ヨブ物語 17
「神様に直訴する」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記10章1-25節
疲れることなく聞いてくださる御方
 9章に引き続き、10章もヨブの嘆きの言葉が続いています。ただし、ヨブが語りかけている相手はもはやビルダドではありません。神様ご自身です。

 「わたしの魂は生きることをいとう。
  嘆きに身をゆだね、悩み嘆いて語ろう。」(1)

 「嘆きに身をゆだねる」とは、嘆きを抑えることなく、心にあるものすべてを神様に吐き出してしまおう、ということです。すべてを吐き出すということは、簡単なようで簡単ではありません。もしそんなことをしたら、聞く者は誰も耐えきれず、皆私たちから遠ざかってしまうことでしょう。

 先日、ある精神科医と雑談する機会がありました。精神科医も、牧師も、人の悩みを聞くという点において共通するものがあります。お医者さんは「病気は薬では治りません。やはり側にいてあげるということが大切なんですよね」としみじみとお語りになり、私はこの人は良いお医者さんだなと感心をした。聖書では、イエス・キリストの御霊である聖霊は「慰め主」と呼ばれています。それは「側にいてくださるお方」という意味です。側にいるということが何よりもの慰めであり、癒しであるということを、この先生は多くの悩む人々と共に生きながら学ばれたのでしょう。

 しかし、側にいるということは、その人の嘆きや絶望や怒りを受け止めてあげるということであり、それはこちら側の精神、霊を消耗することになります。お医者さんは「先生は、そういう時にはどうなさるのですか」と訊ねてこられました。きっと精神科医のお医者さんにとって、この問題は非常に深刻な悩みなのでしょう。私もしばしば疲れ果ててしまうことがあります。しかし、私には私の慰め主がおられますから、「クリスチャンではない先生にどの程度ご理解いただけるか分かりませんが、私はどんなことも神様に聞いていただくのです」と答えました。

 残念ながら、この雑談はそこで時間切れとなってしまったのですが、どんなに良いお医者さんであっても、また牧師であっても、人の悩みや苦しみをどこまで負いきれるかというと、本当に心許ないものなのです。私たちが心にあることをすべて吐きだしても、疲れることなくすべてを受けとめられる牧者がいるとしたら、それは神様以外にいらっしゃらないのではないでしょうか。「嘆きに身をゆだねる」 実は神様に祈ることを知っている者だけに許されている特権がここにあるのです。
それでいいのでしょうか?
 ヨブはまさにその特権を用いて、率直に神様と言い争います。

 「わたしに罪があると言わないでください。」(2)

 ヨブは決して「自分には罪がない」と言っているのではありません。9章2節でも、神より正しいと言える人間はいないと、ヨブは告白しています。しかし、神に背こうとする者の犯す罪と、神に従おうとしつつも犯す罪とは質的に違います。ヨブは、自分は決して神に背こうとしたことはない、この点について、私には罪はないと言っているのです。それなのにどうして私がこのような責めを神様から負わされなければならないのか、というわけです。

「なぜわたしと争われるのかを教えてください。」(2)

 ヨブの願いは、苦しみが取り除かれることよりも、苦しみの理由を知ることにありました。

 「手ずから造られたこのわたしを虐げ退けて、
  あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。
  それでいいのでしょうか。」(3)

 「手ずから造られたこのわたしを」と、ヨブはいいます。ヨブは、自分が神様に造られた存在であることを信じていました。それゆえ、神様を天の父として愛し、み旨に従おうとして生きてきました。それなのに、どうして神様は私を虐げられるのか? 一方、神を神とも思わず生きている人たちが平和に暮らしているのはどうしてか? 「それでいいのでしょうか」と、ヨブは疑問を呈します。その言葉の裏には、神様のなさっていることは本当に正しいのですかという懐疑があることは否めないでしょう。

「あなたも肉の目を持ち、
 人間と同じ見方をなさるのですか。
 人間同様に一生を送り、
 男の一生に似た歳月を送られるのですか。」(4-5)

