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「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」(1節)
ヨブは、このように神様の前にまったく申し分のない人間であったということが書かれています。とはいえ、生身の人間はたとえ善良な人であっても、そうそう完璧な存在ではあり得ないのが普通です。いったいヨブにはそういう欠点がなかったのだろうかと、私は疑問に思ってしまいます。仮にヨブがそのように完璧な人間であったとしたら、その途端にヨブの物語に対する興味が失せてしまうような気がします。これはあくまでも自分とは違う人間の物語なのだと思ってしまうからです。
およそ聖書に興味を持てなかったり、反発を感じたりする人は、聖書の物語と自分の物語に接点を見いだせない人が多いようです。そのために救いの物語が「現実的」でないように感じられてしまったり、信仰の道が「反社会的」に感じられてしまったりするのです。 |
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確かに聖書の物語は、すんなりと納得できるような話ばかりではありません。しかし、よく読めばどのような物語の中にも、私たちが自分の物語として真剣に考えることができる接点があるのです。聖書は「神の書」であるばかりではなく、「人間の書」でもあるからです。真の神様だけではなく、人間の偽りのない姿をも描き出しているのが聖書なのです。
では、人間の偽りのない姿とは何でしょうか。ノアは酒に酔っぱらって痴態をさらしました。アブラハムは自分の身の保全をはかるために妻サラをエジプト王に差し出しました。ダビデは戦争の最中に人妻との恋にうつつを抜かしました。他に例をあげれば切りがありませんが、どんな義人と言われるような人であっても、聖書が語る人間の真実の姿というのは、この有様なのです。
そして、このような人間に対して、神様がいかに真実の愛をもっていてくださるか、それを真剣に私たちに語りかけてくるのが聖書なのです。 |
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@ 異邦人ヨブ
ヨブはどういう人だったのでしょうか。彼は「ウツの地」に住んでいたと言われています。ウツというのはどこか、それは「東の国」とも言われています。正確な位置までは分からないのですが、ユダヤ人ではなかったということだけは確かなのです。多くの学者たちの説によりますと、ヨブはエドム人(参考
哀歌4章1節)か、アラム人(参考 創世記10章23節、22章21節)であったようです。いずれにせよ、はっきりしているのはヨブが異邦人(非ユダヤ人)であったということです。
聖書の中で、ユダヤ人は神の民であって、神様の特別扱いを受けています。特別なる啓示、特別なる約束を受けています。しかし、ヨブはそのような特別の民の中にいたのではありません。私たちと同じ偶像礼拝の環境の中にいたということです。
A 無垢な正しい人
ヨブは異邦人でありながら、「無垢な正しい人」として生活をしていました。「無垢」とは、純真であることです。ヨブは、邪心のない子供のような素直な心を持っていたのです。
しかし、世の中においてはこのような人が必ずしも高い評価を受けているとは言えません。むしろ、青臭い人間、融通が利かない人間として敬遠されるのがオチではないでしょうか。世の中で大切なことは、「正しくある」ことではなく、「うまくやる」ことだからです。みなさんも、「長い物には巻かれろ」とか、「正直者は馬鹿を見る」と言われたことがあるのではないでしょうか。それが「大人になることだ」というのです。
「無垢で正しい人」と言えば聞こえはいいのですが、裏を返せば「真面目だけが取り柄の不器用な人間」、それがヨブという人だったのです。
B 神を畏れ、悪を避けていた
皮肉な言い方をすれば、「神を畏れ、悪を避けて生きていた」ということも、ヨブが面白味のない人間だったと証言しているようなものです。
イエス様は、「人に尊ばれるものは、神に忌み嫌われるものだ」(ルカによる福音書16章15節)と断言なされました。そうしますと、悪を避けて生きようとするヨブは、当然、人々が喜んでやっているようなことを、避けて生きていたということなります。たとえば大酒を飲んだり、賭け事をしたり、女遊びをしたり、女性の場合ならブランド品や宝石で身を飾ったり、有名なお店でおいしいものを食べたり、他人のうわさ話をしたりすることを、ヨブは神の忌み嫌われることだとして避けてきたのでした。
そして、こういう人は、友人たちからすれば堅物過ぎて、「つまらない男だ」と思われてしまうのです。 |
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このようなヨブは七人の息子と三人の娘を持ち、多くの家畜、多くの財産をも所有する大富豪であったと言われています。七人の息子たちはそれぞれ独立をして自分の家をもっていました。そして、彼らはたいへん仲が良く、順番に宴会の用意をしては、兄弟姉妹みなが集まって食事をしていたというのです。このようにヨブの家には豊かさと平和がありました。しかし、そのように何でもあるヨブにも一つの心配があったというのです。
「この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。『息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした」(5節)
ヨブは、息子たちが豊かさを楽しむあまり、ついに神を忘れてしまうことがないように、常に祈り、罪のための清めの式を行ったというのです。
人間というのは貧し過ぎても、豊か過ぎても、罪を犯すことがあるものです。私は『箴言』の中のこのような祈りを思い起こしました。
「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません。」(箴言30章8-9節)
イエス様も「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」と言われました。ヨブは、豊かさが人間の魂を堕落させることを恐れて、自分のためにも、家族のためにも祈らざるを得なかったのです。
それはヨブが、自分を貧しい人間であることを神の前に認めていたとうことでもあります。豊かなヨブは、貧しいヨブでもあったのです。 |
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もちろん、それは経済的な貧しさではありません。しかし、貧しさというのはお金がないことばかりではないのです。自信がないとか(失望)、愛し合う相手がいないとか(孤独)、喜びがないとか(空虚)、平安がない(不安)とか、どんな人間にも何かしら貧しさがあるものです。ただ、それを認めている人間と、そうでない人間がいるのです。
「ヨブは、いつもこのようにした」と言われています。そのように、ヨブはいつも自分を貧しい者であると神に言い表して生きる人だったのです。
これはヨブが正しい人間であり、神を畏れる人間であったことと深く関わりのあることです。イエス様と出会った人々を考えてみれば分かりますが、神と出会う人は、貧しい人と相場が決まっているのです。貧しい人こそ神を真剣に祈り、貧しい人こそ愛の尊さを知っているからです。ですから、イエス様は「貧しい人こそ幸いである」と言われました(マタイ5章3節)。そして、「天国はその人のたちのものである」と言われたのです。 |
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これらのことを要約すれば、ヨブは、なかなか人々に理解されなにくい「変わり者」だったということになります。しかし、どんなに世間がヨブを「青臭い人間」とか、「面白味のない人間」とか、そのような白い目で見ようとも、神様はヨブの心を知り、彼を喜んでくださったということなのだと思うのです。
私たちはヨブのように無垢な人間ではないし、正しい人間でもありません。けれども、世の中の人々のように、自分の良心や正義感を捨てて、「うまくやればいいんだ」とか、「楽しければいいんだ」という刹那的な生き方もできないのです。だから、自分の人生に悩み、苦しみ、救いを求めて聖書を開き、教会の扉を叩いたのでしょうか。
私は、自分がヨブと同じような人間だとは思いません。私などヨブの足下にもおよばない罪深い人間です。しかし、ヨブもまた同じように貧しい人間として、神を求めているのだと思うとき、ヨブを身近に感じるのです。彼もきっと不器用に世間とのずれや摩擦に悩みながら、自分の生きる道を真面目に、一生懸命に求めて歩もうとしている人間だったのでしょう。祈りなくして生きられない人間だったのでしょう。しかし、それが神の喜ぶヨブだったのです。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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