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今回は7章17節以下からお話しをします。
「人間とは何なのか。
なぜあなたはこれを大いなるものとし
これに心を向けられるのか。
朝ごとに訪れて確かめ
絶え間なく調べられる。
いつまでもわたしから目をそらされない。
唾を飲み込む間すらも
ほうっておいてはくださらない。」(17-19節)
唾をごくりと飲み込むだけでも、ヨブは激痛に悶え、神様の厳しい御手が自分の上に置かれていることを思わずにはいられませんでした。このように息つく間もない苦痛に、ヨブは「神様はどうしてこんなに絶え間なく私を責め続けるのか」と訴えています。「私のことなどほっといてください」と頼んでいるのです。
「人を見張っている方よ
わたしが過ちを犯したとしても
あなたにとってそれが何だというのでしょう。
なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。
なぜ、わたしを負担とされるのですか。
なぜ、わたしの罪を赦さず
悪を取り除いてくださらないのですか。」(20-21節)
人間は、何の過ちも犯さないで生きることはできません。ヨブは正しく完全な人であったと紹介されていますが、それでも人間である限り何の過ちもないということはあり得ないことでしょう。要は程度の問題なのです。どんな小さな過ちも見逃されないというのでは、とても生きていくことはできません。人間同士というのはそういうことを分かっていますから、「お互い様」ということである程度の過ちは相殺して、許し合って生きているのではないでしょうか。その許容範囲を超えた場合、はじめてその人の罪ということが問題になります。
しかし、神様に対してはこの「お互い様」は通用しません。神様は私たちに対して何の負い目もないのです。悪いのは常に人間です。ですから、神様には私たちのどんな小さな罪もお裁きになる正当性があると言えましょう。しかし、ヨブは、「たとえ私に責められる罪があるとしても、どうして私に狙いを定めるのか。もっとあなたが裁くべき人間がいるではないか。」と訴えているわけです。
本当は、神様はヨブの罪を責めているのではなく、ヨブの正しさを中傷するサタンに対してその潔白を証明しようとしておられるのだということを、私たちは知っています。しかし、ヨブはそのような神様の深い御心を知りませんから、神様の裁きは苛酷すぎるし、自分ばかりを目の敵にするのは不公平だと思ってしまうわけです。それは仕方がないことだと言えましょう。
ただし、神様が自分に注目をしているということ、神様の関心が自分に集中的に向けられているということを感じ取っているヨブの感覚はさすがだと言わざるを得ません。私たちはしばしば苦しみの時に、神様は自分のことを忘れてしまったのではないか、見捨ててしまわれたのではないかという感覚に陥りることがありますが、そうではないのです。神様が私たちに対して強い関心をもっておられるからこそ、厳しい御手をお与えになるのだというのです。 |
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「今や、わたしは横たわって塵に返る。
あなたが捜し求めても
わたしはもういないでしょう。」(21節)
「塵に返る」とは死を意味しています。死んでしまえば、もうはや神様ですら見いだすことができない存在に、無に帰してしまうのだと、ヨブは言っているのです。9-10節も同様です。
「人も陰府に下れば
もう、上ってくることはない。
再びその家に帰ることはなく
住みかもまた、彼を忘れてしまう。」
ここを読んでも分かりますが、ヨブには未だ「復活」という信仰がありません。復活信仰とは、たとえ死んで陰府にくだろうとも、神様の救いと恵みはどこまでも自分を追ってきてくださる。だから、私は死んでも生きるのだという信仰です。この時のヨブには、まだそのような信仰がないのです。
しかし、復活信仰というのは、「本当にもうこれでおしまいだ」という深い絶望を経験することによって、はじめて知りうる神様の救いの力ではないかと思います。そういう意味では、ヨブには復活信仰がないから駄目だというのではないのです。絶望があってこその復活だからです。ヨブ記を読み進めていくと、とことん絶望を味わったヨブが、やがて復活信仰に目ざめていくのを私たちを見ることになります。
