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『コリントの信徒への手紙1』1章19節で、このような神様の言葉が語られています。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さを意味のないものにする。」
神様は人間の知恵を愚かなものにされるというのです。自分の知恵を誇っている人間たちが、神の知恵の深さを思い知るために、敢えて神様が知者の裏をかくようなことをされる。ヨブの体験はまさにそれでした。
誰でも正しい人は神様に祝福され、悪い人はサタンの手に渡されると考えます。ところが、ヨブは正しい人であるが故にサタンの手に渡されたのです。このようなことは誰にも理解できないことです。ヨブの友人たちが、あまりの惨状に驚いて、「君はいったいどんな悪いことをしたのか。はやく悔い改めて赦して頂きなさい」と忠告するのも無理からぬ事でありましょう。
ヨブはそんな友人らに向かってこう言います。
「そんなことはみな、わたしもこの目で見、
この耳で聞いて、よく分かっている。
あなたたちの知っていることぐらいは、
わたしも知っている。
あなたたちに劣ってはいない。」
「この目で見、耳で聞いて、よく分かっている」とは、自らの体験を通して理解しているということです。体験して分かったことというのは、ただ勉強して身に付けたことよりも、ずっと重みも深みもあることです。本物の知恵ということができるでしょう。わたしたちも「この目で見たのだから絶対だ」とか、「この耳で聞いたのだから絶対だ」と言ったりすることもあるのではないでしょうか。しかし、イエス様が「あなたがたが見えると言い張るところに罪がある」(ヨハネ9:41)と言われたことを忘れてはなりません。
どんな人間も自分を絶対化した途端に過ちの中に陥ってしまうのです。ヨブや友人たちの場合もそうでした。自分の正しさや知恵というのは、体験的に言えば本当に確かなことだったと思います。しかし、それを絶対的なものとし、他者の体験を否定するために、友人たちはヨブの気持ちがさっぱり理解できなくなってしまいます。同じようにヨブも、神様の御心がさっぱり理解できなくなってしまうのです。 |
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そんな苛立ちからでしょうか。ヨブは友人たちに向かって、ずいぶん傲慢な口を利きます。
「わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
わたしは神に向かって申し立てたい。
あなたたちは皆、偽りの薬を塗る、
役に立たない医者だ。
どうか黙ってくれ。
黙ることがあなたたちの知恵を示す。
わたしの議論を聞き、
この唇の訴えに耳を傾けてくれ。」
ヨブは「あなたたちは藪医者だ」と言って、友人たちを非難します。私の心を慰め、癒そうとして色々なことを言ってくれるが、私にはあなたがたの言葉は何の役にも立たないと言うのです。いっそうのこと黙っていてくれるのが一番ありがたいと言うのです。私は、あなたたちには何の答えも期待していない。ただ神に訴えたいのだと言うのです。ヨブの気持ちはわからないではないのですが、せっかく見舞いに来てくれた友人たちに対してあまりに酷い言葉だと言わざるを得ません。
しかし、本当に苦しんでいる人というのは、少なからずヨブのような気持ちになるのだということを知っておく必要もあるでしょう。弁護すれば、私たちは誰でも、人からではなく、神様ご自身から答えを聞かなければ解決できない時があるのです。そういう時、隣人としてはただ沈黙して話を聞き、じっと忍耐して祈るということが一番の愛の業となることがあるのではないでしょうか。
ヨブは、7-12節でさらに友人たちを非難します。あなたがたは、神様に代わったつもりで私に説教をするが、そんなことはやめてくれというのです。
「神に代わったつもりで、あなたたちは不正を語り、
欺いて語るのか。
神に代わったつもりで論争するのか。
そんなことで神にへつらおうというのか。」
何かの本でこんな話を読みました。ある人が断食をするのですが、断食をしているうちに臭覚が以上に研ぎ澄まされてきて、今まで感じなかった部屋の匂いや人間の放ついろいろな悪臭に悩まされるようになったというのです。それと似ていると思うのですが、極度の苦しみの中にいる人はある種の感覚が鋭く研ぎ澄まされてきて、今まで感じなかった人間の欺瞞や、心の中にちょっとしたイヤらしさなどが敏感に分かってしまうということがあるようです。
きっとヨブもそうだったのでしょう。友人たちは決して神に代わって物を言うなどという不遜な思いを自覚していなかったと思うのです。しかし、そういう気持ちがまったくなかったのかと言えば、もしかしたら心の奥底にそれは密かに存在していたのではないでしょうか。ヨブはそういう密かな罪、密かな醜さまで見えてしまうのです。
