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1-2章で描かれていたヨブは、まったく非の打ち所のない模範的な人間でした。どんな艱難辛苦をなめても、「主の御名はほめたたえられよ」と立派な信仰を言い表し続けてきたのです。
しかし3章からは、それが一転します。そのきっかけは見舞いに来てくれた親友たちの真実なる友情に触れたことにあったと思われます。私たちも人の優しい心に触れた時、自分の心が急に弱くなることがあるのではないでしょうか。そういうことがヨブの心にも起こったのだと思うのです。いずれにせよ、これまで一言も嘆きをもらさなかったヨブが、友人たちの前で堰を切ったように自分の苦難と苦痛とを吐露し始めたのです。
それはあまりにも激しすぎました。これまでは敢えて安っぽい同情の言葉をかけるよりも、共に灰の中に座り、黙って苦しみを共にすることを善しとしてきたヨブの友人たちも、ヨブが激しい口調で自分の生まれた日を呪い、死ぬことばかりを願いだすと、さすがに黙っていることが出来なくなってしまうのです。最初に口を開いたのが、最年長者のエリファズでした。
「テマン人エリファズは話し始めた。
あえてひとこと言ってみよう。
あなたを疲れさせるだろうが
誰がものを言わずにいられようか。」(1-2)
「あえてひとこと言ってみよう」という言葉から、エリファズは決して軽率な人ではなかったと推測します。年長者ぶって何にでもひとこと言わなければ気が済まないような人もいるのですが、エリファズはそんな人ではなかったのです。しかし、ヨブの激しい言葉を聞いて、深い悲しみを覚えると共に、どうしても一言いわなければならないような気持ちにさせられるのです。
このエリファズの気持ちは、私にもよく分かります。愛する家族や友人の口から「自分なんか生まれてこない方が良かったのだ」とか、「死んだ方がましだ」という言葉を聞くことは耐え難いことです。辛いだけではなく、とても不安な気持ちに襲われます。このまま彼は立ち直れないのではないだろうか、本当に死んでしまうのではないだろうか・・・そういう時に、親ならば、あるいは本当の友人ならば、たとえ上手な言葉が見つからなくても、自分の実存をかけて何とか真実な語りかけをしなくてはいけない、というせっぱ詰まった気持ちにさせられるのではないでしょうか。
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「あなたは多くの人を諭し
力を失った手を強めてきた。
あなたの言葉は倒れる人を起こし
くずおれる膝に力を与えたものだった。」(3-4)
エリファズにとってヨブは敬愛してやまない理想の人だったのでありましょう。そんなヨブが、「生まれてこない方がよかった」とか、「死んだ方がましだ」などと、まったくヨブとは思えないようなことを口走ったので、エリファズは少なからずショックを受けたのではないかと思います。
「だが、そのあなたの上に何事かふりかかると
あなたは弱ってしまう。
それがあなたの身に及ぶと、おびえる。
神を畏れる生き方が
あなたの頼みではなかったのか。
完全な道を歩むことが
あなたの希望ではなかったのか。」(3-4)
エリファズは、なんとかヨブに正気を取り戻してほしいと願って、こう言っているのです。「君はそんな人間ではなかったじゃないか。君の願いは、どんな苦難も乗り越えていく強い人間であることではなかったか。信仰によって立派に人生を生きぬくことではなかったか。それなのに自分の誕生を呪ったり、死をさえ願う言葉を口にしたりするとは何事か。今の君は、本当の君ではない。しっかりしろよ。」 彼はヨブを奮い立たせようとして激励しているのです。
しかし、「君らしくない」というのは激励は、「そんな君はとても尊敬できない」という批判や、「俺を失望させないでくれ」という願望の意味も込められている言葉ではないでしょうか。「君らしくない」と言うことによって、力を落としている者を励ますこともあれば、余計に追い詰めてしまうこともあるということを、私たちは忘れてはいけないのです。
要するに、「らしくない」という考え方がくせ者なのです。私たちは意外と、「男(あるいは女)らしくない」、「子供らしくない」、「親らしくない」、「クリスチャンらしくない」ということを平気で口にしているのではないでしょうか。しかし、それは「○○らしさ」という枠の中に人を押し込めることに他なりません。それによって、その人の本当の意味での「らしさ」を否定したり、無視したりしていることがあるのではないでしょうか。
