ヨブ物語 09
「生まれた日を呪うヨブ」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記3章1-26節
ヨブは信仰を失ったのか?

 「やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った。」(1-2)

 いったいヨブはどうしたのでしょうか。不動に見えたあの信仰をあっさりと失ってしまったのでしょうか。1-2章に描かれていたヨブは、どんな苦しみにあっても、必ずこのように神を讃美してきました。

 「主は与え、主は奪う。
  主の御名はほめたたえられよ」(1章21節)

 「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、
  不幸もいただこうではないか」(2章10節)

 それが3章になると一変してしまうのです。ヨブは激しい言葉で誕生日を呪い、死を願い、自分の苦しみを訴えます。これは、どんな聖人君子に見える人間であっても、いざ自分の身に苦しみが襲うならば必ず面と向かって神様を呪うようになるだろう(2章4-5節)、というサタンの主張が正しかったと言うことなのでしょうか。

 しかし、そんなに性急に結論を出してはいけません。苦しい時に苦しいと感じ、悲しいときに悲しいと感じ、その気持ちを正直に神様に訴えることは、はたして不信仰なのでしょうか。信仰とは、どんな痛みも苦しみも感じない心を持つことなのでしょうか。そうとは思えません。正直な話し、これまでのヨブは信仰者として立派すぎたのです。泥棒にはいられても悔しさを感じない。子供が死んでも悲しまない。病気になっても苦しまない。立派すぎて人間味を感じません。たとえ罪を犯さなかったと言われても、少しも尊敬する気持ちになれません。それが信仰者の姿だと言うのならば、私は信仰者なんかになれないし、なりたいとさえ思いません。

 けれども、聖書は決してそんなことを言っていないのです。聖書の中で神様に愛された信仰者をみれば、誰もが悩んだり、苦しんだり、怒ったり、泣いたりしています。彼らは、そのような人間らしい体験を通して、いっそう深く神様に結びつけられていったのです。信仰者とは苦しみも、悲しみも染みこまないジュラルミンのような心をもった人間ではなく、人間としての弱さや脆さを持ちながら、なお神様に望みをおいて祈り続ける人のことなのです。

 そうしますと、ここでヨブが脆くも崩れ去り、一変して神様への泣き言や訴えを激しく吐露しだしたとしても、それはヨブの信仰を否定することとは言えないでしょう。ヨブもまたそういう人間の一人であったということだけの話なのです。ヨブもまた血も涙もある柔らかい肉をもった、私たちと同じ人間だったのです。

 それは、ヨブがついに耐えきれなくなって沈黙を破った原因について考えてみれば分かります。三人の友人たちがヨブを見舞いに来ました。この三人の友人たちの非凡なる同情、温情、友情については前回お話ししたとおりです。ヨブは彼らの暖かい人の心に触れて、今まで独りでじっと堪えていたものが一気に融解し、決して漏らすことのなかった苦しみや悲しみがその口からほとばしり始めたのです。 
誕生日を呪う
 さて、ヨブの言葉を見て参りましょう。

 「わたしの生まれた日は消えうせよ。
  男の子をみごもったことを告げた夜も。
  その日は闇となれ。
  神が上から顧みることなく、
  光もこれを輝かすな。」(3-4節)

 ヨブは開口一番、自分の誕生日を呪いました。「俺なんか生まれてこなければよかったんだ」と言ったのです。もし、そんな言葉を生みの親が聞いたならば、どんなに深い悲しみに襲われることでしょう。また、一人一人に命をお与えなさる神様も、本当に辛く思われることでしょう。しかし、ヨブは3章で、繰り返し自分の誕生日を呪っています。

 誕生日というのは大切な祝日です。親は、子供の誕生日を決して忘れたりはしません。誕生日は、その命が存在していることを喜ぶ祝う日だからです。「お誕生日おめでとう」という祝福の言葉には、「あなたが生きていることを、本当にうれしく思います。あなたとの出会いは私にとって本当に幸せでした。ありがとう」という意味が込められています。できれば家族や友人たちの誕生日をできるだけ忘れないようにし、心からお祝いの言葉を贈るようにしたいものです。