「たとえひそかにでも、へつらうなら、
神は告発されるであろう。
その威厳は、あなたたちを脅かし、
恐れがふりかかるであろう。
あなたたちの主張は灰の格言、
弁護は土くれの盾にすぎない。」
「灰の格言」とは空しい言葉という意味です。「土くれの盾」とは脆くて役に立たない弁護ということです。このように苦しみは、人を信じられなくさせ、何かも信じれない孤独な状態に陥れてしまうことがあります。ヨブにとっては肉体の苦しみよりも、さらに大きな苦しみが孤独だったのではないでしょうか。
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ちょっと苦しいことがあると、すぐに「なんで神様は・・・」とぼやいたり、不平不満をつぶやく人がいるかもしれません。しかし、ヨブが神様に「なぜ?」と問うのは、それとはまったくレベルの違うことです。
「黙ってくれ、わたしに話させてくれ。
どんなことがふりかかって来てもよい。
たとえこの身を自分の歯にかけ、
魂を自分の手に置くことになってもよい。」
ヨブは、人間である自分が神様にこのように問い続けるということがどんなに大それたことであるかをよく弁えています。「神に殺されるかもしれない」とまで言います。しかし、「どんなことがふりかかってきてもよい」という悲壮な覚悟をもって、私は神様に本当に神様は正しいのかと問いかけたいのだと言っているのです。
「そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。
だが、ただ待ってはいられない。
わたしの道を神の前に申し立てよう。」
この15節はいろいろな翻訳が試みられてい手興味深いところです。上記の新共同訳では、神に殺されるかもしれないが、何もせずに待っていることはできない、たとえ殺されようとも、神様に訴えようという訳になっています。ところが口語訳をみますと、だいぶニュアンスが違ってきます。
「見よ、彼はわたしを殺すであろう。
わたしは絶望だ。
しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。」(口語訳)
わたしは神に殺される。わたしは絶望だ。しかし、わたしは自分の道を守り抜くと訳されています。ポイントは、新共同訳では「待つ」と訳されている言葉が、口語訳では「絶望」と訳されていることにあるのです。
「待つ」と「絶望」は正反対のように思えます。しかし、同じ言葉であるということが興味深いのです。「待つ」というのは、積極的にとれば希望があることを言うのでありましょう。しかし、消極的にとれば「待つことしかできない」つまり「何もできない」ということを意味しています。だから、「絶望」と紙一重なのです。
しかし、聖書の語る絶望は、人間の希望に対する絶望であって、神に対する絶望ではありません。ヨブもそうです。自分のうちには何も希望がありません。自分の周囲を見ても希望がありません。しかし、ヨブはそれでも神に訴え続けます。神だけにしか希望を持てない状態なのです。これを絶望ととるか、それともなお希望があるととるかは、人によって違ってくるでしょう。ヨブはどうなのでしょうか。わたしは、ヨブはなお神に期待をしているのだと思います。だからこそ、神様に訴えることをやめないのです。
「このわたしをこそ、
神は救ってくださるべきではないか。
神を無視する者なら、
御前に出るはずはないではないか。」(16節)
どんなに望みを失っても、なお神に望みを起き続けている。決して、神を無視はしない。このような者をこそ、神は救ってくださるべきだし、きっとそうしてくださると信じているのだということです。
「よく聞いてくれ、わたしの言葉を。
わたしの言い分に耳を傾けてくれ。
見よ、わたしは訴えを述べる。
わたしは知っている、わたしが正しいのだ。
わたしのために争ってくれる者があれば、
もはや、わたしは黙って死んでもよい。」
再度、ヨブは友人たちに沈黙し、私の言葉に、つまり私が本当に言わんとしている心の奥にあることを聞いてくれと言っています。「わたしが正しいのだ」というのは、神様よりも正しいという意味ではありません。友人たちよりも正しいということです。そして、それを本当に分かってくれて、私と一緒に神様を訴えてくれる人がいるならば、私は黙って死んでも良いといいます。
本当に、ヨブは誰にも分かってもらえない心を抱えて苦しんでいたのでありましょう。ヨブが求めて止まないのは、病の癒しでも、財産の回復でもなく、自分の苦しみを本当に分かってくれる人であったと言ってもよいかもしれません。そして、それを友人たちに求めているのではなく、神に求めているのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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