風にあたったような息苦しさ、まともに受けとめたら自分が倒されてしまう重苦しさを感じ、相当な不安やダメージを受けているのです。

 ヨブの言葉は、確かにお行儀が良く、聞き心地の良い言葉ではありません。雑であったり、乱暴であったり、言い過ぎであったりする感がするのは否めません。しかし、それはヨブが愚かだからではなく、自分を丸裸にして語っているからです。どこかで自分を誤魔化している人間は、このような言葉に耐えられません。そのような丸裸の真実に処する方法はたった一つしかなく、それは自分自身も欺瞞を捨てて丸裸になってぶつかることなのです。

 しかし、自分を丸裸にするということは簡単ではありません。悪いところも、弱いところもすべてをさらけ出すということですから、それをしないで済ませるためには頭ごなしに相手を否定し、受け付けないという方法を取らざるを得ないのです。

 最近、『ヤンキー母校に生きる』という本を読みました。北星学園余市高等学校の教諭の義家弘介さんが書いた本です。北星学園余市高等学校はミッションスクールですが、全国から中退者を受け入れるという特徴ある教育をしている学校です。不登校とか、引きこもりとか、落ちこぼれとか、不良であるとか、一度大きな失敗をして家を追い出されたり、学校を追い出されたりしてきた子供たちが、自分の居場所を求めて全国からやってくると言います。義家先生自身もかつてヤンキーであり、この北星学園余市高校にたどりついて、やっと自分の生きる道を見出したという経験をもっています。

 この本に書かれているのは、まさに生徒と先生が丸裸になって激突しながら、自分の生き方を見つけていくとう物語なのです。最初は、生徒たちは先生を信用しません。いくら先生が真剣にぶつかっていても、無視をしたり、反抗をしたりするばかりなのです。しかし、この義家先生は決して逃げないで彼らにぶつかっていきます。時には乱暴な言葉でどなりながら、良いことは良い、悪いことは悪いということを真剣にぶつけていくと、だんだん彼らの方も本音をぶつけてくるようになるのだそうです。そういう衝突を経た後、やっと先生と生徒という関係が成り立つというのです。

 また、義家先生はこういう事もいいます。彼らがドロップアウトしてしまったのは、彼らが丸裸になって大人たちに訴えたときに、それを真剣になって受けとめてくれる親や先生がいなかったからだと。彼らを頭ごなしに説教をしたり、物わかりのいい振りをして無責任にほったらかしたり、うやむやにして逃げてしまったりしたからだというのです。
自分を守ろうとするエリファズ

 「あなたは神を畏れ敬うことを捨て、
  嘆き訴えることをやめた。
  あなたの口は罪に導かれて語り、
  舌はこざかしい論法を選ぶ。
  あなたを罪に定めるのはわたしではなく、
  あなた自身の口だ。
  あなたの唇があなたに不利な答えをするのだ。」(4-6)

 このエリファズの言葉は、まさに手に負えない子供たちに対して、ずるく、したたかに振る舞おうとする大人たちの言葉に通じるものがあるのではないでしょうか。ヨブがあんなに嘆き訴えているのに、エリファズは「あなたは神を畏れ敬うことを捨て、嘆き訴えることをやめた」と言います。君は神様に文句ばかり言って、神に祈ることをやめてしまったと言っているのです。

 どうして、エリファズにはヨブの心の叫びを、彼の真実の祈りとして認められなかったのでしょうか。それは、ヨブの言葉が神様に対して反抗的に聞こえたからです。しかし、ヨブは反抗しているのではなく、問うているのです。正しい人が苦しめられるのはどうしてなのか、それも神様にとって正しいことなのですかということを真剣に問い、その答えを求めているのです。

 それがエリファズには理解できませんでした。いや、理解しようとしなかったのです。「正しい人が苦しむ」というヨブの主張を認めたら、エリファズの因果応報の信条が崩れ、エリファズ自身も何の答えを持たない人間になってしまうからです。

 もしヨブの主張を聞いて、自分にもその答えが分からないと思ったら、ヨブと一緒に神に尋ね求める者になれば良かったのです。それが友人としてエリファズのなすべきことでした。エリファズはそれをしませんでした。そして、自分を守るために、ヨブを不信仰と決めつけ、苦しんでいる友人の心情を理解しようとしないばかりか、無益な言葉だとか、小賢しい論法だと、冷酷に言ってのける者になってしまったのです。

 信仰とは、教理・信条を鵜呑みに信じることではなく、神様との人格的な関係をもつことです。人格的な関係とは、呼べば応えるという関係です。ヨブが求めていたのは、このような神様との人格的な交わりでありました。分からないことを神様に問い、神様の答えを聞きたい。神様に自分を問うてもらって、自分の言い分を聞いてもらいたい。そういう神様との交わりを求めていたのです。

 「そして、呼んでください、お答えします。
  わたしに語らせてください、返事をしてください。
  罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。
  わたしの罪咎を示してください。
  なぜ、あなたは御顔を隠し、
  わたしを敵と見なされるのですか。」(13章21-22節)

 これこそ本当の信仰なのです。しかし、エリファズは、教理・信条を守ることが信仰だと思っています。教理・信条というのは、絶対的な答えでありまして、それ以外の答えとか、それ以上の答えというものがあってはならないと考えるのです。ですから、そういうものを求めるヨブは不信仰だと決めつけるわけです。このような非人格的な信仰は、人に対しても冷酷になりますから恐ろしいのです。
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