ヨブ物語 14
「夜明けを祈る」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記7章1-21節
何のために戦うのか
 朝鮮戦争で北朝鮮の捕虜キャンプに収容された9000人のアメリカ兵に起こった事柄は、軍の指導者を当惑させました。

 第一に、捕虜の三人に一人が何らかの形で敵に協力する利敵罪を犯したのです。当然、その背景に共産主義者たちによる拷問や洗脳があったのではないかと疑うところですが、実際は何一つそういうことがなかったにも関わらず、彼らは自分のために積極的に敵と取り引きし、自国を裏切ったのでした。

 第二に、捕虜キャンプから脱走しおおせたアメリカ兵は、ただの一人もいなかったという事実です。このようなことはアメリカの戦争の歴史の中で未だかつてないことでした。では、それほど厳重な見張りや設備があったのかというとまったく逆です。捕虜キャンプの見張りの数は捕虜100人に対して1人、警備犬も、機銃見張り台も、電気柵も、探照灯すら備え付けてありませんでした。ちなみにアメリカ軍は捕らえた中国共産主義者を監視するのに完全武装した三個の空輸連帯を常駐させ、19,000人の兵士をつけたというのですからその違いは歴然です。

 第三に、アメリカ兵捕虜は、アメリカ戦史上、最高の死亡率を示し、捕虜の37%が死亡しました。それは餓死のためでもなく、流行病のためでもありませ。病名のつけられない心理的な病気で、兵士達はそれを「あきらめ病」と呼んでいました。「あきらめ病」にかかったのは、親がかりで精神的な自立をしていない青年、物事を思い詰めるタイプの青年、依るべき信念を持たない青年でした。彼らは一人で部屋の隅に引っ込み、頭から毛布をかぶって、ただ壁に向かって座り込みます。そして丸二日も経たない内に死んでしまったのです。

 なぜ、このようなことが捕虜たちに起こったのでしょうか。軍の指導部はこれらの原因を究明するために徹底的に調査を行い、二つのことが明らかになりました。一つは、中国共産主義者は捕虜をふるいにかけ、リーダー的素質のある者を他の捕虜から引き離し、別に収容したというのです。こうして約5%の捕虜が引き離された結果、残りの95%の捕虜の中に以上のようなことが起こったのでした。

 もう一つは、彼らのほとんどは驚くべきことに自分たちの国についても、また敵国の共産主義についてもまったく無知であったということです。つまり、彼らは自分たちが何を守るために戦っているのか、さっぱり分かっていなかったというのです。

 心の拠り所を持たない人間、そして何のために生きるのかという使命を自覚しない人間は、生きるということに対していかに脆弱であるかということを物語る興味深いお話しです。人間というのは、他の生き物と違って、生きる意味を問題にする存在です。たとえどんなに生きるための条件が揃っていても、「なぜ生きるのか」という意味を喪失してしまうと、まったく生きる力を失ってしまうのです。
生きることは戦い 
 人生には様々な艱難があります。その艱難と戦いながら生きるのが人生だと言えましょう。従って、「なぜ生きるのか」という問いは、「なぜ戦うのか」という問いに置き換えることができると思います。

 ヨブも今、本当に苦しい人生の戦いをしています。彼はその人生を兵役に喩えました。

 「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。
  傭兵のように日々を送らなければならない。」(1節)

 人生は、戦争が終わらない限り戦いから解放されない兵役に捕らわれている傭兵のようなものだ、ヨブは言うのです。休まることのない緊張感と死と隣り合わせの恐怖の中で、傭兵は、時には人殺しになり、時には裏切り者になり、時には命乞いをし、殺されないために必死に戦います。

 なぜ、そこまでして戦うのでしょうか。答えは簡単です。戦わなければ殺されてしまうからです。他に生きる術がないから戦うのです。生きるためには鬼にもなり、卑怯者にもなり、土下座して命乞いをします。

