|
|
|
「ナアマ人ツォファルは話し始めた。」(1)
三人目の友人ツォファルがヨブの言葉を受けて語り出しました。ツォファルは三人の中で最も若年だったのではないかといわれます。それは彼の物言いが、ほかの誰よりもストレートで挑戦的だからです。
たとえば、最初にヨブに語りかけたエリファズなどは、「あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが、誰がものを言わずにいられようか。」(4章2節)と語り出しました。その物言いには、ヨブに対する深い同情が読みとれます。また彼の論調には終始慰めが満ちています。
次に語りかけたビルダドは「いつまで、そんなことを言っているのか。あなたの口の言葉は激しい風のようだ。」(8章2節)と、エリファズに比べて語調が強くなっているのは確かです。それでも、彼の論調は励ましに満ちており、少々厳しくも語りますが、何とか希望を持たせようとしていたのだということが分かります。
では、ツォファルはどうでしょうか。
「これだけまくし立てられては答えないわけにいくまい。
口がうまければそれで正しいと認められるだろうか。
あなたの無駄口が人々を黙らせるだろうか。
嘲りの言葉を吐いて恥をかかずに済むだろうか。」(2-3節)
まるでけんか腰の物言いではありませんか。このように挑戦的、扇情的な彼の言葉の特徴が、彼の若さを表しているというのです。私も若いときには、教会の中で、牧師に対してすらも、ずいぶん生意気な口をきいていたなあと、今恥ずかしく思い起こします。それは、善意で解釈すれば「熱心さ」の表れでありますが、もう一歩踏み込んでいえば人生経験の不足による了見の狭さということが言えましょう。
知恵というのは、勉強だけで養われるわけではありません。失敗や挫折の経験、また自分とはまったく異なる考えや生活をもった人々との出会いを通して、自分の世界が壊され、より広い世界に目が開けていくという事が不可欠なのです。たとえば初めて大きな挫折を経験した人は、もう自分はおしまいだと絶望することでしょう。しかし、いくつもそういう挫折を乗り越えていきますと、ちょっとやそっとの挫折ではびくともしなくなっていくのです。
自分と違う考えをもった人と出会った時もそうです。はじめてそういう人と出会ったときはまったく信じられないという驚きを持ち、そんな人が存在することを許せない気持ちになるかもしれません。けれども、いろいろな人との出会いを重ねていくうちに、自分と異質な人々をも心の中に受け入れていく余裕が出てくるのです。
ツォファルには、そのような余裕が感じられません。きっと彼は、ヨブの激しい言葉を聞いて、自分の依って立っている信念が攻撃されているように感じたのでしょう。それで、ヨブを慰めたり、励ましたりすることよりも、自分を守り、弁護するような、それゆえにヨブを攻撃するような論調になってしまったのだと思います。 |
|
|
|
|
言葉というのは、話し手の気持ちを推察しながら、どういうことを言おうとしているのかを理解して聞かなければなりません。ですから、心に余裕がないと、人の言葉を正確に聞き取ることはできないのです。
ツォファルもそうでした。彼にとってヨブの言葉は、いたずらにまくし立てられた言葉、無駄口、嘲りの言葉、つまり「雑音」にしかきこえませんでした。彼はヨブの言葉を耳では聞いていますが、心では聞いていないのです。
確かに、私たちが読んでもヨブの言葉は耳を覆いたくなるほど激しくなっています。それでも、もしヨブの気持ちを少しでも知ろうとするならば、激しい言葉の背後にヨブの神への真剣なる祈りがこめられていることを聞き取ることができるはずです。
たとえばツォファルは、ヨブにこう言います。
「あなたは言う。
『わたしの主張は正しい。
あなたの目にもわたしは潔白なはずだ』と。」(4)
確かにヨブはそういうことを言っています。9章20節で、「わたしが正しいと主張しているのに、口をもって背いたことにされる。」と、神様に訴えているのです。「わたしは背く者ではない」(10章7節)とも言っています。しかし、同時に「確かにわたしも知っている。神より正しいと主張できる人間があろうか。」(9章1節)とも言っているのでありまして、ヨブは決して神のような絶対的な正しさを主張していたのではないのです。
