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前回は19節までをお読みしました。ヨブは友人たちに「どうか黙ってくれ」(4,13節)と頼みます。そして、「わたしは神に向かって申し立てたい」(3節)と、神ご自身と語り、神ご自身の答えをいただきたいのだと主張するのです。20節からはヨブの神様への訴えです。
「ただ、やめていただきたいことが二つあります。
御前から逃げ隠れはいたしませんから。
わたしの上から御手を遠ざけてください。
御腕をもって脅かすのをやめてください。
そして、呼んでください、お答えします。
わたしに語らせてください、返事をしてください。
罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。
わたしの罪咎を示してください。」(20-23節)
ヨブは、苦難の理由を知りたいと訴えているのです。理由の分からない苦難ほど辛いものはありません。自分は逃げも隠れもしないから、どうかこの休まることのない苦しみを一度和らげて、神様とじっくりと対話をさせてくださいということです。
「なぜ、あなたは御顔を隠し、
わたしを敵と見なされるのですか。」(24)
「御顔を隠される」とは、神様がヨブの訴えを無視しているということです。ちゃんと私の訴えを聞き、私を見て答えてくれ、ということです。神様は、決して無視をしているわけではないのですが、ヨブに対して沈黙を守り続けておられますから、ヨブは「御顔を隠される」と感じてしまうのです。
「風に舞う木の葉のようなわたしをなお震えさせ、
乾いたもみ殻のようなわたしを追いまわされる。」(25)
木の葉も、乾いたもみ殻も、ひと息で吹き散らされてしまうような「軽い存在」です。ヨブは、自分もそれと同じだといっているのです。「存在の軽さ」と言った方がよいかもしれません。神様の前には取るに足らぬ無きに等しいものなのに、神様はどうしてこんなに私を執拗に追いつめられるのか、あまりにも苛酷ではないかというのです。
「わたしに対して苦い定めを書き記し、
若い日の罪をも今なお負わせられる。」(26)
「苦い定め」とは罪状書きのことでしょう。「若い日の罪」は、若気の至りともいように大目に見られても良いはずです。しかし、神様はそれを容赦せず、余すことなく私に負わせようと言うのですかと、神様の無慈悲を訴えているのです。
「わたしに足枷をはめ、行く道を見張り続け、
一歩一歩の跡を刻みつけておかれる。
このようにされれば
だれでもしみに食われた衣のようになり、
朽ち果てるほかはありません。」 (27-28)
神様は、まるで私を囚人のように監視している。どんな些細なことにも目を光らせ、許そうとはなさらない。ヨブは、なんて神様は意地悪なのだろうと言っています。
しかし、このような嘆きの言葉を吐きつつも、ヨブは決して「神も仏もあるものか」というような言い方をしないことに驚かされます。あくまでも神様に対して真実な信仰者としての態度を変えないのです。もちろん、弱音は出てきます。神様に疑問を呈するということもあります。しかし、神様に向き合って生きようとする真実さは決して失われていません。
悪魔は「ヨブは利益もないのに神を敬うでしょうか」と、神に訴えました。しかし、ヨブは、悪魔の予想に反してどんなに苦しい目にあっても、なお信仰者としての態度を貫いているわけです。 |
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14章はヨブの哀歌です。
「人は女から生まれ、」(1a)
「女」とは弱く脆い存在を意味しています。こんな風にいうと男女差別だと怒られそうですが、そうではありません。男であっても、その弱き存在から生まれるのですから同じ事だと、ヨブは言っているのです。
「人生は短く、苦しみは絶えない。
花のように咲き出ては、しおれ、
影のように移ろい、永らえることはない。」(1b-2)
人間の一生のはかなさについての言葉です。鴨長明「方丈記」の一節、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」を思わるような言葉です。
「あなたが御目を開いて見ておられるのは、
このような者なのです。
このようなわたしをあなたに対して、
裁きの座に引き出されるのですか。」(3)
人間は弱くはかない存在に過ぎません。そのような人間に対して、神様は目を見開いて、どんなに罪をも見逃さずに追及されるというのは、大人げないではないですか、というヨブの不満の言葉です。
「汚れたものから清いものを引き出すことができましょうか。
だれひとりできないのです。」(4)
人間はもともと汚れたものなのだから、これに清さを期待するのは、人間にもってないものを求める不当な要求だと言います。できないことをしろとか、もっていないものを出せというのは、無理な話です。できなくても罪はないし、出せなくても罪はありません。だから、自分は間違っていないと、ヨブは主張するのです。
「人生はあなたが定められたとおり、
月日の数もあなた次第。
あなたの決定されたことを人は侵せない。」(5)
ヨブは単に人生のはかさなを嘆いているのではありません。神様が人間の人生に決定的な力をもっているのに対し、私たちは自分の人生であるのに何も出来ないで、ただ神様の決められたとおりに受け入れるしかない。このように神様と人間とはまったく格が違うのです。それなのに、人間に神のようでありなさいと要求するのは神の横暴ではないか。人間は人間として、つまりはかなき弱きものとして扱ってくださいということです。
