ヨブ物語 08
「神を呪って死ぬ方がましでしょう」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記2章11-13節
見舞いに来た三人の友人
 今日は、ヨブの身に次から次へと恐ろしい出来事が降りかかったということを聞いた三人の友人たちが、相談してそれぞれの国から集まり、一緒にヨブを見舞いに来たというお話しです。

 「三人の友人は、さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。」(2章11節)

 友人らの名は、エリファズ、ビルダド、そしてツォファルと言い、それぞれ違う国に住んでいました。確かなことは不明ですが、それぞれの国の王侯貴族のような人々だったのではないかとも言われています。ヨブも、ウツの国に住む大富豪であった(1章3節)とありますから、釣り合いがとれると思うのです。

 三人で相談して見舞いにやってきたというところに、ヨブと彼らの間に培われてきた友情の歴史を感じさせます。皆さんも経験があると思いますが、病気見舞いに行く時には、いろいろな心配が胸につかえるものです。病状はどんな具合なのか。話ができるのか。何をいってあげられるのか。喜んでもらえるのか。友情が深ければ深いほど、そして病気が重ければ思いほど、沈痛な面もちになります。このように楽しいことだけではなく、悲しみや心配を分かち合うことができるということこそ本当の友情です。おそらく、彼らは王侯貴族の外交上で親しくしていたというのではなく、竹馬の友といえる本当の友情によって育まれた友人仲間だったのでしょう。
取り乱す友人たち
 しかし、ヨブを力づけようとした三人の友人らは、ヨブのあまりにも惨たらしい変わり様にショックを受け、取り乱し、言葉を失ってしまいました。

 「遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。」(2章12-13節)

 牧師である私は、普通の人より病める人をお訪ねすることが多いと思います。ある程度は状態を予測してお伺いするものの、先日までお元気だった人が点滴チューブをつけ、酸素マスクをして、ベッドに横たわっているのを見たりすると少なからずショックを受けるものです。 しかし、病人の前では驚きを隠し、できるだけ平静を装い、明るく振る舞おうと努力します。たとえ演技であっても、病人の気持ちを考えたら「嘘も方便」だと思うからです。

 「嘘も方便」というのは、何かを誤魔化しているようであまり好きなではないとう方もいらっしゃると思います。しかし、一時の感情よりも高い次元の行動をすることは、決して「嘘」ではないと言うこともできます。たとえば、相手の気持ちを思いやって自分の感情を押し殺すことは、「嘘」ではなく「愛」です。恐れを隠して、勇敢な行いをすることは「嘘」ではなく、「希望」です。病める人をお見舞いする時も、驚きとショックを隠すのは決して「嘘」ではなく、思いやりであり、優しさであり、励ましだと思うのです。

 ヨブの友人たちは、そういうことをもちろん心得ていたに相違ありません。ヨブを励ますために色々と言葉を考えたり、三人で相談をしたりしていたかもしれません。しかし、そういう人間的な思いやりやはかりごとが吹き飛んでしまうほど、厳しい現実に直面したのでした。

 そこにあるのは彼らの知るヨブの姿ではありませんでした。彼らは思わず声をあげて泣き、衣を裂き、取り乱して塵を天に向かってまき散らし、それが頭上に掛かっても振り払おうともせず、そのまま七日七晩、一言もしゃべらずにヨブと共に地面に座っていたというのです。

 このように病人の前で取り乱すのはあまり誉められたことではありません。しかし、場合によっては、取り繕った平静さや励ましの言葉よりも、ずっと深い愛情の表現であることがあります。ヨブの友人たちの取り乱す姿には、まさにそのよう友情の深さがうかがえると言ってもいいでしょう。
沈黙する友人たち
 友情というのは、共に生きようとする者の心です。夫婦の愛も、親子の愛も、師弟の愛も、同志の愛も、高められて最後に達するのはその友情であると言います。イエス様も、愛する者たちを「友」と呼ぶことによって、その愛情の深さを示されました。

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネによる福音書15章13-15節)

 友情は素晴らしい者です。悲しむ者の慰めです。『ヨブ記』において、ヨブが財産を失い、子どもたちを失い、妻からも「神を呪って死になさい」などと言われ、その最後に友人たちが現れたというのは、慰めも、励ましも、その最高の豊かさは友情によってもたらされるということを物語っていると言えなくはありません。しかし、その友情ですら言葉を失ってしまった、それが『ヨブ記』の言わんとするところです。つまり、友情の無力、人間の愛の無力ということです。そして、私たちの信仰によれば、前述のイエス様の友情だけが私たちを慰め、活かし得るまことの友情である、イエス様こそは真の友であるということなのです。

 では、無力な人間はまことの友となることはできないのかと言いますと、聖書には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)とあります。人に知恵をあたること、慰めを与えること、元気を与えることができずとも、喜ぶ人の喜びを共にし、悲しむ者の悲しみを共にするということができるのです。内村鑑三はこのように言っています。

 「彼ら砂漠の朦気を透してヨブのさまをうかがい見れば、今の彼は昔日の彼にあらず。富者の尊厳は跡を絶ち、身は悪疾の汚気を放ち、彼に誠実の容姿は存せしも、懐疑のしわは彼のひたいに波立ち、一目して大災難の彼の身と心とに臨みしを見たり。知るべし、彼ら彼に会して七日七夜、一言も発するにあたわざりしを。沈黙は最も雄弁なる説教なり。ヨブの苦悩はあまりに大にして、言語のもって癒すべくもあらざりき。癒すあたわず、ゆえにこれを分有(わか)たんのみ。ヨブの友人はかかる場合における慰藉者の取るべき唯一の方法をとれり。」

 つまり友人たちの沈黙は「友情の無力さ」の現れでもありましたが、同時に黙ってヨブと苦しみを共にするという、彼らがヨブになし得る最大の慰めとといたわりであったというのです。内村鑑三の弟子であう藤井武もこのように言っています。

 「同情の沈黙! 唇を開くにには余りにも深き同情である。悩める者の要求は屡々ここにある。彼は浅薄なる慰安の手のその傷に触れざらんことをねがふ。ヨブの友らは敢えて一言をだに言ひかけなかった。彼らは凡庸の慰安者ではなかった」

 自分が悩める者であった時のことを考えればよく分かるのです。中途半端にあれこれと忠告やら慰めやらを受けるよりは、黙って一緒にいてくれる友というのがずっと有り難いのです。
ヨブを一変させたもの
 しかし、人間というのは複雑です。このような素晴らしい友情に触れるまでは、ヨブはすべての苦難に黙って耐えていました。しかし、七日七晩一言もしゃべらずに、自分と共に灰の中に座ってくれる三人の有り難い友情に触れて、ヨブは堰を切ったように自分の心の弱さを吐露しはじめるのです。

 すると、ヨブの弱音を聞いた友人らも変わってしまいます。ヨブの言葉があまりに苦しみに満ちたものであったために、沈黙という真に人間らしいいたわりを捨てて、ヨブと言い争う者になってしまうのです。このヨブと友人らとの長くて、悲痛な論争が、次回から始まります。
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