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「私は生まれてこない方が幸せだった」と言うヨブに対して、友人のエリファズは誠心誠意の言葉をもって、ヨブを叱咤激励しました。「そんなことを言ってはいけない。神はいつも正しい方だ。たとえ神さまの御心が理解できいことがあっても、人間の方が神さまより正しくあることも、利口であることもないのだ。遜って神さまの懲らしめを受けなさい。そして、神さまの憐れみにより頼みなさい。そうすれば、神さまは憐れみ深い御方だから、必ずあなたを癒し、回復させてくださるだろう。」
しかし、その言葉はヨブの心に届きません。ヨブとてエリファズの言わんとすることは分からないわけではないのです。自分が神さまより正しいとか、何も悪いことをしていないと思っているわけではありません。しかし、この苦難が神の懲らしめや戒めであるならば、どうしても計算が合わないのです。秤が釣り合わないのです。
「わたしの苦悩を秤にかけ
わたしを滅ぼそうとするものを
すべて天秤に載せるなら
今や、それは海辺の砂よりも重いだろう。
わたしは言葉を失うほどだ。」(2-3節)
はたして私は財産を失い、子供らを失い、死ぬほど苦しい病気にかからなければならないほど、私は神さまを怒らせたのだろうか? いったいどうしてこのような目に遭わなければならないのか、さっぱり訳がわからない。これがヨブの言い分なのです。
実際、私たちはヨブの苦しみが「神の懲らしめ」ではないことを知っています。1-2章で見てきたように、ヨブの受難は、ヨブを中傷するサタンに対して、神様がヨブの正しさの証拠を示そうとしてた与えられたものだったのです。それは、神様のヨブに対する信頼の表れでもありました。
しかし、ヨブはまさか自分を巡って天でそのような取り引きが繰り広げられているとは思いもしません。「いったい、どうしてなのだ? これはとても懲らしめの域を超えている。理由は分からないが、神さまが私に敵対しているとしか思えない」と、ヨブは思うのです。
「全能者の矢に射抜かれ
わたしの霊はその毒を吸う。
神はわたしに対して脅迫の陣を敷かれた。」(4節)
激しい言葉です。ヨブは、「これは君の言う『神の懲らしめ』などではなく、神の攻撃だ。神は私に向かって弓を引き、毒矢を放ち、私はそれに射抜かれたのだ」と、エリファズに答えているのです。 |
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さらにヨブは言葉をつなぎます。
「青草があるのに野ろばが鳴くだろうか。
飼葉があるのに牛がうなるだろうか。」(5節)
必要なものがきちんと備えられていれば、誰も「死にたい」などと泣いたり、わめいたりしません。では、ヨブにとって必要なものとは何でしょうか。もちろん、それは胃袋を満たす食べ物なんかではありません。ヨブが飢え渇いているのは、魂を満たすもの、「生きる意味」なのです。それが失われているからこそ、ヨブは訴えるのです。
「味のない物を塩もつけずに食べられようか。
玉子の白身に味があろうか。」(6節)
味気ない食物を食べるのは空しさものです。そのようなものには食欲すら湧きません。同じように、私たちは人生に何の希望も意味も見いだせなくなってしまったら、「生きたい」とか、「苦しくても頑張ろう」という気持ちは全く湧いてこなくなってしまうのです。
「わたしのパンが汚れたもののようになれば
わたしの魂は触れることを拒むだろう。」(7節)
「パン」とは、人を生かす最も基本的で大切な「命の糧」の譬えです。この命の糧について、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイによる福音書4章4節)と言われました。また、「わたしは命のパンである」(ヨハネによる福音書6章48節)、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(同 6章51節)とも言われました。「神の言葉」、「イエス・キリスト」、この二つは同じ事を言っています。どちらも、人間に神の存在を示し、生ける神さまとの交わりを与えてくれるものなのです。つまり、「神との交わり」こそ、私たちにとっても、ヨブにとっても「わたしのパン」だと言えましょう。
どんなに苦しいときにも、神さまとの交わりが祝福されていれば、生きる喜びも、満足も、希望も湧いてきます。しかし、ヨブは、それが汚れてしまったというのです。それはどういう意味かと言いますと、神さまの愛や正しさが信じられなくなってしまった、神さまが自分に弓を引き、毒矢を射ったとしか思えなくなってしまったということです。
このように神さまとの交わりが祝福から呪いに変わってしまったので、もう私は生きる意味がないというわけです。 |
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それゆえ、ヨブは死を願います。
「神よ、わたしの願いをかなえ
望みのとおりにしてください。
神よ、どうかわたしを打ち砕き
御手を下し、滅ぼしてください。」(8-9節)
しかし、私たちは、ヨブがこれほどまでに死を願いつつも、決して自ら命を断とうとはしないことに注意をしなくてはなりません。神さまは、命の主です。生きることも、死ぬことも神さまの御手の中にあるのです。ですから、ヨブは「生まれてこなかった方がよかった」とは言えますが、自分の意志の力で生まれることを拒否することはできません。同じように、「死にたい」ということはできますが、自分の意志の力で死ぬことはできないのです。できない、というのは不可能という意味ではなく、決して許されないことだというこです。
3章の学びの時にもお話ししましたが、ここにヨブの信仰があります。神さまを喜べなくなっても、ヨブは神さまが神さまであることを決しておかそうとしません。そういうことが、ヨブにはできないのです。それができないということが、ヨブの正しさ、つまりヨブの神さまに対する畏敬の念、また絶対的な信頼というものを物語っています。
だからこそ、ヨブは「神なき死」を恐れます。よく「死ねば楽になる」と言いますが、神なき死は決して安息ではありません。それは永遠の地獄です。ヨブが願うのは神の御手の中にある死なのです。
「仮借ない苦痛の中でもだえても
なお、わたしの慰めとなるのは
聖なる方の仰せを覆わなかったということです。」(10節)
クリスチャンであるならば、誰でも信仰を全うして、神さまの御手の中で死にたいと願っているはずです。ヨブの願いもそこにありました。ヨブは言います。もし、この仮借のない苦しみが、神の御手の中で死ぬためのものならならば、私はそこに慰めを得る、と。
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しかし、神さまはヨブになおも忍耐を求めておられます。その苦しむばかりで、死が与えられないことに、ヨブは切ないまでに胸の思いを訴えています。
「わたしはなお待たなければならないのか。
そのためにどんな力があるというのか。
なお忍耐しなければならないのか。
そうすればどんな終りが待っているのか。
わたしに岩のような力があるというのか。
このからだが青銅のようだというのか。
いや、わたしにはもはや助けとなるものはない。
力も奪い去られてしまった。」(11-13節)
忍耐とは生きながら死を味わいながら生きることです。もう一分一秒たりともこの苦しみが続くことに耐えられないと、ヨブは言います。神さまは忍耐をもとめられるけれども、わたしにはそんな力はないとも言います。
忍耐のための力とは希望です。神の御心がはっきりと分かっていさえすれば、希望も湧いてくるし、忍耐する力も湧いてくるでしょうが、ヨブにはこれが何のための苦しみか、何のための忍耐か、いったいどんな終わりが待っているのか、さっぱり分からないのです。これでいったいどうやって忍耐すれば良いのでしょうか。
「わたしにはもはや助けとなるものはない」という深い絶望が、ヨブを襲ってくるのも仕方ないことです。
しかし、このような時にもなお、ヨブは神さまの前にいます。決してそこを離れません。それこそがヨブの信仰ではないでしょうか。『ヤコブの手紙』にはこのように記されています。
「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」(5章11節)
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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