 傭兵は別に、大義名分のために戦っているのではありません。戦うことにどんな意味があるのか、そんなことは知りません。雇い主(=神)の言うままに目前の戦いに身を投じ、がむしゃらに戦い抜くだけの一兵卒なのです。ヨブはそんな傭兵の姿に自分を重ね合わせたのでした。
夜明けを祈る
 しかし、そんな人生がふと空しく思えることもあるのではないでしょうか。生きるために戦うというけれども、こんな思いまでして本当に生きる意味があるのか、戦い続ける意味があるのか、そういう空しさです。ヨブの苦悩はまさにそこにありました。

 「奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ
  傭兵のように報酬を待ち望む。
  そうだ
  わたしの嗣業はむなしく過ぎる月日。
  労苦の夜々が定められた報酬。」(2-3節)

 日暮れというのは、奴隷が苦役から解放される時です。そのことをだけを頼りに、奴隷たちは重い苦役に耐えています。傭兵も同じです。戦うことに生きる意味を感じるはありません。いつか戦いが終わる時が来て、兵役から解放されることだけを願って戦い続けるのです。

 けれども、本当に終わりの日は来るのでしょうか。この苦しみから介抱されるのでしょうか。本当に奴隷ならば、日暮れになれば、たとえつかの間でも苦役から解放されます。しかし、傭兵は日が暮れても戦争から解放されることはありません。「わたしもそうだ、休まることはない」と、ヨブは言います。

 「『床に入れば慰めもあろう
  横たわれば嘆きも治まる』と思ったが
  あなたは夢をもってわたしをおののかせ
  幻をもって脅かされる。」(14節)

 解放が与えられるのは、「終戦」か「死」の訪れる時だけなのです。はたして、ヨブの「終戦」はいつ来るのでしょうか。癒しの時、回復の時は、本当に訪れるのでしょうか。いつまで待てば良いのでしょうか。

 「横たわればいつ起き上がれるのかと思い
  夜の長さに倦み
  いらだって夜明けを待つ。」(4節)

 10年前、荒川教会では『夜明けを祈る』という勝野和歌子前牧師の召天記念誌を出しましたが、そのタイトルはこの御言葉から取らせて頂きました。その前書きに書いた文章を紹介させて頂きます。

 「『横たわればいつ起き上がれるのかと思い、夜の長さに倦み、いらだって夜明けを待つ』(ヨブ7:4) 見るに耐えない痛々しい闘病生活であった。今、その勝野先生のお姿とヨブの心境が重なって思い浮かばれる。夜の長さを通して朝の明るさに突き抜けると信じ、それを説教壇からも語り続けた先生の最期のお姿であった。1991年3月31日イースター、先生はすでに入院中であられたが、荒川教会牧師として最後の責任を果たされた。病をおして講壇に立った先生は、『夜明け前』という説教を力強く語られた。『夜明け前というのは、本当に暗いんです・・・どうか、光の中に希望をもって、新しくなって・・・そして新しく出発する者になりたいと思います』 先生は隠退後も自適の生活は一日も侭ならず、病苦との戦いが続いた。そして、病院のベットに小さな身体を横たえながら夜明けを祈りつつ、1992年1月12日、神の国へと召された。夜もなく、夕べになっても光がある御国へと(ゼカリヤ14:7)」

 この文章でも少し触れてありますが、勝野先生は、隠退の日のイースター礼拝で、ご自分の入院生活の体験を語りながら、夜の暗さが増し加わる時こそ夜明け前の近いことのしるしなのだという本当に力強いメッセージを遺されました。

 しかし、ヨブにはまだそのような希望は見えていません。夜の暗さに、長さに、いつ終わるともしれない戦いに対する苛立ち、絶望を感じるばかりです。

 「肉は蛆虫とかさぶたに覆われ
  皮膚は割れ、うみが出ている。
  わたしの一生は機の梭よりも速く
  望みもないままに過ぎ去る。」(5節)

