ヨブ物語 07
「神を呪って死ぬ方がましでしょう」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記2章1-10節
ヨブを襲う試練
 シェバ人の略奪、落雷、カルデヤ人の略奪、大風、これだけの災難が一日のうちにヨブを襲いました。ヨブは多くの家畜や財産を失い、若者たちの死を経験しました。誰でもこのような経験をしたら、神も仏もあるものかと神を呪うに違いない、これがサタンの算段でした。

 ところがこのような苦難のただ中で、ヨブは躓かず、倒れず、恨みませんでした。それどころか神を讃美したのです。

 「わたしは裸で母の胎を出た。
  裸でそこに帰ろう。
  主は与え、主は奪う。
  主の御名はほめたたえられよ」

 サタンは、このようなヨブの揺るぎない信仰の前に引き下がらざるを得ませんでした。

 「世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です」(1ヨハネ5章4節)

 この御言葉の通り、ヨブは信仰に立ち続けることによって、サタンを退けたのでした。
容赦なきサタン
 しかし、サタンは諦めませんでした。天の御前会議に、再びその懲りない姿を表すのです。神様はサタンに向かって言われました。

「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」(3節)

 神様は、すべてを奪われてもなお神様に栄光を帰するヨブの姿を誇らしげに語り、サタンに「それなのにお前はいたずらに私に挑戦し、ヨブを苦しめたのだ」と、断罪したのでした。

 こうして苦杯をなめさせられたサタンでしたが、その程度で舌を巻き、退散してしまうほどサタンは単純ではありません。お前の話は何の根拠もないことばかりだと言われながら、なおも彼は性懲りもなく、ヨブの信仰を疑ってかかろうとするのです。サタンというのは、信仰とか、愛とか、希望とか、そういうことがまったく信じられない存在だからです。

 「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」(4節)

 サタンとは、なんと容赦ない存在なのでしょうか。ヨブから地上のすべての祝福と賜物とを奪っておきながら、なお足らずその上に彼の骨と肉(ヨブ自身の肉体)を撃たねばならないと言うのです。

 「皮には皮を」というのは解釈が分かれる難しい言葉です。おそらく、ヨブが「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」と言ったものですから、「裸」と「皮」をかけてこのように言ったのではないかと思います。たとえ全財産を奪われても、ヨブ自身が言っているように「裸」(=肉体)は無傷で残されている。ヨブはそれを喜んでいるに過ぎないのだ。つまり、彼は自分の命さえあれば、若者らの命も、子供らの命も何とも思わない薄情者であり、エゴイストなのだ。そのヨブの正体は、その裸の覆う皮を一皮めくればすぐさま露わにされるでしょうよと、サタンはそいうことを言っているのです。
象皮病にかかるヨブ
 「主はサタンに言われた。『それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。』」(6節)

 神様は再び、サタンにヨブの身を任せたのでした。神様がサタンにつけた条件は、「ただし、命だけは奪うな」ということだけです。それ意外は、いっさいサタンの自由にしてよいというのでした。

「サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。」(7節)

 サタンがヨブに与えた皮膚病は、想像を絶する恐ろしい病気でした。

「ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。」(2:8)

 凄まじい痒みが全身を襲い、ヨブは素焼きのかけらで体中を掻きむしっていなければ耐えられない有様でした。さらにヨブ記のいろいろな記述を見てみますと、このようにあります。

 「肉は蛆虫とかさぶたに覆われ、皮膚は割れ、うみが出ている。」(7:15)

 「骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになって、わたしは生き延びている。」(19:20)

 「わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち、骨は熱に焼けただれている。」(30:30)

 ヨブの皮膚は恐ろしく腫れ上がり、熱を帯び、黒くなり、ひび割れを起こし、膿が生じ、蛆までも湧く始末でした。

 「病は肌着のようにまつわりつき、その激しさにわたしの皮膚は、見る影もなく変わった。」(30:18)

 「遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていた」(2:12)

 この皮膚病のために、ヨブの外貌は恐ろしくゆがめられ、友人ですらその姿が見分けられないほどでした。

「息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。」(19:17)

「泣きはらした顔は赤く、死の闇がまぶたのくまどりとなった。」(16:16)

 皮膚だけではなく、息が臭くなり、視力も失われたといわれています。いったいこの恐ろしい病気は何であったかというと、「象皮病」というのが有力な説になっています。
命だけは奪うな
 いったい何故、神様は「命だけを奪うな」という条件をつけたのでしょうか。この条件がかえってヨブを苦しめることになっているのです。地上の幸福のすべてを奪われて、ただ「生きる」ということだけを、ヨブは押しつけられたのでした。これでは生きる意味も、希望も、勇気もなくなってしまい、死んだ方がマシだと思うのは、無理からぬことではありませんか。

 実際、ヨブの妻はこのように言うのです。

「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」

 ひどい事を言う妻だと思うかも知れません。しかし、そうでしょうか。苦しんでいるのはヨブだけではないのです。財産を失い、子どもたちを失い、今夫までが恐ろしい病気にかかってしまい、看病のために翻弄され、妻も夫と共に苦しんでいるのです。しかも、夫を慰める言葉も、励ます言葉も出てこないことで自分を責め、なぜこんなに信仰深い夫がこんな目に遭うのだろうかと、信仰の問題で悩んでいるのです。彼女が夫のために言いうる言葉は、「あなた、もう頑張らなくてもいいわよ。死んで楽になってください」ということしかなかったのではないでしょうか。

 ただ生きているだけ、こんな生き地獄はありません。それを思うと、なぜ神様は「命だけは奪うな」という中途半端な条件を付けられたのか、いっそのこと「私のために死になさい」と言ってくれた方がずっと楽だったのではないかとさえ思うのです。病気の死、迫害の死、そういう死をもって神様への信仰の証を立てる道もあるわけですから。

 しかし、神様は「命だけは奪うな」と言われたのでした。実は聖書には「命」という言葉は二種類あります。一つは肉体的生命を表す言葉と「魂」を意味する命です。神がここで禁じておられるのは、その魂を意味する命です。魂だけはヨブの自由にし、ヨブの意志の自由まで奪うなということです。

 なぜなら、それが奪われるなら、神とサタンの賭けそのものが成立しなくなってしまうからです。耐え難い試練の中であっても、神に向かう魂、意志の自由、その通路だけは確保されていたということなのです。

 私は油木孝子さんのことを思い起こします。彼女は、その病を癒されず、天に召されていきました。しかし、最期まで魂の自由を神の守りによって与えられていました。どんなに肉体が弱り果てようとも、その魂は霊的に深められこそすれ、決して弱り果てることはありませんでした。主治医はそんな彼女を見て、「わたしは彼女を尊敬しています」と言ったのでした。

 そんな彼女の最期を見て、私は、神様はどんな試練の中にあっても、神様を信じる魂の自由だけは与えてくださるのだと、信じることができるのです。 
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