さらにまた、友人たちとの議論を通しても、ヨブの信仰は神様に近づいていくのだとも言えましょう。確かに友人たちはヨブを慰めること、諭すことに失敗しています。しかし、だからといってヨブに何の役にも立っていないわけではないのです。反面教師と言ったら言い過ぎですが、友人等の言葉に反駁することによって、ヨブはだんだんと光明に向かって進歩していくのですから、友人は大切です。
私たちも自分が理解されないとき、友人や家族がうるさいだけの存在に思えてしまい、周囲の人々にまったく心を閉ざしてしまいたくなる誘惑にかられるかもしれません。しかし、そのような消極的な孤独の中ではどんな解決も開けてきません。たとえ理解してくれなくても、またそれに反論するばかりであったとしても、愛をもって語りかけてくる家族や友人との対話を続けることによって、自分自身の考えが整理されたり、導かれたりしていくものなのです。
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さて、8章に入ります。今度はビルダドがヨブに答えます。ビルダドというのは、エリファズに比べるとずっと頭でっかちのわからんちんですが、今申しましたように、彼への反論を通して神様に近づいていくという道を、私たちも辿りたいと思います。
「いつまで、そんなことを言っているのか。
あなたの口の言葉は激しい風のようだ。」(2節)
ビルダドは、ヨブの言葉の激しさに我慢ができないと言っています。確かに、ヨブの言葉は決して耳障りのいい言葉ではありません。怒りや不満に満ちており、反抗的であったり、厭世的であったりします。しかし、それはきれい事では言い尽くせないことがあるからであり、むしろそこにこそヨブの言葉の重み、真実さを読みとることができると言えましょう。
ところがビルダドは違うのです。ヨブの言葉や口調の激しさを「激しい風のようだ」と言います。それは嵐のように所構わずあたら散らす激しさを言い表すと共に、風のように空虚であるという皮肉をも含んでいるのでありましょう。
しかし、友達ならば、ヨブの言葉の激しさの中に秘められた切実なる訴えや祈りを聞き取ってしかるべきではありませんでしょうか。それを「声は大きく、激しく、熱を帯びているけれども、意味はない言葉だ」と言ってしまうところに、ビルダドの致命的な欠点があります。彼はもっと人情の機微を知ることが必要なのです。
ビルダドの主張は、極めて杓子定規です。
「神が裁きを曲げられるだろうか。
全能者が正義を曲げられるだろうか。
あなたの子らが
神に対して過ちを犯したからこそ
彼らをその罪の手にゆだねられたのだ。」(3-4節)
ビルダドは神様が曲がったことをするわけがないということを論拠に、ヨブの10人の子供らが突風により、家の下敷きになって死んでしまったのも、彼らが侵した罪に対する当然の報いなのだと言っています。彼は、実際にはヨブの子にどんな罪や悪行があったかを言っているのではありません。神様は正しいはずだから、災いで死んだ彼らは罪人に違いないと断言しているわけです。
これが10人の子供を一遍に亡くした友人に対する言葉でしょうか? あまりにも無神経な言葉に唖然とします。ビルダドは杓子定規の信仰を振りかざすばかりで、ヨブの苦しみや心の痛みを理解しようとしないのです。もし、本当に罪を犯して滅んだ者がいたとしても、滅び行くものへの悲しみを感じることなく、平然と「当然の報いだ」と言い放つようなものを、決して信仰とは呼べないのです。
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信仰は正しければ良いというものではありません。正しいだけの信仰は間違っています。信仰には「正しいか、間違っているか」の問題だけではなく、「愛があるか、ないか」という問題があるからです。パウロは、愛のない信仰は空しいとはっきりと教えています。
「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(1コリント13:2)
なぜ、愛のない信仰は空しいというのでしょうか。正しいだけでは駄目なのでしょうか。山動かす程の力があっても駄目だというのはどういう意味でしょうか。それは信仰の正しさは人を救うための正しさでなければなりませんし、信仰の力もまた同様に人を救う力であるからなのです。『ヤコブの手紙』2章14節にこのように言われています。