 「機の梭」とは、機織りの時、横糸を通すために用いられる舟形の道具のことです。よく動くので、日々の過ぎ去る早さの喩えとして用いられています。ヨブは、自分の戦いに「終戦」など来ない、それを待っていても空しく日々が過ぎ去っていくと嘆いているのです。
絶望との戦い
 それならば、ヨブを戦いから解放するものは「死」しかありません。ヨブはあからさまに死を願います。この「生きる」という戦いから、苦役から解放される日を。

 「もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。
  ほうっておいてください
  わたしの一生は空しいのです。」(16節)

 ヨブは病苦の苦しみから逃れようとしているのではありません。「いったい自分の人生に何を望み得るのか。何も望み得ないのに、なぜ、戦い続けなければならないのか」という人生の問題に答えがないことに絶望してしまっているのです。

 しかし、朝鮮戦争におけるアメリカ兵捕虜の「あきらめ病」とも違います。ヨブは絶望しつつ、絶望と戦っているのです。それは自分の雇い主である神様に向かって、「なぜですか」と問い、答えを求め続けていることから分かります。そのヨブの魂の戦いの物語が、この『ヨブ記』だと言ってもいいでしょう。

 絶望との戦いということで、思い起こす本があります。アウシュビッツの生きぬいた精神医学者フランクルがその体験を書いた『夜と霧』という本です。その中にこんなことが書かれていました。ある日、彼は、収容所で絶望した二人の男性から自殺しようとしていることを打ち明けられます。二人は口を揃えて「もはや人生から何ものも期待できない」というのです。その時のことを彼は次のように書いています。

 「しかしながら二人に対して、人生は彼等からまだあるものを期待しているということ、すなわち人生におけるあるものが未来において彼等を待っている、ということを示すのに私は成功したのであった。事実一人の人間には、彼が並はずれた愛情をもっている一人の子供が『待っていた』のであり、もう一人には人間ではないが他のものが、すなわち彼の仕事が『待っていた』のである。彼は科学者としてあるテーマについての本のシリーズを書いていたのであるが、それはまだ出来上がらず、その完結を待っていたのである。・・・この各個人がもっている、他人によってとりかえられ得ないという性質、かけがいがないということは、意識されれば、人間が彼の生活や生き続けることにおいて担っている責任の大きさを明らかにするものなのである。待っている仕事、あるいは待っている愛する人間、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできないのである」

 フランクルは、この話を通して、人生に絶望した人間がどのように再び希望を持つことができるかということを教えてくれています。絶望した人間の決まり文句は「もはや人生には何のよいものも期待できない」ということです。しかし、その観点を変える必要があるのです。あなたは人生に何もないと絶望しているかも知れないが、あなたが死んだらあなたのやり残した仕事はどうなるのか、あなたを愛して待ち続けている子供はどうなるのか、人生はあなたが生きることを望んでいる、それを考えることが大切だというのです。それを真剣に考えたら、自己放棄はできないのだというのです。

 フランクルは「われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されることが大切なのだ」とも言います。自分を中心に他の人間や社会に意味を問いかける人生を生きていったら、必ず行き詰まる時(絶望)が来るのです。しかし、神様や他の人間によって、あるいは生かされていること、愛されていること、使命が与えられていること、果たすべき責任があること、そのようなことを考えると、「なぜ」という人生の問題に答えが出てくるわけです。難しいことですが、ここに希望を持つために大切なヒントがあるように思うのです。

 ヨブの問題に即して言えば、神様に苦難の意味を問うのではなく、苦難を通して神に問われている(=期待されている)ということを、ヨブが気づく必要があるということなのです。実際、ヨブの「終戦」は、ヨブが神様の問いに耳を傾けるときに訪れるのですが、それはまだ先のことです。それまで、私たちも忍耐強く、ヨブ記を学んで生きたいと思います。
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