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今日は、エリファズがヨブを励まそうとして語った言葉の続き、4章13節以下から学びます。前回は、エリファズの因果応報という考えについてお話しをしましたが、今回はエリファズの考えではなく、体験について書かれています。
「夜の幻が人を惑わし
深い眠りが人を包むころ」 (4章13節)
「夜の幻」とは夢のことです。「深い眠り」というのは、神さまがアダムを深い眠りに落とされたという話(創世記2章21節)を思い起こすような言い回しです。こうした意味深長な言葉を操りながら、エリファズは、神さまとの出会いを経験した不思議な夜のことについてヨブに語り始めるのです。
「恐れとおののきが臨み
わたしの骨はことごとく震えた。」(4章14節)
エリファズは、姿のないけれども得体の知れない何者かが近くに存在することを感じ、戦慄しました。「骨」とは体を支えているものです。それが震えるということは、自分の存在が激しく揺るがされ、崩壊してしまうような経験をしたということです。
聖書には神さまとの出会いを経験した人々が何人も登場しますが、必ずこのような恐れとおののきにとりつかれる経験をするようです。神さまの顔を見た者は死ぬとまで言われているのです。このように、聖なる神さまに出会うということは、罪深い人間にとって耐えられない体験だからでありましょう。
「風が顔をかすめてゆき
身の毛がよだった。」(4章15節)
「風」は、「霊」や「息」とも訳せる言葉です。幽霊のような、誰かの息のような、なま暖かい風が、得体のしれない恐怖感に襲われたエリファズの顔をそっと撫で行きました。エリファズはぞっとして身の毛がよだちます。
「何ものか、立ち止まったが
その姿を見分けることはできなかった。
ただ、目の前にひとつの形があり
沈黙があり、声が聞こえた。」(4章16節)
エリファズは何者かが立ち止まった気配を感じました。何かが確かにそこにいるけれども、得体が知れない。まるで幽霊を見たかのような恐怖体験です。その得体の知れない存在はしばらく黙ってそこに居ましたが、やがてエリファズに向かって語りかけました。その声は、音声として耳から聞こえてきたというよりも、直接心に、あるいは脳裡に語りかけてくるようなものであったかもしれません。
「人が神より正しくありえようか。
造り主より清くありえようか。
神はその僕たちをも信頼せず
御使いたちをさえ賞賛されない。
まして人は
塵の中に基を置く土の家に住む者。
しみに食い荒らされるように、崩れ去る。
日の出から日の入りまでに打ち砕かれ
心に留める者もないままに、永久に滅び去る。
天幕の綱は引き抜かれ
施すすべも知らず、死んでゆく。」(17-21節)
人は塵の中に基を置く土の家に住む者・・・日の出から日の入りまでに打ち砕かれ・・・。「土の家」、「天幕」とは、人間の肉体のことです。「日の出から日の入り」とは人の一生のことです。エリファズは、どうやら人間の生命や人生のはかなさというものを悟ったようです。
それは賢者エリファズの開眼とも言える体験だったに違いありません。もともとエリファズというのは、神について「ああでもない、こうでもない」と偉そうに論じる人間だったのかもしれません。しかし、それがどんなに傲慢なことであったか、神さまの偉大さも人間の小ささも知らぬ愚かなことであったかと、エリファズは悟ったのです。
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なぜエリファズは、今そのような体験をヨブに打ち明けたのでしょうか。きっとエリファズには、ヨブが神さまに楯突いているように見えたのだと思います。それに対して、たとえどんなに神さまが不当に思える時であっても、神さまが間違っているということはあり得ないだと諭しているのではないでしょうか。
「呼んでみよ
あなたに答える者がいるかどうか。
聖なるものをおいて、誰に頼ろうというのか。」(5章1節)
「聖なるもの」は複数形で、神さまというよりも天使たちのことです。天使たちもヨブの訴えに答えることがないだろうというのは、ヨブの訴えにはまったく正当性がないということです。つまり、「間違っているのは神さまではない、あなただ」と、エリファズはヨブに言いたいのです。
「愚か者は怒って自ら滅び
無知な者はねたんで死に至る。」(5章2節)
いつも文句を言い怒っている人や、いつも人の幸せをねたんだり、うらやましがったりしている人がいます。こういう人は、神さまや人生についてきちんと考えようとしない浅はかな人間であると、エリファズは言い切ります。もちろん、そういう愚かな人間がこの世に根を張ってはびこり、栄えているという現実世界の矛盾を、エリファズも見て知っています。しかし、彼らはかならず正しい神さまの裁きを受け、彼らの富は飢えた人や貧しい人に分け与えられるようになるのだと、エリファズは確信をしているのです。
「愚か者が根を張るのを見て
わたしは直ちにその家を呪った。
その子らは安全な境遇から遠ざけられ
助ける者もなく町の門で打ち砕かれるがよい。
彼らの収穫は、飢えた人が食い尽くし
その富は、渇いた人が飲み尽くし
その財産は、やせ衰えた人が奪うがよい。」(5章3-5節)
町の門で打ち砕かれるがよい・・・「町の門」というのは広場になっていて、契約や裁判が行われる社会的に重要な場所でした。そこで打ち砕かれるとは、必ずや悪しき人々に対して神さまの正義が行われるということです。エリファズは、ヨブがそのように神に打ち砕かれる愚か者だと言っているのはありません。しかし、自分を正しいとし、神を訴えるような事をすれば、そのような愚か者の仲間になってしまうのだぞ、と忠告を発しているのです。
「塵からは、災いは出てこない。
土からは、苦しみは生じない。
それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。
