ヨブ物語 16
「神様の愛が信じられない」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記9章1-25節
因果応報では説明できない
 ビルダトの主張は単純明快でした。神様は正しい。罪なき者を怒られるような間違いをしない。それなら答えは一つ。ヨブが間違っているのだ。たとえ自分がどんなに正しいと主張しても、あなたには隠れた罪があったのだ。はやく自分の罪を認めて、神の赦しを乞いなさい、ということです。

 それに対してヨブはこう答えました。

 「それは確かにわたしも知っている。
  神より正しいと主張できる人間があろうか。」
                    (2節)

 ヨブもまた神の正しいことを認めているのです。決して自分が正しくて、神様が間違っているなどと主張しているわけではありません。しかし、神様も正しいと信じるが、私も間違っていないと言っているわけです。

 友人らは、それをヨブの傲慢だと言います。そうでしょうか? ヨブの苦難は、因果応報とはまったく関係のない苦難でした。ヨブはそのことは知らされていないのですが、何かが違うということを感じ取っているのです。それは苦難の体験者だからこそ感じ取れることだったのでありましょう。

 しかし、友人らは親身になってヨブの訴えを聞いてあげることができません。はじめから因果応報だと決めつけています。そして、無理矢理にでも納得させようと、ヨブの説得を試みます。だから、ヨブは「そうではないのだ!」と、必至に訴えているのです。

 因果応報では説明できない苦難の問題というのは、確かに存在します。たとえば『ヨハネによる福音書』9章に出てくる生まれつきの盲人もそうです。弟子たちは、「先生、彼が生まれつき盲人であるのは誰の罪ですか。本人でしょうか。それとも親の罪が子に報いられたのでしょうか」と聞きます。ところが、イエス様は「本人の罪でも、親の罪でもない。神の業が現れるためである」とお答えになったのでした。

 ここで、イエス様は苦難の「原因」ではなく「目的」を問題にされています。「なぜ、こうなったのか」ではなく、「こうなったのは何のためなのか」とお答えになったのです。このように苦難には、誰が悪いということを追及できないものがあるのです。しかし、そういう苦難であっても必ず意味や目的があるのだということを教えてくださったのが、「神の業が現れるためである」というイエス様のお答えなのでした。

 もしヨブの友人らがイエス様のように「だれのせいでもない。これは神の業が現れるためなのである」とヨブを励ましたならば、ヨブ記の展開はまったくちがったものになったことでありましょう。しかし、友人らはおろかヨブ自身ですら、そのようなことは思いもつかなかったのでした。ですから、ヨブも「私は何も悪いことをしていないのにどうしてなのか、その理由を教えてほしい」と、神様に訴えざるを得なくなってしまうのです。 
神を失ったヨブの心
 人間が動物とはまったく違うのは、生きることの意味を問わなければ生きていけないということです。何も考えずに生きていられるならば、幸せもない代わりに悩みや不幸もないかもしれません。けれども、私たちはそのようには生きられません。

 ヨブは、自分の不可解な人生の謎について、できることなら神様に直接そのことを尋ねてみたいと願っていました。しかし、人間と神様との間には計り知れない大きな溝があります。

 「神と論争することを望んだとしても
  千に一つの答えも得られないだろう。」(3)

 ヨブは、神様の偉大な存在の前に自分が本当に小さな存在であることを感じています。しかし、そのような神様を素直に讃美する気持ちにはなれません。今のヨブにとって神様は、意地の悪い独裁者のようにしか見えないのです。

 ヨブは神様に対して頑なになっています。それは自分でも分かっていました。

 「御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。
  神に対して頑になりながら
  なお、無傷でいられようか。」(4)

 神様の計り知れない知恵は、神様に対して素直な、従順な心を持たない限り、知ることはできない。神様に頑なになればなるほど混迷の中を彷徨うことになり、刃向かえば刃向かうほど自分自身を傷つけることになるのだ。ヨブはそこまで分かっていながらも、なおも容易に引き下がることができないのです。

 「神は山をも移される。
  怒りによって山を覆されるのだと誰が知ろう。」(5)

 これは火山の噴火のことを言っているのでありましょう。神様は火山によって山を動かしたり、覆させたりなさる偉大な力をもっています。しかし、ヨブには「怒りによって山を覆される」暴君なる神にしか思えないということです。

 「神は大地をその立つ所で揺り動かし
  地の柱は揺らぐ。」(6)

 これは地震のことです。

 「神が禁じられれば太陽は昇らず
   星もまた、封じ込められる。」(7)

 これは何週間も、何ヶ月も太陽も星もみることができないような雨期のことをいっているのではないでしょうか。神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。

 「神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。 
  神は北斗やオリオンを
  すばるや、南の星座を造られた。
  神は計り難く大きな業を
  数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。」(8-10)

