ヨブ物語 03
「天使とサタン」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記1章6-12節
天 使
 「ある日、主の前に神の使いたちが集まり・・・」(6節)

 「ある日」というのは、天における一日のことです。「神の使いたち」、つまり天使たちが神様の御前に集まり、その働きや見てきたことを神様の御前に報告するという御前会議が開かれていました。天においては、このようなことが毎日か、あるいは定期的に開かれているのです。

 このような天の風景を思うことは、天使とは如何なる存在かということを知るために大切です。天使たちがすべてを神様の御前に報告する義務があるということは、彼らが天を離れ、この地上に来てどんな働きをしているときにも、彼らの働きや思いは、常に神の御前にあるということなのです。

 天使たちの務めの一つは、神の目となり、手となり、言葉となって、私たち人間を助け、導き、神の保護を与えることです。しかし、その時にも彼らの顔は常にすべてのものの父なる神様に向けられています。イエス様はこう言われます。

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。彼らの天使たちは天でいつもわたしたちの天の父の御顔を仰いでいるのである」(『マタイによる福音書』18章10節)

 天使たちによって、私たちが天のお守りの中に入れられていると考えるのは間違いではありません。しかし、天使は私たちの保護者ではなく、従って守護神でもありません。彼らは、唯一の保護者である天の父のお使いを果たす天の僕たちなのです。

 ですから、いくら天使たちが私たちを守ってくださっているといっても、彼らに救いを祈願するのはお門違いだと思います。天使たちの耳は、私たちの祈りにではなく、神様に向けられているからです。もし、祈願することがあるならば、彼らにではなく天の保護者である神様に祈らなくてはなりません。天使たちは「人間の使い」ではなく、「神の使い」なのです。
神の使いサタン
 サタンは「敵対者」という意味の言葉で、悪魔の別名です。このサタンについては文学や迷信、オカルトなどの影響もあって、天使以上に誤解されたイメージが強いようです。

 たとえば、サタンに対する誤解の一つに、サタンは神様と真っ向から対立する、もう一人の王であるというイメージがあります。そして、確かに新約聖書には、「サタンの王座」(『ヨハネによる黙示録』2章13節) や「サタンの集い」(同3章9節)、また「サタンの支配」(『使徒言行録』26章18節)について語られています。「神の子」に対して「悪魔の子」(同13章10節)という言葉も出てきます。

 しかし、そのイメージだけが増長されて、サタンのもう一つの姿を見落としてしまうことに問題があります。『ヨブ記』には、サタンがこのように描かれています。

 「ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た」(6節)

 天の御前会議に集まる天使たちの中に、サタンも天使の一人として姿を現したというのです。そして、神様が「お前はどこから来た」と尋ねると、「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩き回っていました」と答えています。サタンもまた、自分がどこから来たのか、何をしてきたのか、すべての行為を神様に申し開きしなければならない存在であるということが描かれているのです。

 それに続く神様とサタンのやりとりを読みましても、サタンは決して神に並ぶもう一人王という存在ではなく、神の御前にある下僕の一人に過ぎないということが分かります。

 「主はサタンに言われた。『それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。』」(12節)

 サタンは、神の許可なくしては何もできない存在なのです。

 「サタンは主のもとから出ていった」(12節)

 このように、サタンは神と別の所から出てくるのではなく、サタンもまた神のもとにあり、神のもとから出ていくのです。

 実は、旧約聖書でサタンが登場する場面は、『ヨブ記』の他に二回あります。『歴代誌上』6章1-6節と『ゼカリヤ書』3章1-5節です。それだけしかないということに、意外さを感じるのではないでしょうか。もちろん、サタンの存在を感じさせるようなものは他にあります。エデンの園でエバを誘惑した蛇、これについては『ヨハネの黙示録』では「年を経た蛇」と呼んでいて、明らかにサタンと同一視しています(12章9節、20章2節)。あるいはサウルを悩ました悪霊(『サムエル記上』16章14−16節)、「偽りを言う霊」(『列王記上』22章22-23節)、「汚れた霊」(『ゼカリヤ書』13章2節)などが登場しますが、それとて今ご紹介したのが全てであると言って良いでしょう。本当にそれだけしかないのです。

 しかも、それらすべてに共通しているのは、それが『ヨブ記』と同様に、サタンが神の下にある存在として描かれていることです。たとえばエデンの園の蛇も、「神に造られたもの」とありますし、サウルを悩ます「悪霊」や、偽預言者たちに送られた「偽りを言う霊」も、主のもとから出たと言われているのです。
神に敵対する者サタン
 その上で、サタンのもう一つの性質について考えなければなりません。それは、サタンが神様に敵対する者であるということです。

 「サタンは答えた。『ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。』」(9-11節)

 サタンのこのような応答をみれば分かりますように、サタンは形の上では神様に服従していても、心の中では決して神様にひざまずいていません。このような心の中の偽りこそ、サタンの本質なのです。他の天使たちと違うところなのです。

 カルヴァンはこのように言っています。

「悪魔は自らすすんで、ではなく、奴隷のように神に従うのです。神が彼らをおさえておられるからです。彼らはみ力にさからい、できればすべてをぶちこわしたいのです。しかし、彼らは主が導かれるままに従うほかありません」

 このようなサタンについて、新約聖書では「罪を犯した天使たち」(『ペトロの手紙2』2章4節)とも言っています。
地上を巡回するサタン
「主はサタンに言われた。『お前はどこから来た。』『地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました』とサタンは答えた。」(7節)

 そして、そういうサタンが地上を巡回し、ほうぼうを歩き回っていたと言っているのですから、恐ろしいことではありませんか。新約聖書にはこのようにも言われています。

 「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」(『ペトロの手紙1』5章8節)

 サタンは、できれば私たち人間を堕落させようと常に策略をもって歩き回り、餌食となる者を捜し回っているのです。

 この悪魔の策略に対抗するためには、神の武具を身につける他ありません。たとえサタンといえども、神に逆らうことはできないのですから・・・
 「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(『エフェソの信徒への手紙』6章11節)

 悪魔の餌食となり、悪魔と同じ裁きを受ける者とならないように、私たちは神の武具を身に付けなくてはならないと言われています。そして、『エフェソの信徒への手紙』には、サタンに対抗するための七つの神の武具について説明されています。

「立って、真理(@)を帯として腰に締め、正義(A)を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備(B)を履物としなさい。なおその上に、信仰(C)を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救い(D)を兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉(E)を取りなさい。どのような時にも、"霊"に助けられて祈り(F)、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(同6章14-18節)

 私は、七つの武具を三つにまとめて、このようにいうこともできるのではないかと思います。第一に「悪魔の嘘を見抜く真理を持つこと」、第二に「悪魔の告発に打ち勝つ救いを希望として持つこと」、そして第三に「神の子として絶えず天の父なる神に祈ること」です。
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