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「ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た」(6節)
ここには驚くべき天の情景が描かれています。天の万軍すなわち群れをなす天使たちと、堕落天使サタンまでもが、神様の御前に大集合しているのです。
すると神様はサタンを御前に呼び出され、彼にこう言われました。
「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(8節)
ヨブは、天国で神様と天使たちがどのような会話がなされているかなどを知る由もありません。まして、自分のことが神様によって誇らしげに語られていたり、天使たちが自分を褒めそやしたりしているなどという事は、まったく思いもよらぬことであったでしょう。
これについてお話ししたいことは山ほどありますが、今回は一つの真理に注目することだけで我慢しておきましょう。それは、
「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」(『コリントの信徒への手紙』8章3節)
ということです。
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天使らが皆、ヨブのことを褒めそやしているときに、サタンはひとり心の中で冷笑していました。そして、神様にこう言ったのです。
「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」(9節)
何と鋭い言葉でしょうか! サタンは決して馬鹿ではないことがよく分かります。「人間は皆、打算で動いているのだ。自分に利益がないことは一切しないものなのだ」と、サタンは神様に告発したのです。
悔しいけれども、その通りだという気がしてしまいます。たとえば「情けは人のためならず」などという言葉もあるくらいです。愛だ、親切だ、情けだと言っても、結局それが自分に返ってくることを期待しているのが人間だと言えないでしょうか。サタンはそこをつくのです。
「あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」(10-11節)
あくまでもヨブが期待しているのは、あなたではなく、あなたがヨブに与える祝福なのだと、サタンは主張します。
ある牧師さんがこんな話をしてくれたことがあります。ある日のこと、娘さんの家に遊びに行くと、小さなお孫さんが玄関に飛び出してきて、「おじいちゃん、こんにちは!」とうれしそうに出迎えてくれました。牧師さんも可愛い孫を喜ばせたいと、さっそく用意していたお土産をお孫さんに渡したそうです。お土産は、お孫さんが前から欲しがっていたテレビゲームのソフトでした。お孫さんは大喜びして、自分の部屋に入っていき、さっそく新しいゲームソフトで遊び始めました。
しばらくしてから、牧師さんはお孫さんの部屋を見にいきました。もちろん、お孫さんはテレビゲームに夢中になっていました。それを見て、牧師さんもたいへん満足をしました。そして、お孫さんとの親交を深めようと、「どう、おもしろい?」、「それはどうやるの」などと、あれこれ話しかけたのです。しかし、返ってくる返事は生返事ばかり、ついにお孫さんから「おじいちゃん、うるさいから向こうに行って」と言われてしまったというのでした。
これは私達の家でもあり得る子供らしい話です。しかし、霊的には非常によい譬えだと思います。サタンはこう言っているのです。
「ヨブは、はたしてお土産がなくてもあなたを歓迎するでしょうか。一度、お土産を持たないでヨブを尋ねてご覧なさい。きっとヨブはがっかりするでしょうよ」
サタンというのは、本当の信仰、本当の愛、本当の善というものがあることを決して信じられない存在なのです。内村鑑三はこう言っています。
「サタンの目に映ずる善事はすべて悪に基いするものなり。敬神は利益のためなり、熱心は名誉のためなり、世に純正なる善人あるなし、神は義者の崇拝を受けつつあるも、実は彼は彼に下せし物質的利益に報ゆるための瑣々たる返礼を受けつつあるにすぎず。サタンはこの言をもって神に答えて、ヨブを侮辱すると同時に神をけがせり」 |
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しかし実際問題としては、サタンの痛烈な皮肉に反駁する術をもたないというのが、わたしたちの姿ではないでしょうか。確かに、私たちは最初、神様よりも、神様の祝福や救いを期待して教会に行き、聖書を読み、祈ったのです。
一般に、人が神仏を拝する場合を考えてみますと、願い事とか、精神修養とか、祟りを鎮めるとか、常に人間の側に理由があるのです。教会の場合も表面的にはそれと変わりありません。「信じるなら救われます。従うなら祝福されます」と、毎週の教会で説教されているではありませんか。どんな宗教も御利益とか救いということが中心的な命題だと言われれば、その通りだと言わざるを得ないのではないでしょうか。
私は、「信じるなら救われます。従うなら祝福されます」と説教することが悪いとは少しも思っていません。それは神様の約束だからです。そして、救われたいために信じる、祝福を期待して信じるということも、まったく当たり前のことだと思うのです。人間は誰もいろいろな問題を抱えて、悩みながら生きています。神の救い、神の祝福というのは、そういう人間にとって切実な願いなのです。
けれども、そういう人間側の理由だけを信じる根拠としていると、信仰生活が身勝手なものになってしまうということも事実です。
韓国の受験戦争を取り扱ったテレビ番組を見たことがあります。韓国の受験戦争は日本以上に苛酷です。そのために本人はもちろんのこと、両親も子供らと一緒に頑張っているという内容でした。興味深かったのは、両親が教会で一生懸命に祈っている姿です。韓国のクリスチャンはよく祈るというけど本当だなあと、私も感心して見ました。
その中のある親子が、ソウル大学の合格を手を取り合って喜んでいる場面が映りました。お父さんが、妻と子供に「神様に感謝しよう」と言いました。ところが、お母さんは驚いたようにこう言ったのです。
「もう、合格したんだから祈らなくてもいいのよ」
あまりの現金さに思わず声を出して笑ってしまいました。しかし、よく考えてみると、これは案外笑えない話なのです。苦しいときは神様の信じる理由が明確ですから、一生懸命に祈り、礼拝します。ところが平穏無事で幸せな時になると、神様を信じる理由というものがとても希薄になってしまいます。そうすると「何を祈ったらいいのかわからない」とか、「忙しいから」とか、「体がきついから」とか、そんなことを言い出す人がよくいるのです。なんとか形だけは守っていても、以前のように身が入らない祈りや教会生活を送っている人もいます。 |
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果たして、そういうのが信仰なのでしょうか。何か変だと思われないでしょうか。
『ダニエル書』に、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴという三人の若者が登場します。彼らはバビロン王ネブカドネツァルに仕えていましたが、王の建立した金の像を拝まなかったために、燃えさかる火の炉に投げ込まれてしまうのです。その際、その三人が王に言った言葉はこうでした。
「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(『ダニエル書』3章17-18節)
彼らは、神様は必ず救ってくださると信じた上で、たとえそうでなくても私たちは決して金の像を礼拝したりはしないと言ったのでした。彼らがそうする理由は神様が救ってくださるからではなく、神様が神様だからなのです。
神様を信じるというのは、ただ神様が神でいますという理由だけで神様を敬い、恐れ、従うことなのではないでしょうか。そうでないと、神様が人間に存在理由を与えておられるのではなく、人間の方が神様の存在理由を与えていることになってしまうのです。それでは神様は人間の下僕と同じです。
しかし、決してそうではなく神様が人間をお造りになり、私たち一人一人に人生を与えておられるのです。それゆえに神様は私たちの存在を愛し、人生を豊かに祝福しようとしてくださっています。私たちは、もちろんそれを期待していいのです。しかし、たとえそうでなくても神様は私たちの主であり、私たちは神様を信じ、礼拝し、服従していかなくてはならないのではないでしょうか。神の救い、神の祝福は、神様を信じる理由ではなく、信じた結果なのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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