 天も海も地も、すべては神様の御業であり、神様の偉大な御力で満ちているということを、ヨブは告白します。かつてのヨブならば、本当に輝きに満ちた心で、このような神様を讃美したでしょう。しかし、今のヨブは、まるで専制君主の暴政に苦しむ領民のようにしょげかえっています。

 「神がそばを通られてもわたしは気づかず
  過ぎ行かれてもそれと悟らない。
  神が奪うのに誰が取り返せよう。
  『何をするのだ』と誰が言いえよう。
  神は怒りを抑えられることなく
  ラハブに味方する者も
  神の足もとにひれ伏すであろう。」(11-13)

 ヨブにとってもはや神様は近寄り難い、恐ろしいばかりの神になってしまいました。神様の愛が信じられなくってしまったのです。

 日本人は宗教を問われると、「無宗教」と答える人が多いようです。では日本人は無神論者かということ、決してそんなことはありません。初詣は欠かしませんし、たいへん迷信深い人が多いように思います。神のような存在があることは心のどこかで信じているのだけど、その神様がいったいどういう方であるのかということについては無関心なのが日本人であるといったら一番当たっているかもしれません。

 しかし、そんな曖昧なことでは、神様を信じているとは言えません。神様を信じるとは、神様を信頼するということなのです。神様は義なる方であり、愛なる方であるということを、心から信頼して従うことができるかどうか、それが信仰を問うということです。ヨブは神様の存在や神様の偉大さを疑いません。でも、神様の愛を信じられなくなってしまったのですから、それは肉体的な苦痛以上に辛く悲しいことだったに違いないのです。

 ヨブの心は完全に神を失っています。いつも心の中にいて、祝福をもたらし、慰めを与えてくださった神様は、もうヨブの心の中にいません。どんなに尋ねてみても、どんなに訴えてみても届かないような高みへと神様は離れ去ってしまいました。そこから、一方的に怒りに満ちた裁きがくだされ、弁明することも、理由を問うことも許されず、憐れみを乞うても答えはなく、ただただ神の不可解な怒りを甘んじて受けるしかないところにヨブは居るのです。

 「わたしのようなものがどうして神に答え
  神に対して言うべき言葉を選び出せよう。
  わたしの方が正しくても、答えることはできず
  わたしを裁く方に憐れみを乞うだけだ。
  しかし、わたしが呼びかけても返事はなさるまい。
  わたしの声に耳を傾けてくださるとは思えな
  い。」(14-16)

 もちろん、本当に神様がヨブを離れ去ってしまったのではありません。しかし、ヨブは苦悩のあまりそのようにしか思えなくなってしまったのでした。
生きる意味の喪失
 ヨブは神を非難します。

 「神は髪の毛一筋ほどのことでわたしを傷つけ
  理由もなくわたしに傷を加えられる。
  息つく暇も与えず、
  苦しみに苦しみを加えられる。」(17-18)

 ヨブは、私に罪があるとしてもそれは「髪の毛一筋ほどのこと」だと言うのです。それに対して、神様は「息つく暇も与えず、苦しみに苦しみを加えられる」。それは、不当なことであり、「理由もなくわたしに傷を加えられる」のと同じ事だとヨブはいうのです。

 ヨブの言葉は行き過ぎているかもしれません。しかし、ヨブの苦しみの深さ、大きさを経験していない者が、軽々にヨブの言葉を非難できるとは思えません。

 内村鑑三はヨブの身になって、このように弁護しています。「彼の苦悶のはなはだしきを知らずして彼の失言を責むるは酷なり。彼が神に向かって暴言に類するの語を発するは、彼が神の慈眄(じべん)を求めてやまざればなり。親密、時には礼を失しやすし。ヨブの神に対する攻撃に、子が愛をもって親に迫るの観あり。戒むべし、されども憎むべからず」

 つまりヨブは、どうしてだかわからないけれども急にそっぽをむいてしまった神様に、もう一度振り向いて自分を見て欲しい、その慈しみに満ちたまなざし(慈眄)を向けてほしいがために、激しい言葉で神様に訴えているのだというのです。

 クリスチャンであっても、本当に大きな苦しみを経験した時、一時的にヨブにも似た激しい言葉を神様に向かって発する時、たとえば「もう神様なんか信じない」とか、「神様は間違っている」と叫ぶこともあるでしょう。平和な信仰生活を送っている者にとって、このような神様への暴言を聞くことは堪えがたいことです。

 しかし、その人の苦しみの深さを知らずして、またその暴言のもっと深いところにある神様への祈りを聞かずして、正論を振りかざし、「あなたの言葉は間違っている」と断罪したところでいったい何になるでしょうか。そのような言葉は、その人に届くでしょうか。むしろ、その人は神だけではなく、隣人さえも失い、いよいよ深い絶望に追い込むことになるでしょう。