「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」
信仰とは人を救うためのものなのです。だからこそ、信仰の正しさは愛がなければ空しいし、信仰の力も愛がなければ空しいのです。内村鑑三は、このビルダドについてこう言っています。
「ビルダデの説くところに多少の真理がないわではない。しかしこの場合にヨブを慰むる言としては全然無価値である・・・彼はその真理と信ずるところを、場合も考えず相手の感情も顧慮せずして、頭から平気で述べ立てたのである」
内村鑑三は、ビルダドの正しさは学者の正しさであり、信仰者の正しさではないと言っているのです。 |
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とはいえ、ビルダドもまたはるばる遠方からヨブを見舞いに来た友人の一人です。そして、ヨブのあまりの変わり様を見て悲しみに暮れ、衣を裂き、灰を被って、七日七晩もヨブと共に座り込んだ人でもあります。ビルダドを心の冷たい人間だと言い切ることはできないでしょう。
しかし、苦難の中にある友に語りかけるには、それなりの技術というものが必要です。技術というと、愛は心ではないかと反論されるかもしれませんが、ビルダドにはヨブを思う心はあったのです。しかし、ヨブのことを分かる術を知らなかったために、結局、独りよがりになってしまったのです。
「あなたが神を捜し求め
全能者に憐れみを乞うなら
また、あなたが潔白な正しい人であるなら
神は必ずあなたを顧み
あなたの権利を認めて
あなたの家を元どおりにしてくださる。
過去のあなたは小さなものであったが
未来のあなたは非常に大きくなるであろう。」(5-7節)
この言葉などは、ビルダトの独りよがりをよく表しています。彼はヨブに「神を求め、憐れみを乞え」と言うのですが、ヨブがそれをしていないとでもいうのでしょうか。いったい6-7章のヨブの呻くような祈りを、ビルダトはいったいどのように聞いていたのでしょうか。そうです。彼はそれを「激しい風のようだ。声は大きいけれど、中身がない」といったのでした。
このようなすれ違いを起こしてしまうのが独りよがりなのです。私たちの気持ちが独りよがりにならないためには心だけではなく、技術が必要であるということなのです。愛の業には愛の「技」も必要だということです。
ちょっと厳しい言葉ですが、内村鑑三はこう言っています。
「ビルダデのごときは霊魂の藪医者なり。彼はいまだいためる心を癒すの術をきわめざりし者なり」
さて、次なるビルダドの言葉はこうです。
「過去の世代に尋ねるがよい。
父祖の究めたところを確かめてみるがよい。
わたしたちはほんの昨日からの存在で
何も分かってはいないのだから。
地上での日々は影にすぎない。
父祖はあなたを教え導き
心に悟ったところから語りかけるであろう。」
ビルダドは「先人の知恵に学べ」と言っています。「昔から言い伝え」と言ってもいいかもしれません。結局、自分が思ったり、考えたりするようなことは、思いつきのようなもので、昔からの知恵に頼るのが一番確かなのだというわけです。ビルダドが杓子定規の考え方になってしまうのは、こう言うところに起因しているのでしょう。
それに対してエリファズは、自分の人生経験や神秘的な体験をもとにして、ヨブに語りかけました。エリファズとて先人の知恵を無視しているわけではないでしょうが、それを自分なりのものに消化している点において、ビルダドに勝っていると言っても良いでしょう。
しかし、自分の経験でも、先人の知恵でも、どちらでも解決できないような問題だってあるのです。それがヨブの体験でありました。このようなことについては、直接神様に問い、神様に答えを頂くしかないわけで、ヨブが必死に神様に訴えているのはそのことなのです。 |
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(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
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