 「肉の目」とは、人間と同じようにしばしば見誤る目ということです。人間の目の不確かさについて、私たちはサムエルが主の選び人を見いだすためにエッサイの家を訪ねた時のことを思い起こすことができます。彼はエッサイの長男をみたときに、「この人だ!」と確信しました。しかし、そのサムエルに、神様は「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16章7節)とお答えになったのでした。サムエルほどの人であっても、神様の選び人を見誤ってしまう。それが「肉の目」です。
 
 また、イエス様は裁きとの関連で、このように仰いました。

 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイによる福音書7章3-5節)

 自分の目に丸太が入っているような「肉の目」では、人を裁く資格もないし、裁きを誤ることになります。私たちも、人に理解されない悲しみを経験し、誤解されて傷ついたことがあるのではないでしょうか。

 しかし、そのような時も私たちの慰めとなるのは、神様は分かっていてくださるということです。誰から理解されなくても、誤解されても、中傷されても、神様は私たちの心の襞まで分かってくださるお方であると思えるからこそ、私たちはそのような孤独に耐えられるのです。でも、神様の目が「肉の目」であったらどうでしょうか。神様にまで私たちが誤解され、理解されなかったら、私たちは孤独は誰が慰めてくれるのでしょうか? 「そんなことがあってはならないではないですか。神様と人間は違うはずです」と、ヨブは言うのです。

 「なぜわたしをとがめ立てし、過ちを追及なさるのですか。わたしが背く者ではないと知りながら、あなたの手から、わたしを救いうる者はないと知りながら。」(6-7)

 神様が正しく私を知ってくださるならば、私が決して神様に背こうとしたことがないことを分かるはずなのに、どうして私の罪を責めるのか、それがさっぱり納得できないと、ヨブはいうのです。
造り主なる神
 
 「御手をもってわたしを形づくってくださったのに、
  あなたはわたしを取り巻くすべてのものをも、
  わたしをも、呑み込んでしまわれる。
  心に留めてください。
  土くれとしてわたしを造り、
  塵に戻されるのだということを。」(8-9)
 
 ここを読みますと、私は『イザヤ書』の御言葉を思い起こします。

 「わたしはあなたたちの老いる日まで、
  白髪になるまで、背負って行こう。
  わたしはあなたたちを造った。
  わたしが担い、背負い、救い出す。」(『イザヤ書』46章4節)

 神様は、私たちを造っただけではなく、生みの親としての愛をもって、また責任をもって、私たちを担ってくださるという約束の言葉です。ヨブは、イザヤよりはるかに前の人ですが、神様を自分の造り主であると固く信じ、私を御心に留めてくださいと祈っています。ご自分で造っておきながら、それを空しく塵に返してしまわれるのはおかしいではありませんかと言うのです。

 「あなたはわたしを乳のように注ぎ出し、
  チーズのように固め、
  骨と筋を編み合わせ、
  それに皮と肉を着せてくださった。
  わたしに命と恵みを約束し、
  あなたの加護によって、わたしの霊は保たれていました。」(10-12)

 人間が神に造られる様子が生々しく語られています。旧約聖書学者の浅野順一先生は、この箇所についてこのように説明しています。

 「ミルクのような精液が母胎に注ぎ出され、それがチーズのように固まり、その後、肉と皮とがその上にかぶせられ、骨と筋が造られていく。このように母胎の中に、いかに胎児が形成させられていくか、その過程がここに記されている」

 そうだとしたら、ヨブは当時のもっとも進んだ知識をもっていたに違いありません。ただし、ヨブはそのような人間の生理的な作用として人間が誕生するだけではなく、そのすべてが神様の御手の中にあること、つまり神様の創造として自分が形作られたのだといいます。しかも、神によってそこに生命が与えられ、恵みが注がれ、神様のご加護のもとに生きてきたのだというのです。