 それにしても、ヨブの言葉は激しさを増していきます。中澤洽樹訳で19-24節を読んでみると、その激しさがひしひしと伝わってきます。

 「力ずくでというなら、もちろん彼には及ばない。
  裁判にといっても、誰が彼を召喚するのか。
  たといわたしが義しくても、わたしの言い分で有罪とされる。
  わたしは無罪だが、彼がわたしを誣いるのだ。
  わたしは無罪だ、だが自分が分からない。
  もう生きるのがいやだ!
  どっちだって同じだ。だからあえて言おう。
  罪有る者も無い者も、彼はいっしょに滅ぼすのだ。
  突然大水で人が死ぬと、
  彼は無辜(むこ)の災難を嘲笑う。
  世は悪人の手中にあり、
  裁判官は目隠しされている。
  彼のゆえでなくて誰のゆえか。」

 ヨブは「どっちだって同じだ!」と言います。神様にどんなに無罪を訴えても通じない。たとえ私が無罪であっても、神様が有罪だと言えばそれまでだ。私には神様と有罪無罪を争うことはいっさい許されていないのだ。もう、どうでもいい。自分が正しくても、間違っていても、結局は罪有る者も罪なき者も一緒に滅ぼしてしまわれるのだから。そして、神は天でそれを嘲笑っているのだ。生きていることに何の意味があるのか。私はもう死にたい・・・

 このようにヨブは神を見失い、ニヒリズムに陥り、生きる力を失ってしまったのでした。今日、ヨブのような苦しみを経験していなくても、神などいないとうそぶく人たちが増えています。しかし、神が信じられないということは、誰でもこのような生きる意味や目的を喪失することになるのです。

 佐藤敏夫氏は『キリスト教信仰概説』の中でこのように言っています。

 「西洋あたりではすでに一八世紀頃から、世俗化の進行とともに、宗教への関心が次第に衰えていることは否みがたい事実である。ところで、神の存在が自明でなくなりつつあるという場合、われわれはその事実にだけ眼をやるのではなく、そのような現代の状況が他の観点からみる時、何を意味しているか、何を象徴しているかに注目する必要がある。それは一言でいえば、現代人における人生観、世界観の衰弱あるいは喪失という現代の特徴である。人生の意味と目的、歴史の意味と目標といった事について、換言すれば、人は何のために生きるのかとか、歴史はどこへ行くのかとかいった問題について、現代人は明確な意識をもちえなくなっている・・・現代は思想的にはまことに荒涼とした不毛な状況を呈している。人は何のために生き、何のために働くかをしらない。いわば目的喪失の時代である。それは宗教的な関心が後退し、宗教が衰えはじめた一八世紀の世俗化の否定しがたい帰結である」

 ヨブは、世俗化したということではありませんが、苦難によって、あまりにも耐え難い苦難によって、一時的に神を見失い、生きる意味や目的を喪失しかけているのです。

 「わたしの人生の日々は
  飛脚よりも速く飛び去り
  幸せを見ることはなかった。
  葦の小舟に乗せられたかのように流れ去り
  獲物を襲う鷲のように速い。
  嘆きを忘れよう
  この有様を離れて立ち直りたいと言ってみても
  苦しみの一つ一つがわたしに危惧を抱かせ
  無罪と認めてもらえないことがよく分かる。
  わたしは必ず罪ありとされるのだ。
  なぜ、空しく労することがあろうか。
  雪解け水でからだを洗い
  灰汁で手を清めても
  あなたはわたしを汚物の中に沈め
  着ているものさえわたしにはいとわしい。」 (25-31)

 
仲保者を求める
 ヨブは信仰も、希望も、生きる力も、何もかも失ってしまったかのようです。しかし、ヨブがどんなに神を愛し、神を求めて止まない人間であるかが、次の言葉に表れていると言えましょう。

 「このように、人間ともいえないような者だが
  わたしはなお、あの方に言い返したい。
  あの方と共に裁きの座に出ることができるなら
  あの方とわたしの間を調停してくれる者
  仲裁する者がいるなら
  わたしの上からあの方の杖を
  取り払ってくれるものがあるなら
  その時には、あの方の怒りに脅かされることなく
  恐れることなくわたしは宣言するだろう
  わたしは正当に扱われていない、と。」(32-35)

 ヨブは、自分と人間の間にたつ仲裁者がいるならば、といいます。神と人間の間に立って執り成しをしてくださる方、それこそイエス・キリストのことです。しかし、ヨブは仲保者イエス・キリストの存在を知りません。知らないけれども、もしわたしを救ってくれる方がいるならば、仲保者しかいないと言うのです。知らずして、キリストを求め、キリストだけが私の救い主であると祈っているのです。

 『テモテへの手紙1』2章5節にはこのように記されています。

 「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」

 ヨブが求めていたのは、このイエス・キリストの存在なのでした。私たちが今、ヨブがどんなに求めても知り得なかった仲保者なるイエス様を知っているということは、私たちにとってどんなに大きな救いとなっているのか、そのことを改めて感謝したいと思います。
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