「御目をこのような人間からそらせてください。
彼の命は絶え、傭兵のようにその日を喜ぶでしょう。」(6)
「御目を・・・そらせてください」とは、せめて一時の休息をお与え下さいということです。
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「木には希望がある、というように、
木は切られても、また新芽を吹き、
若枝の絶えることはない。
地におろしたその根が老い、
幹が朽ちて、塵に返ろうとも水気にあえば、
また芽を吹き、苗木のように枝を張る。」(7-9節)
木には希望がある、というのは面白い言い方です。確かに木というのは秋になると、葉っぱを枯落ち、冬にはまる裸になってしまいます。しかし、一見枯れてしまったように見えても、また春には新芽を吹き出します。
「だが、人間は死んで横たわる。
息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。」(10節)
木には希望があるのに対して、人間は死んで横たわれば、それっきりです。キリスト教信仰では復活ということがあるのですが、キリストを知らないヨブはその復活の希望がありません。
「海の水が涸れ、
川の流れが尽きて干上がることもあろう。
だが、倒れ伏した人間は、
再び立ち上がることなく、
天の続くかぎりは
その眠りから覚めることがない。」(11-12節)
本当に海の水が涸れるようなことがあるのでしょうか。よくわかりませんが、海の水がたとえ涸れたとしても、それはまた雨となって戻ってくると言えます。しかし、人間は再び立ち上がることはありません。
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「どうか、わたしを陰府に隠してください。
あなたの怒りがやむときまで、
わたしを覆い隠してください。
しかし、時を定めてください。
わたしを思い起こす時を。
人は死んでしまえば、
もう生きなくてもよいのです。
苦役のようなわたしの人生ですから、
交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。」(13-14節)
「死んだらお終いだ」という死へを不安を語りながら、ヨブは「わたしを陰府にかくしてください」と言います。陰府とは死んだ人がゆくところです。では、ヨブは死を願っているのでしょうか。確かに、生きる苦しみから解放されたいと願っていますが、決して自分が無に帰してしまうということを願っているのではありません。
ですから、「しかし、時を定めてください」というのです。「交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます」とも言われています。「交替の時」というのは兵士が戦いから解放されるとき、奴隷が苦役から解放される時ということをいっているのでしょう。一時的に、この苦しみに満ちた生から解放し、そして、再び私を思い起こしてくださいという意味です。
ヨブが願っているのは死であり、また生です。苦役の生に死に、新しい命に生きるということなのです。ヨブには復活の希望がないと言いました。確かに、復活があるという確信はありません。しかし、ヨブは復活以外に自分には希望も救いもないとも感じ取っているのです。
「呼んでください、わたしはお答えします。
御手の業であるわたしを尋ね求めてください。
その時には、わたしの歩みを数えてください。
わたしの過ちにもはや固執することなく、
わたしの罪を袋の中に封じ込め、
わたしの悪を塗り隠してください。」(15-17節)
罪を厳しく責められる神様としてではなく、すべての罪を覆ってくださる恵みの神であることを求めています。そういう日がくるならば、ヨブは陰府に降って、その日を待ち望みたいというのです。 |
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「しかし、山が崩れ去り、
岩がその場から移され、
水が石を打ち砕き、
大地が塵となって押し流される・・・」(18-19節)
ヨブは一瞬、希望を持ちかけましたが、現実の苦難の前にあえなくその希望は押しつぶされてしまいます。「山」とか、「岩」とか、「石」とか、「大地」というのは、揺るぎないものの譬えです。しかし、神の厳しい御手は、そのようなものの打ち砕かれます。
「大地が塵となって押し流される時が来ても、
人の望みはあなたに絶たれたままだ。
あなたは人をいつまでも攻め、追いやられる。
あなたは彼の顔かたちを変えて、追い払われる。
その子らが名誉を得ても、彼は知ることなく、
彼らが不幸になっても、もう悟らない。
彼はひとり、その肉の痛みに耐え、
魂の嘆きを忍ぶだけだ。」(19-22節)
神様が人間の望みを絶たれてしまうのだという嘆きが込められた言葉です。世の無常、人生のはかさな、死への不安、かすかな希望さえも打ち砕く現実の苦しみ・・・ヨブは人生を嘆きます。
これほどまで嘆きつつも、なおヨブの顔が神様に向いており、ヨブの言葉が神様に向かっているというのは、本当に驚くべき事です。ヨブの苦しみを側で見かねた妻は、「神を呪って死になさい」と言いましたが、このような絶望の中にあっても、ヨブは決してそのような気持ちになれないのです。それは神が自分に何かをしてくれるからではなく、神が神であるがゆえに、としかいいようのないヨブの信仰でありました。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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