ヨブ物語 25
「わたしの人生の保証人」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記17章
墓があるばかり
 ヨブは想像を絶するような苦しみを受けました。私たちには到底ヨブの苦しみの深さを知ることはできません。けれども、「どうして、あんなにいい人が・・・」、「どうして、罪もない人々が・・・」と、正しい人が理由なく苦しむ現実があることは、私たちも目の当たりにすることがあるのです。

 理由が分からないということには、二つありまして、「なぜ?」(=原因)と「どうして?」(=目的)です。原因がはっきりとしている苦しみ、それは罰として受けとめることができるでしょう。目的がはっきりしている苦しみ、それは試練として受けとめることができるでしょう。しかし、ヨブほどに回復不可能なまでに徹底的に痛めつけられてしまいますと、それはもう試練の域を超えていると言わざるをえません。そうしますと、考えられるのは罰ということですが、ヨブは人間としてできる限りの正しさをもって生きてきた人でありましたので、これも納得できません。

 ヨブの苦しみには理由がないのです。原因も目的も分からないのです。ということは、ヨブは無意味の苦しみを味わっているということになります。

 「わたしの人生は過ぎ去り、
  わたしの計画も心の願いも失われた。」(11)

 無意味な苦しみは、生きていることを無意味にしてしまいます。人間というのは、「生きている意味」というものを考えなくては生きていけない存在だからです。ヨブは言います。

  「息は絶え、人生の日は尽きる。
  わたしには墓があるばかり。」(1)

 わたしには墓がばかり・・・ヨブには生きることはよりも、死ぬことばかりを考えているのです。それは、無意味な苦しみによって、生きることが無意味されてしまったからです。13節からのヨブの告白は、さらにショッキングです。

 「わたしは陰府に自分のための家を求め
  その暗黒に寝床を整えた。」(13)

 「寝床を整える」というのは安息を、休息を取るということでありましょう。ヨブにとって、もはや死の国こそが安息であるというわけです。

 「墓穴に向かって『あなたはわたしの父』と言い
  蛆虫に向かって「わたしの母、姉妹」と言う。」(14)

 墓穴に「お父さん」と呼びかけ、墓穴に横たわる自分の遺体につく蛆虫にむかって「お母さん、お姉さん」と言う・・・何ともグロテスクな光景です。普通の精神の人が考えられることではありません。しかし、ヨブはこの生きている世界には何の光も見いだせないのです。陰府、つまり死の国だけが望みだというのです。

 「どこになお、わたしの希望があるのか。
  誰がわたしに希望を見せてくれるのか。
  それはことごとく陰府に落ちた。
  すべては塵の上に横たわっている。」(15-16)
無理解という敵意
 しかし、本当に生きることが無意味な人などいるのでしょうか。どんな人間も神様に作られ、意味のある人生と価値ある命が与えられているはずなのです。ただ、それが神様の御手の中に隠されてしまって、さっぱり分からなくなってしまうということがあるわけです。

 それほどの苦しみの中にあるのに、

 「人々はなお、わたしを嘲り、
  わたしの目は夜通し彼らの敵意を見ている。」(2)

 と、ヨブは嘆きます。ヨブの苦しみには肉体的苦痛、そして神の沈黙(=人生の意味がわからないこと)だけではなく、友人たちの無理解ということもあったのです。

 無理解というのは、無知や不勉強や無関心が招く誤解です。誤解というのは、私たちもよくすることでありますが、決して「敵意」を持っていることではないと思うのです。むしろ善意であったり、他意はなかったりするのです。しかし、誤解された本人は精神的に苦痛を強いられ、自分に対する敵意をするどく感じ取ってしまうわけです。

 こういうことはよく差別事件で見られます。黒川温泉ホテルの引き起こした元ハンセン病患者に対する差別事件は、皆様にもご記憶があることでしょう。熊本県が元患者たちの社会復帰支援の一環として実施している「ふるさと訪問事業」で、十八人の元患者が黒川温泉ホテルに泊まることになっていました。ところが、宿泊客が元患者であることを知らずに予約を受け付けたホテル側が、元患者である事実を知るや宿泊を拒否したという事件です。この事件は直ちに公にされ、ホテル側への非難が浴びせられました。しかし、ホテル側は謝罪するどころか、宿泊拒否は当然だと居直り、またこれは差別ではないと開き直ったのです。まったく悪質な差別事件だと言わざるをえないでしょう。

 後に、ホテル側はハンセン病に対する無知、無理解があったことを認めました。しかし、それでも宿泊拒否は差別ではないという主張は譲りませんでした。どうしてなのでしょうか。きっと自分たちには無知や無理解はあり、結果として患者たちに苦しみを与えてしまったが、意識的な悪意はなかったのだということを言いたいのだと思います。しかし、差別というのは、特定の積極的な差別主義者だけが起こすものではなく、無知、無理解という消極的な差別問題に消極的な人々によっても引き起こされているのです。その人たちは、まさか自分が差別の当事者であるなどとは思っていません。しかし、それは差別されている人たちの痛みや苦しみにかかわろうとしていないだけであって、そのこと自体が、彼らが必死に叫び声をあげているのに聞こうとしないという、差別となっているのです。当然、差別されている人たちは、そのような人たちを差別主義者として見るわけです。

 ヨブが自分の気持ちは分かろうとしてくれない友人たちに、「人々はなお、わたしを嘲り、わたしの目は夜通し彼らの敵意を見ている。」というのも、そのような気持ちからであろうと思います。
神よ、保証人になってください
 このようなまったく救いのない状況の中で、ヨブは、神様に、あなたが私の保証人になってくださいと叫びます。

 「あなた自ら保証人となってください。
  ほかの誰が、わたしの味方をしてくれましょう。」(3)

 保証人とは何でしょうか。日本では契約をする時、特に金銭が絡んできますと、保証人を立てる必要が生じてきたりします。もし、当人が約束を果たせなかったら、保証人がそれを負うという約束です。保証人になったために、自分がしたわけでもない借金に苦しめられる人もずいぶん多いのです。

 保証という言葉の意味は、これは間違いないことを請け合うことでありましょう。そう考えますと、私たちは誰かを保証するということは、つまりこの人は大丈夫だと請け合うことなどできないのではないかと思います。だから、ヨブは神様に保証人になってくださいと求めたのでありましょう。

 しかし、いったい何の保証人になってくれということでしょうか。一言で言えば、人生の保証人ということだと思うのです。最初にもうしましたように、ヨブは自分の人生の意味が分からなくなってしまっています。ヨブの周りの人々、友人たちも、ヨブの人生の意味を理解することができず、ヨブを苦しめることばかりを言います。

 私の人生にはもはや何の価値もないのではないだろうかという強い思いが、ヨブの心の中に生まれてきます。「そうではない」と自分では言うことはできないし、誰も言えません。しかし、ヨブは、私をお造りになったのは、神様、あなたなのですから、あなたが「そうでない」と言ってください。私の人生の価値を保証してくださいと言っているのだと思います。そうすれば、どんなに辛くても、苦しくても、私はあなたの保証の言葉を信じて生きていくことができますということではないでしょうか。
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