|
|
|
言葉に尽くせない大いなる苦難の中にいるヨブに対して、三人の友人たちが見舞いにきました(2章11-13節)。ヨブは彼らの前で、「私など生まれてこない方が良かった」と嘆きます(3章)。それを聞いて、まず三人の友人の中の年長者エリファズがヨブを慰めつつ、語りかけました。すると、それに対してヨブが反論し、他の友人がそれに答えるという風にして、ヨブと三人の友人たちのディスカッションが始まったのです。
最初にヨブに語りかけたのはエリファズでした(4-5章)。彼は、神の善意について語ります。「どんな人間でも神のごとく正しいということはあり得ない。しかし、悔い改めて神の憐れみにすがる者を神は必ずお救いくださる。だから、あなたも自分を低くして、神様の憐れみを求めなさい」しかし、ヨブはエリファズの言葉に納得しません(6-7章)。「神様は私に対して苛酷すぎる。私はもう絶えられない。はやく死にたい」と、激しい言葉で答えたのでした。
そこで、今度はビルダドが答えました(8章)。ビルダドは、神様は厳しすぎると言いだしたヨブに対して、「そうではない、神は正義を曲げることはないのだ。あなた自身の罪が小さくても、子供達に罪があったに違いない」と諫めます。けれども、ヨブは「そんなことは身に覚えがない。しかし、いくら私が納得できないと訴えても、相手が神様ではどうにもならないのだ」と言い返しました(9章)。さらにヨブは神様に向かって「どうして私を生まれさせたのですか、私など生まれない方がよかった」と訴えたのです(10章)。
それに対して、三人目の友人であるツォファルが答えました(11章)。彼は「どうしてですか」と執拗に神に訴えるヨブに対して、「あなたは自分が正しくて、神様が間違っているというけれど、いったい神様の何が分かっているというのか。神様のなさることは人間の知恵では計り知れないのだ。」と言い聞かせたのでした。
こうして見舞いに来た三人の友人がそれぞれにヨブに語りかけたのですが、彼らはヨブを慰め、励ますことができませんでした。それどころか、だんだんヨブを厳しく責めるような議論になってしまったのです。私たちも同じ経験をするのではないでしょうか。親切で忠告したつもりが、思わぬ言葉を返されて、喧嘩になってしまったというようなことがないでしょうか。
苦しめる者に慰めを語り、励ましを与えるということは何と難しいことでしょう。これは、ヨブと友人たちの主張とどちらが正しいという問題ではないように思います。ヨブはヨブで、自分の苦しみのことで精一杯であって、友人たちの言葉を冷静に聞くことができません。友人たちは友人たちで、自分の経験や知恵を越えたヨブの苦しみを、本当にヨブの身になって理解することができません。こうしてお互いがすれ違ってしまうのです。結局、ヨブの孤独さだけが浮き彫りにされてゆきます。今日、お読みしたツォファルに対するヨブの反論には、そのようなヨブの孤独がよく表現されていると言えましょう。 |
|
|
|
|
「確かにあなたたちもひとかどの民。
だが、死ねばあなたたちの知恵も死ぬ。
あなたたち同様、わたしにも心があり、
あなたたちに劣ってはいない。
だれにもそのくらいの力はある。」(12)
「死ねばあなたたちの知恵も死ぬ」という言葉に、ヨブの心境が表れています。苦難を受ける前も、ヨブが同じように考えていたかどうかは疑問です。「あなたたち同様・・・」と言っているように、ヨブもまた彼らと同じように深い知恵を持ち、またそれを信じていたのではないでしょうか。そして、その信仰と知恵に従って生活をしていました。それはヨブ記の1章1節に書かれていることです。友人たちがヨブに語っていることはすべて、かつてヨブ自身がもっていた知恵であると言ってもいいかもしれません。
しかし、そのような信仰や知恵がまったく通用しない出来事が身に降りかかってしまったのです。そこでヨブが悟ったことは、「神様というのは、本当にわからない御方である」ということでした。少しぐらい神様のことを分かったつもりでいても、本当のところは何も知らないに等しいのだということなのです。それが人間の知恵に対する悲観となって、「死ねばあなたたちの知恵も死ぬ」という言葉になって出てきたのではないでしょうか。
「神に呼びかけて答えていただいたこともある者が、
友人たちの物笑いの種になるのか。
神に従う無垢な人間が、物笑いの種になるのか。
人の不幸を笑い、よろめく足を嘲ってよいと、
安穏に暮らす者は思い込んでいるのだ。」(4-5)
ヨブは「安穏に暮らす者」と自分の置かれている場所との違いということを言っています。三人の友人等が本当に安穏とした暮らしをしていたかどうかはわかりません。見かけは幸せそうに見えて、人に隠れた悩みや苦労をもっている人は大勢います。ヨブはそういうことを分かった上で、敢えて「それは人並みの苦労に過ぎない」と言っているのです。「自分も人並みの苦労をしている時には、こんな酷い言葉を神様に投げかけたりはしなかった」といいたいのです。