 それから、自分の誕生日を忘れないということも大切です。年をとると、「誕生日はあまりうれしくない」と言ったりします。確かに若さが衰えていくことに一抹の寂しさを感じるということはあるでしょう。しかし、誕生日を祝うというのは、若さがあるとか、健康であるとか、たくさんの仕事を成し遂げたとか、そういうことをお祝いするではなく、その人の存在そのもの、その人が生きていることそれ自体をお祝いするということなのです。どんな時に年を取っても、また病気の最中にあっても、辛く苦しい日々であっても、自分の誕生日を喜べる人というのは、神様に与えられた命を喜び、人生を喜び、本当に幸せに生きている人だと言えましょう。

 しかし、ヨブは「自分の生まれた日は消え失せよ」、「私なんか生まれてこなければ良かった。誰も誕生日など誰もお祝いしてくれるな」と言ったのです。
死を願う
 さらにヨブは、死を願うようなことまでも口走ります。

 「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
  死んでしまわなかったのか。
  せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
  なぜ、膝があってわたしを抱き、
  乳房があって乳を飲ませたのか。
  それさえなければ、今は黙して伏し、
  憩いを得て眠りについていたであろうに。」(11-13節)

 「なぜわたしは、葬り去られた流産の子、
  光を見ない子とならなかったのか。」(16節)

 ヨブはお母さんのお腹の中にいるうちに死んでしまえばよかった、流産してしまえばよかった、なぜ私を生んで育てたりしたのかと言っているわけです。

 とはいえ、ヨブが生まれてこの方ずっとそう思い続けてきたということではありません。今までは喜びであったその一つ一つのことが、本当に呪わしいものに一変してしまったのです。

 そういう時、人はまず救いを求めます。切実な思いで、喘ぐようにそれを求めことでしょう。しかし、ヨブは喘ぐように墓を求め、死を願うのです。

 「彼らは死を待っているが、死は来ない。
  地に埋もれた宝にもまさって、死を探し求めているのに。
  墓を見いだすことさえできれば
  喜び躍り、歓喜するだろうに。」(31-32)

 自分の命を軽んじ、生みの親を冒涜するこのような言葉は、創造主である神への冒涜にも通じる言葉だと言えましょう。しかし、こんな酷い言葉でありながら、苦難にあった多くの人がこのヨブ記をむさぼるように読み、そこから不思議な慰めや力をいただくのは、いったいどういうことなのでしょうか。

 それはヨブが、苦悩の中にある私たちの思いの丈を余すことなく代弁し、神に祈ってくれていると感じるからではないでしょうか。人間は生きることばかりではなく、死ぬことを求めることがあります。死ぬことの恐れだけではなく、生きていくことに恐れを感じることがあります。しかし、その思いは、誰にも言えず、どこにも持っていけず、「青菜に塩」のようにしょぼくれて、力なく弱音を吐いたり、愚痴をこぼしたりするのが関の山です。

 ところがヨブは、ためらうことなくその苦しみを神様の御前に吐きだしています。そこには、弱々しさではなく、まるで裁判で言い争う者のような強さがあります。自分の苦しみをいったい誰にぶつけたらいいのか、それを見極めた上で、全身全霊で神に訴えているのです。

 そこに、私たちは慰めを感じるのではないでしょうか。自分の苦しみをどこへ持っていったらいいのか分からないでいる弱々しい私たちに代わって、ヨブがそれを神様に訴えてくれている、そんな気がするのです。
ヨブはなぜ自殺をしないのか
 ヨブは神様との対決姿勢まで見せて、苦しみを訴え、死を希います。死だけが自分にとっての憩いであるとさえ言います。しかし、どこを読んでも、ヨブが自殺を考えているような言葉は見あたりません。そんなに死を願うならば、どうしてヨブは自殺を考えなかったのでしょうか。

 実は、そこにこそヨブの信仰があったと言えましょう。2章までの「主は与え、主は奪う」というヨブの信仰は、自分の命、人生における主権が常に神様にあるという信仰告白です。この信仰は3章においてもなおヨブの心から消えていないのです。その主権を神様の手から奪って自殺でもしようものなら、それこそサタンの勝利でありましょう。しかし、ヨブはどんなに死を願っても、決して神の主権を侵すことを願ったわけではないのです。そこにヨブの本当に深い信仰があったと言えましょう。 
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