ヨブは訴えている正しさとは、人間として健全であること、また信仰において正統的であることです。これらのことにおいて、自分が友人たちよりも罪深いということはないはずだというのです。ところがツォファルは言葉の表現だけをとって、あなたは神を冒涜していると批判するわけです。
関根正雄氏はこのようなツォファルについて、こうに言っています。
「ヨブが血をはくような思いで、自己の全実存をかけて言っていることを、ゾパルはここで一つの教え、つまり一つのヨブの教義として受け取っている。これはゾパル自身の信仰が一つの教義であることを示している」
つまり、ヨブとツォファルでは言葉の質が違うということなのです。ヨブは教義を議論しているのではありません。命がけで神の答えを求めているのです。そこに言葉の表現が教義の上で適切であるかどうかを越えた真実さがあります。しかし、そのような命がけの言葉を語ったことのないツォファルは、あくまでも教義における正しさに固執しています。そして、教義的に間違った言葉としてしかヨブの言葉を聞くことができないわけです。
このようなツォファルですから、こんな言葉が出てきます。
「しかし、神があなたに対して唇を開き、
何と言われるか聞きたいものだ。」(5)
私たちもよく「神様がなんと言われるだろうね?」とか、「神様がみているよ」という言葉を遣って、相手を非難することがあります。しかし、よく考えてみると、これは神様を引き合いに出して自分の正しさを主張しているだけの言葉ではないでしょうか。そうすると、ツォファルは自己矛盾を起こしていることになります。彼は、ヨブに対しては自己を絶対化することは間違っているといいながら、自分が自己を絶対化して正しいと主張することは間違っていないと言っているわけですから。 |
|
|
|
|
「神が隠しておられるその知恵を、
その二重の効果をあなたに示されたなら、
あなたの罪の一部を見逃していてくださったと、
あなたにも分かるだろう。」(6)
「神が隠しておられる知恵」、「二重の効用」とは何のことでしょうか。これは神様の知恵は決して単純ではない、表も裏もあるという意味です。たとえば、ヨブの苦しみについて言えば、神様の裁きと恵みが表裏一体になっているということです。ヨブがこのように苦しむのは、ヨブの罪を神様が責めているからであり、そういう意味では神様の裁きであります。しかし、ヨブがこうして神様に冒涜的な言葉を吐くことをゆるしておられるのは、神様があなたの罪の一部を見逃してくださっている、裁きの手をゆるめてくださっているからであり、そこに神様の恵みがあるのだというわけです。
なるほどツォファルは上手いことをいうものだと思います。もし、ヨブが本当に神様から裁きを受けているのだとしたら、まさしく神の恵みの部分に目を向けることによって、悔い改めのチャンスと希望が生まれてくることでありましょう。
しかし、実際はヨブの苦しみは神様の裁きとはまったく別のものでありますから、因果応報説一辺倒で、苦しみの理由を神の裁きと決めつけ、ヨブの本当の苦しみを分かろうとしないツォファルこそ、神の知恵が決して単純ではないことを知らなければならない一人であったと言えます。 |
|
|
|
|
さて、7節からツォファルの信仰の核心部分が語られています。
「あなたは神を究めることができるか。
全能者の極みまでも見ることができるか。」(7)
エリファズは神の善意について語り、ヨブに神の憐れみに寄りすがれと慰めました。ビルダドは神の義について語り、悔い改めて立ち返れと励ましました。そして、ツォファルは神の計り知れない栄光について語り、ヨブに遜れと語ります。
「高い天に対して何ができる。
深い陰府について何が分かる。
神は地の果てよりも遠く、海原よりも広いのに。」(8-9)
ここで言われているのは、神様の前に人間がいかに小さき者であるか、愚かな者であるかということです。そして、このように小さい者が神様と争ったり、自分の正しさを神様に主張したりするのは身の程知らずではないかというわけです。