 そのことを苦難の中で告白していることが、ヨブの信仰の深さを物語っていると言えましょう。苦難に遭うことによって、信仰を弱くしたり、失ったりして、「神も仏もあるものか!」と神を否むようになってしまう人も多いのです。しかし、ヨブは苦難のただ中において、あなたは私の造り主ですと告白し、神様に愛されてきたことを疑わないのです。しかし、だからこそ余計に「なぜですか!」という叫びが高まるのではないでしょうか。
意地悪な神

 「しかし、あなたの心に隠しておられたことが、
  今、わたしに分かりました。」(13)

 神様は驚くべき御業をもって塵で生きた人間をお造りになり、恵みを注いでお育て下さったけれども、突然手を翻したように苦しみを与え、塵を塵に返そうとさせる。神様は愛である、恵み深い方であると信じてきた者には、なんでそんなことをなさるのかさっぱり訳が分からない経験する。実は、神様ははじめからそういう意地悪な心をもっておられて、それを隠しておられたのだと、ヨブは言っているのです。

 これは、本当にまったく酷い言葉ですが、このようなことを率直に神様に訴えるところに、逆にヨブの神様に対する信頼のようなものを感じることもできます。

 「もし過ちを犯そうものなら、
  あなたはそのわたしに目をつけ、
  悪から清めてはくださらないのです。
  逆らおうものなら、わたしは災いを受け、
  正しくても、頭を上げることはできず、
  辱めに飽き、苦しみを見ています。
  わたしが頭をもたげようものなら、
  あなたは獅子のように襲いかかり、
  繰り返し、わたしを圧倒し、
  わたしに対して次々と証人を繰り出し、
  いよいよ激しく怒り、
  新たな苦役をわたしに課せられます。」(14-17)

 ヨブは「自分は正しいのだ」と、改めて主張したいのです。しかし、神様はそれをお許しになりません。少しでも自己弁明をしようものなら、獅子のように襲いかかってきて、私に新たな苦しみを加えられると言います。それは、おそらくヨブを責める友人たちのことを言っているのではないでしょうか。ヨブは、見舞いに来た友人たちを、神様が私を苦役に服させ、少しも反抗することを許さないために、見張る者として遣わした者たちだと考えたようです。
命を厭う

 「なぜ、わたしを母の胎から引き出したのですか。
  わたしなど、だれの目にも止まらぬうちに
  死んでしまえばよかったものを。
  あたかも存在しなかったかのように、
  母の胎から墓へと運ばれていればよかったのに。」(18-19)

 自分は死産した方がよかったと言っています。

 「わたしの人生など何ほどのこともないのです。
  わたしから離れ去り、立ち直らせてください。
  二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国に、
  わたしが行ってしまう前に。
  その国の暗さは全くの闇で、
  死の闇に閉ざされ、秩序はなく、
  闇がその光となるほどなのだ。」(20-22)

 ヨブの描く死の国は、本当に絶望に満ちています。イエス・キリストにある救いを知る私たちの信じる死、つまり永遠の命への入り口、神様の御許に帰る死と、ヨブの描く死は何と違うことでしょうか。

 ヨブは、そのような絶望のうちに死んでいく前に、ほんのしばらくでもいいから、「わたしから離れ去り、立ち直らせてください」と嘆願します。つまり、攻撃の手を少し休めてくださいということです。

 このように、ヨブの嘆きはますます深くなり、絶望の色を濃くしていきます。事情を知る私たち読者は、ヨブが神を誤解していることがよく分かるのですが、それを知り得ないヨブがこのような絶望に陥っていくことはまったく仕方がないことです。

 子供の頃、父親にヨブ記を一章ずつ読み聞かせられた時、「神様、はやくヨブを助けてあげてください」と祈っていたのを思い起こしました。しかし、同時に、人生の悩みや苦しみというものを経験する年齢になると、神様の愛さえも信じられない絶望の中で、なおも神様に訴え続けるヨブの信仰が大きな励ましになったことも事実です。ヨブは神様を正しく捕らえていません。しかし、ヨブの心はまっすぐに神様に向かっています。そのことが大事なのではないでしょうか。
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