ヨブは確かに強い人間だったのでしょう。しかし、強くなければヨブではないとは言えないはずです。強いヨブにも、このような弱い一面があったのだということ、それが本当のヨブの姿であったとを認めてあげるということも大切だと思うのです。そして、そういう弱さをさらけ出したヨブであっても、かつてのヨブと同様に親友として敬愛する心を持ち続けることが、エリファズには必要だったのではないかと思います。しかし、エリファズは自分にとっての理想的なヨブであり続けて欲しいと、それをヨブに押しつけようとしているのだとも受けとめられるのです。 |
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「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ
正しい人が絶たれたことがあるかどうか。
わたしの見てきたところでは
災いを耕し、労苦を蒔く者が
災いと労苦を収穫することになっている。
彼らは神の息によって滅び
怒りの息吹によって消えうせる。
獅子がほえ、うなっても
その子らの牙は折られてしまう。
雄が獲物がなくて滅びれば
雌の子らはちりぢりにされる。」(7-11)
エリファズはヨブの正気に戻そうとして、道理を説きます。ヨブがこのような苦しみを味わっているのは、ヨブ自身の中に災いを生み出す原因があるに違いない。その原因を探り出し、罪を悔い改め、罪を捨てなさいということです。
これは、いわゆる因果応報という道理です。悪いものを蒔いた人は悪いもの刈り取ることになるという因果応報の道理は、仏教思想の専売特許ではなく万国共通に人の心に深く根付いているものですし、真理の一面を表すものでもあります。もちろん、聖書の中にも因果応報はあります。たとえばパウロははっきりと「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(ガラテヤ書6章7節)と教えているのです。
エリファズは、この因果応報を単なる哲学や教義としてではなく、「わたしが見てきたところでは」とありますように、長い自分の人生を通じて見てきたこと、経験してきたこととして語っているのですから、かなり説得力があります。しかし、因果応報だけですべてを推し量るのは無理があるのです。
内村鑑三は、エリファズはいまだ道理の半分しか理解していないのだと、このように言っています。
「エリパズは半ば人生を解して半ばこれを解せざりし。罪なくして滅びし者なきにあらず。また正しくして絶たれし者あり。これ無しと断言し、これ有りと確言するは、人生の半解といわざるを得ず。しかり、義人の絶たれしことあり。されども彼が死をもって唱道せし正義の絶たれしことなし。しかり、義人のこの虚偽の世において絶たれしことあり。されども彼は永久に絶たれしにあらず。義人は死して生く。これキリストが吾人に教えたまいしところなり。エリパズいまだキリストを知らず。ゆえにいまだこの事を解せざりし。またエリファズのごとくにキリストを知らざる者が人生を解することを、おおむねみなかくのごとし。」
内村鑑三の言うように、罪のない人が苦しみ、義しい人間がこの世の悪しき力によって絶たれるという、因果応報に矛盾することが人生に起こっているということを素直に認めるほうが、私たちの人生経験とも一致するのではないでしょうか。しかし、それでは人生の苦難に対する答えにはなりません。そこで、仏教などでは前世の因果まで持ち出して説明するわけです。
しかし、キリスト者である内村鑑三は違います。確かに義人の苦しみというものがある。しかし、義人は死んでも生きるのだ。これはキリストが教えてくださったことで、エリファズはいまだキリストを知らないのだから、そのような人生の真理を知らないのも無理からぬことだ。エリファズのみならずキリストを知らなければ、エリファズのような見解に留まるのが限界なのだ、というわけです。
エリファズは決して冷たい気持ちで「あなたの苦しみは、あなたの罪の故だ」と言ったのではないと思います。なんとかヨブを苦しみから救いたいという真の友情がそこにあります。しかし、そんな友情も、人間的な知恵や優しさだけではどうにもならないことがあるということなのです。エリファズがどんなに誠実な人間であったとしても、キリストを知らない人間の限界があったのだ、という内村鑑三の見解に私も同意せざるを得ません。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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