「神が傍らに来て捕え、集めるなら、
誰が取り返しえようか。」(10)
少しわかりにくい文章かとおもいますが、私たちは、神様がいるとかいないとか、あるいは神を信じるとか信じないとか、神様は正しいとか正しくないとか、いろいろ神様について、信仰について議論をしたり、考えたりします。そのような議論や考えは、常に人間側に主体をおいて、自分はどう思うかということが中心にあるのです。しかし、神様が主導権をもって、人間について論じたらどうなるだろうかと、ツォファルは指摘するのです。中沢洽樹氏の翻訳によると「彼(神)が突然逮捕し召喚するなら誰が止め得よう」となります。その時、人間の言い分なんてどれだけ神様に通用するのでしょうか。
しかも、それは決して「もしも」の話ではないはずです。ツォファルは言います。
「神は偽る者を知っておられる。
悪を見て、放置されることはない。」(11)
ですから、人間が神について論じたりするのではなく、ただ神に知られていることを恐れ、遜って生きるべきだということなのでありましょう。 |
|
|
|
|
「生まれたときには人間も、
ろばの子のようなものだ。
しかし、愚かな者も賢くなれる。」(12)
野生のロバというのは飼い慣らすことが難しい代表的な動物だそうです。しかし、そういうロバでさえも、飼い主を知るならば、おとなしいロバになります。人間もまた生まれたときには野生のロバのようであっても、神を知ることによって本当の知恵をもった存在になれるのだというのです。
「もし、あなたも正しい方向に思いをはせ、
神に向かって手を伸べるなら、」(13)
神様に向き直り、神様に向かって手を伸べるとは、悔い改めの祈りを捧げることです。
「また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ、
あなたの天幕に不正をとどめないなら、」(14)
天幕とは住居のこと、すなわち生活のことです。つまり、口先だけの祈りではなく、事実、自分を清めて悔い改めた生活をするならば、ということです。
「その時こそ、
あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく、
恐怖を抱くこともないだろう。」(15)
つまり、神にやましいことがなければ、私たちの心にはどんな恐れもなくなるということです。
「その時、あなたは労苦を忘れ、
それを流れ去った水のように思うだろう。
人生は真昼より明るくなる。
暗かったが、朝のようになるだろう。
希望があるので安心していられる。
安心して横たわるために、自分のねぐらを掘り、
うずくまって眠れば、脅かす者はない。
多くの人があなたの好意を求める。」(16-19)
これは、美しい言葉で語られた説教です。確かに、ツォファルの言うように、まず神との平和を得るならば、私たちはあらゆることに平和と希望を持つことができるでしょう。
しかし、ヨブもそのことを求めているのだということを、ツォファルは理解しません。ヨブにしてみれば、神との平和を破ったのは、神ご自身なのです。なぜ、神様はそのようなことをなさるのかを知りさえすれば、ヨブはどんな苦しみにも耐えて、神様を讃美したでありましょう。
ツォファルは、神様の知恵はいろいろあるのだといいながら、自分自身は因果応報説にしがみついてしまって、一方的にヨブを断罪しています。そこにツォファルの間違いがあり、その言葉には容赦のない残酷ささえ見ることができます。
「だが、神に逆らう者の目はかすむ。
逃れ場を失って、希望は最後の息を吐くように絶える。」(20)
私は、自分を絶対化し、平気で友に神の裁きを語るツォファルに恐ろしさを感じます。たとえ、本当にヨブが罪人であったとしても、ヨブの身になって神に執り成しをし、憐れみを乞うのが友ではないでしょうか。アブラハムが、悪徳の町にソドムのために執り成しをしたのは、神の正しさだけではなく、神の憐れみを信じていたからです。この神の憐れみこそ、私たちが友に語ることではないでしょうか。 |
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|