火花が必ず上に向かって飛ぶように。」 (5章6-7節)
創世記2章7節には、人間は神さまによって土の塵でつくられたと書かれています。しかし、エリファズは、神さまが粗末な材料で人間を作ったから、人間が苦しんだり、病気になったりするのではないと言っています。たとえ、土の塵であろうと神様を造られたものに欠けはないはずだからです。もし人が苦しむとすれば、その原因は神さまにあるではなく、人間の内側にあるこそあるのだというのが、エリファズの主張なのです。人間の罪深さが、愚かさが、苦しみを生みだしている。だから、どんな苦しみについても神さまを訴えたりするのは言語道断で、すべて自分自身の責任なのだと言いたいのでありましょう。 |
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苦しみの原因が神様にあるのではなく、すべて自分自身にあるのだというエリファズの主張は、苦しめる人間にとって絶望的とも言える厳しい言葉だと言えます。いったい、そういう人間はどうしたらいいのでしょうか。
「わたしなら、神に訴え
神にわたしの問題を任せるだろう。
計り難く大きな業を
数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。」(5章8節)
わたしなら、神様に不平不満をぶつけたりせず、逆に遜って、自分の愚かさを認め、罪を悔い、憐れみを祈り求めるだろうと、エリファズは言います。「神にわたしの問題を任せる」というのは、「もう、どうでもいい」ということではありません。神様は人間とは違って、罪を赦し、罪人をも計りがたく、不思議な御業をもってお救いくださる御方であるから、遜って神に寄り頼めということなのです。
「神は地の面に雨を降らせ
野に水を送ってくださる。
卑しめられている者を高く上げ
嘆く者を安全な境遇に引き上げてくださる。
こざかしい者の企てを砕いて
彼らの手の業が成功することを許されない。
知恵ある者はさかしさの罠にかかり
よこしまな者はたくらんでも熟さない。
真昼にも、暗黒に出会い
昼も、夜であるかのように手探りする。
神は貧しい人を剣の刃から
権力者の手から救い出してくださる。」(5章10-15節)
エリファズは神さまの偉大な御業は、強きをくだき弱きを助けるのだといっています。
「だからこそ、弱い人にも希望がある。
不正はその口を閉ざすであろう。」(5章16節)
と、いうのです。
「見よ、幸いなのは
神の懲らしめを受ける人。」(5章17節)
たとえ神さまから厳しい懲らしめを受けたからといって、神さまから顔を背けていては、救いは来ません。神さまからの懲らしめを懲らしめとして受けて、その上で神さまに憐れみを求めるならば、神さまの恵み深さ、力強さに希望を持つことができます。ですから、エリファズは敢えて、神様の懲らしめを否まず、素直に受ける人は幸いだと語るのです。
「全能者の戒めを拒んではならない。
彼は傷つけても、包み
打っても、その御手で癒してくださる。
六度苦難が襲っても、あなたを救い
七度襲っても
災いがあなたに触れないようにしてくださる。
飢饉の時には死から
戦いの時には剣から助け出してくださる。
あなたは、陥れる舌からも守られている。
略奪する者が襲っても
恐怖を抱くことはない。
略奪や飢饉を笑っていられる。
地の獣に恐怖を抱くこともない。
野の石とは契約を結び
野の獣とは和解する。
あなたは知るだろう
あなたの天幕は安全で
牧場の群れを数えて欠けるもののないことを。
あなたは知るだろう
あなたの子孫は増え
一族は野の草のように茂ることを。
麦が実って収穫されるように
あなたは天寿を全うして墓に入ることだろう。
見よ、これが我らの究めたところ。
これこそ確かだ。
よく聞いて、悟るがよい。」(5章18-27節)
この最後の語りかけは、これまでの教え諭すような語調とは違い、エリファズのヨブに対するいたわりと励ましに満ちているように聞こえます。神様の慰めを受けよ、というのです。
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解説書などを読みますと、エリファズというのは独善的で、傲慢で、偽善者で、ヨブのことを少しも分かっていないと非難する声もあります。しかし、そうでしょうか。たとえば私たちがヨブの友だとして、果たしてエリファズ以上の言葉をかけてあげることができるでしょうか。そう思いますと、エリファズはヨブへの友情をもって、心を尽くし誠実に語っているに違いないと思うのです。
ただ結果として、エリファズの言葉はヨブを慰めることができませんでした。それはエリファズがヨブに対して神の立場に立ってしまっているからなのです。エリファズの言葉は完全ではないにしても、度を超して的はずれとは言えません。いや、むしろ正しいのです。正しすぎるのです。しかし、このようにエリファズが神の代弁者になろうとしたこと、それこそがエリファズの欠けたるところでした。エリファズが神の立場に立つとき、神の代弁者となるとき、ヨブは友を失います。ヨブの求めていたのは自分の立場に立って共に神に祈ってくれる友であったに違いないのです。
これは、私たちにとってもしばしば悩みの種となるところです。弱い人に対して、叱咤激励することが必要な場合もあるでしょう。愚かな人に対して、知恵を語ることが必要な場合もあるでしょう。しかし、必ずしもそれが良い結果を生むことになりません。敢えて諫めるようなことは何も言わず、共に悩み、共に泣くということが、苦しみにある人の大きな力になることもあるのです。 |
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(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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