実際、ヨブは苦難の最初においては、決して唇をもって罪を犯さなかったと証言されています(1章22節、2章10節)。しかし、今は「人並み」ではないことがヨブに降りかかっているのです。ヨブはこういいます。
「略奪者の天幕は栄え、
神を怒らせる者、
神さえ支配しようとする者は安泰だ。」(6)
略奪者、神を怒らせる者、神をさえ支配しようとする者と、三種類の人間が書かれています。問題は、最後に言われている「神をさえ支配しようとする者」とはどういう者かということです。実は、これは神様について雄弁に語ったり、神様の名において人を裁いたりして、まるで自分たちが神様を操っているのだといわんばかりの人たち、すなわちヨブの三人の友人たちのことを言っているのです。
すると、ヨブにとっては、略奪者も、神を怒らせる者も、神について雄弁に語る者も、みんな同じ次元の人たちであると言っていることになります。しかし、私は違うところにいるのだと言っているのです。「わたしは、あなたたちとは違う境遇になってしまったのだ。私と同じところに身を置かない限り、あなたたちは決して私のことを理解できないだろう。そして、私から見れば安穏とした場所から私を見下して、物笑いにするのが関の山なのだ」と言うわけです。 |
|
|
|
|
7節から新しい段落に入ります。
「獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。
空の鳥もあなたに告げるだろう。
大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。
海の魚もあなたに語るだろう。
彼らはみな知っている。
主の御手がすべてを造られたことを。
すべての命あるものは、肉なる人の霊も、
御手の内にあることを。
耳は言葉を聞き分け、
口は食べ物を味わうではないか。」
イエス様が「空の鳥をみなさい」「野の花をみなさい」と言われた言葉を思い起こします。ヨブは、それらのものが神様の御業を物語っていることをよく知っていました。けれども、それを知っても、ヨブが求めている答えは出てこないということを言うのです。
12節以下は、歴史について語られていると思われます。
「知恵は老いた者と共にあり、
分別は長く生きた者と共にあるというが、
神と共に知恵と力はあり、
神と共に思慮分別もある。」(12-13)
老いた者、長く生きた者とは歴史の証人です。自然をとおして神の知恵と力を知るように、歴史を通して、神の知恵を知り、また神の力を知るということできるのです。
「神が破壊したものは建て直されることなく、
閉じ込められた人は解放されることがない。」(14)
神が何を破壊したのか、誰を閉じこめたのかは明確でありません。しかし、人の世に栄枯盛衰はつきものです。その背後に神様の御手があるということを物語っているのではないでしょうか。
「神が水を止めれば干ばつとなり、水を放てば地の姿は変わる。」(15)
自然による災害が人の世に大きな影響を及ぼすこともあります。そこにも神様の御手があるといいます。つまり、
「力も策も神と共にあり、迷うこと、迷わせることも神による。」(16)
ということです。
「神は参議をはだしで行かせ、
裁判官を狂いまわらせ、
王の権威を解き、
腰の帯をもって彼らをつながれる。
祭司をはだしで行かせ、
地位ある者をその地位から引き降ろされる。
信任厚い者の口を閉ざし、
長老の判断を失わせ、
自由な者に嘲りを浴びせかけ、
強い者の帯を断ち切られる。」(17-21)
参議、裁判官、王、祭司、地位ある者、信任厚い者、長老、自由な者、強い者、こういった人たちは世の中でリーダーとなり、歴史を導く人たちです。しかし、神はこういう者たちを滅ぼされる、それが歴史であるというのです。
「神は暗黒の深い底をあらわにし、
死の闇を光に引き出される。
国々を興し、また滅ぼし、
国々を広げ、また限られる。
この地の民の頭たちを混乱に陥れ、
道もなく茫漠としたさかいをさまよわせられる。
光もなく、彼らは闇に手探りし、
酔いしれたかのように、さまよう。」(22-25)
先日、イスラエルがイスラム原理主義組織ハマスの創始者ヤシン師を殺害したニュースが流れました。これでパレスチナ問題はさらに混沌とした状態に陥ることは必至でしょう。台湾の総帥選挙の混乱のニュースもあります。イラク問題は言わずもがなです。世界の指導者たちは本当に正しく世界を導いているのでしょうか? 「神は・・・この地の民の頭たちを混乱に陥れ、道もなく茫漠としたさかいをさまよわせられる。」とはこのことかと思わされるような事態が、現実の世界で起こっています。
さて、ヨブはいったい何がいいたいのでしょうか。自然も、歴史も、人間に知恵を与えてくれます。しかし、それはヨブの苦難の問題に対する答えではありません。ヨブが知りたいのは、神の知恵と力の前に為す術もない人間が、敢えて神の御手に苦しめられながら何のために生きていかなくてはならないのかということなのです。 |
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|