ヨブ物語 05
「神はいつも正しいのか」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記1章6-12節
本当に人間だけが問題なの?
 私たちは曲がりなりにも信仰者ですから、神様を信じて生活することが大切だということを知っています。できればもっと純粋に神を信じる生活をしたいとも願いますし、生涯変わることなく信じ続けたいと願っているのです。けれども、この世でそのように信仰生活を続けていくことは、実際にはなかなか難しいことだという気持ちも持っているのではないでしょうか。

 いったい何が信仰生活の難しさになっているのでしょうか。真っ先に思い浮かべるのは、誘惑や迫害に負けてしまう自分の不真面目さとか、気の弱さです。志は持てても、それを実行に移すことができないのです。そういう人間の弱さが信仰生活の難しさにあることは決して無視できない問題だと思います。しかし、『ヨブ記』はそういう人間側の問題だけではなく、神様側にも問題があるのではないかと言っているのです。

 先週、一家四人が何者かに惨殺され海に投げ込まれたという事件がありました。犯人は誰なのか、事件の背景に何があったのか、そういうことはまだ何も分かっていません。しかし、小さな子供たちの命までもが巻き添えにされたということに、誰もが理不尽さを感じたはずです。しかし、残念ながら、こういう話は後を絶ちません。その度にこの世の不条理、人生の理不尽を思うのです。なぜ、あんないい人が? なぜ、あんな悪いヤツが? なぜ、わたしが? 世の中、筋が通らないことばかりだと思うのです。

 クリスチャンだって同じ事を思うのではないでしょうか。この世界は神様がお造りになり、正義と愛をもって支配なさっているはずではないか。それならどうしてこうも納得のいかないことばかりあるのか? 信仰者の場合、「神様は正しい」という信仰が強ければ強いほど、納得がいかないことが多くなるのです。

 神様に仕えている人たち、私たちの信仰の手本となるような人たちも、やはり同じ事を疑問に思ったようです。その一人で、今から2700年前にイスラエルで神の言葉を語った預言者エレミヤは、神様にこんなことを祈っています。

 「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。」(『エレミヤ書』12章1節)

 エレミヤは、神様と議論をすれば自分が負けるのは分かっていました。しかし、どうしても言わせてくださいと言って、このように祈ったのでした。

 この問題を真正面から扱ったのが『ヨブ記』です。ヨブの正しさは神様のお墨付きだったと、聖書は語ります。神様は天使らの前でヨブを褒めそやし、サタンにこのように言いました。

 「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(8節)

 ところがこれを聞いたサタンは不敵な笑みを浮かべて反論します。

 「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」(9節)

 さらにサタンはこのように続けます。

 「ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」(10節)

 人間が求めているのは「神様」ではなく神様の「祝福」だ。神様の祝福がないなら、たちまち神様を敬う理由もなくなってしまって、あなたを呪い出すだろう。それはヨブもまったく同じ事ですよと、サタンは言ったのでした。これについては前回お話ししましたので、今日は次に進みます。

 神様は、サタンにこう答えました。

 「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」

 これを聞いたサタンはニヤリとして、神様の前を離れ、ヨブのもとへと向かったのでした。そして、彼の財産を一切合切奪ってしまったのでした。

 ここで私たちが本当に理解に苦しむのは、なぜ神様はサタンのごとき者の口車にのって、ヨブを苦しめることを許可されたのかということなのです。神様はヨブの人生をもてあそんでいるのではないか? そういわれても仕方がないことを神様はしているのではないでしょうか。

 ヨブの苦しみの最も深いところにあったのは、そのことでした。財産が失われた悲しみや、全身を覆う出来物の苦痛よりも、「なぜ、神様が私にこんなことをなさるのか、それが分からない」ということが最大の苦しみだったのです。
因果応報ではない
 『ヨブ記』の学びは始まったばかりなのですから、今その答えをここで見いだすことはできません。しかし、今、この段階で示されていることが二つあると思います。

 一つは、因果応報という思想の否定です。幸せは良い行いの結果であり、不幸は悪い行いの結果であるというのが因果応報です。これなら子供でも納得します。しかし、実際はそれでは筋が通らないような事があまりにも多いのです。だから、仏教では前世の話まで持ち出して、今ある幸不幸は前世の行いの報いだと説明しますが、クリスチャンとしては論外の話です。

 それでも日本人の中に流れている血でしょうか。何か悪いことがあると、「罪の報いだ」と自責の念にかられるクリスチャンは多いですし、「あの人は行いがいいから・・・」、「どうしてあんな行いの悪い人が・・・」と、幸不幸を人の行いに帰して考えてしまうことがあるのです。

 しかし、このような「人の行い」が神様の祝福や愛をもたすという考え方を、聖書は否定します。神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる御方であり(マタイ5:45)、人の行いに関わらず恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ神なのです(出エジプト33:19)。

 『ヨブ記』もそうです。ヨブは正しい人であったけれども、苦しみを受けたのでした。
善悪二元論ではない
 もう一つは、善悪二元論の否定です。この世には善なる神がもたらすものと、悪なる神=サタンがもたらすものがあるという考え方が二元論です。

 この二元論が便利なところは、神様に悪の責任を負わせないで済むということにあります。「この世が悪いのは神様のせいじゃない、サタンが悪いのだ。私が不幸にしたは神様のせいじゃない。サタンなのだ」 こう考えるなら「なぜ神様は?」という世の理不尽の問題も解決します。信仰もしやすくなるでしょう。悪いのは神様ではなく、すべてサタンなのです。

 しかし聖書は、そうではなく、すべてものは一人の神様によってもたらされると言っています。今日の聖書にもそう書いてありました。

「サタンは主のもとから出て行った。」(12)

 神様のもとからサタンが出ていくのです。もっとはっきりとした神様の言葉もあります。

 「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。」(イザヤ45章7節)

 二元論の最大の問題は、神様にも手に負えない問題があるということを認めてしまうことにあります。しかし、聖書はそれをきっぱりと否定しているのです。
神に知られている
 だからこそ余計に「神様は本当に正しいのか」という問題が大きくなってしまうのです。唯一、今日の話しに救いが見いだせるところがあるとしたら、神様はヨブの正しさも、悩みも、すべてを承知してくださっているということです。なぜなら、すべては神様から出ていることだからです。

 「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(8節)

 前回も紹介しましたが、この御言葉から思い起こすのは、次の言葉です。

 「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」(1コリント8章3節)

 神様は、私たちがなぜ罪を犯してしまうのか、なぜ泣いているのか、なぜ怒っているのか、そういうことを心のひだまで、優しい御心で理解してくださっているのが神様だというのです。

 果たしてヨブは、神様がそこまで自分のことを知っていてくださる御方だということを知っていたでしょうか? たとえ私たちが神様の御心を十分に悟り得なくても、神様は私たちのすべてを善意に満ちたお心をもって理解してくださっている、そこに救いの鍵があるのです。
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