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数々の名言で知られるイギリスの思想家トーマス・カーライルは、『ヨブ記』を評してこのように言っています。
「高貴なる一書、万人の書! それは決して終わることのない問題―すなわち人間の運命、および神がこの地上にある人間にどう対処されるかという問題についての最初にして最古の表明である。・・・わたしは思う。聖書の中で、あるいは聖書の外で、これに比肩できる文学的価値の作品は皆無である、と。」
カーライルのいうように、確かに『ヨブ記』は、決して終わることのない人生の難問を主題にしていると言えます。『ヨブ記』は、この難問に真正面から取り組みながら生きる勇気と希望を、そして慰めを、私たちに与えてくれる書なのです。
初回は、「ヨブ記とはどういう書か」ということをテーマにお話しをしたいと思います。 |
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『ヨブ記』は、簡単にいってしまえば、主人公ヨブの受けた並々ならぬ試練と、その回復の物語です。しかし、それだけでは言い尽くせない「凄み」のある物語、それが『ヨブ記』です。
まず私たちを驚かせるのが、神様がヨブに試練を与えた理由です。なんと神様とサタンがヨブの正しさを巡って賭をしたというのです。
神様はヨブを信じていました。そして、サタンにこう言うのです。
「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(1章8節)
サタンは表面上の敬意を払いながらも、意地悪そうな顔をして、神様に反論しました。
「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」(1章9節)
このサタンの挑発にのった神様は、ヨブに試練を与えることをサタンにゆるすのです。ヨブに次々と災難辛苦が襲いました。ヨブは二度の略奪隊の被害に遭い、また二度の天災に遭い、財産も、家畜も、僕たちも、さらには息子や娘たちまでも、一切合切を失ってしまったのでした。試練はそれだけに留まりません。ヨブは全身を覆う酷い皮膚病にかかって苦しみ、妻からも見放されてしまいます。
こうして主人公ヨブは、自分のまったくあずかり知らぬところで繰り広げられる神様とサタンの勝負によって、突然、人生のどん底に突き落とされてしまったのでした。
人間を正しく扱われるはずの神様がこのようなことをなさるということに、私たちはまったく驚きを禁じ得ません。 |
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しかし、これは『ヨブ記』の序曲に過ぎません。主人公のヨブは、正しく生きてきた自分がなぜこんな酷い目に遭わなくてはならないのか、その訳のわからなさを思いっきり神様にぶつけて、神と争います。「なぜ、神は私なんかをお造りになったのか。私など生まれなかった方がよかったのだ」、「私は、こんな苦しみを受けなければならないような悪いことは何もしていないはずだ」、「私の幸福を返してくれ」、「それがダメなら、せめて何故こんな苦しみを受けなければいけないのか、それだけでも答えてくれ」 このような激しい言葉をもって、ヨブは神様に激しく訴え続けるのです。
しかし、ヨブがどんなに叫んでも、神様はなかなかにお答えになってくれませんでした。ヨブは、とうとう口をつぐんでしまします。
よく『ヨブ記』は難解な書物であると言われますが、必ずしもそうではありません。『ヨブ記』を理解するためには、確かにある程度の人生経験が必要です。苦しみを味わったことがない人にはわからない主題だと思うのです。しかし、苦しみを味わったことがない人などいるのでしょうか。そんな人はまずいません。そうであればヨブの気持ちは誰にでも容易に分かるはずです。人生の理不尽さに答えてくれというヨブの訴えは、私たちの思いを代弁しているとも言えるでしょう。
そういう意味では、『ヨブ記』は誰にでも共感できる分かりやすいお話しなのです。そして、誰もがヨブと同じようにその答えを知りたいと思っている興味深いお話しなのです。 |
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しかし、やはり『ヨブ記』は難解な書でもあります。私たちはヨブの気持ちに共感し、自分自身を重ね合わせて、自分の人生の答えを知りたいと思います。しかし、ようやく『ヨブ記』を最後まで読み通しても、なかなかすっきりした答えを得られないという割り切れなさを味わうことになるでしょう。
『ヨブ記』では、最後になってようやく神様がヨブに答えられるという場面が出てきます。そして、ヨブはすっかり納得して、自分の訴えを退け、神様を讃えるのです。そして、神様もヨブに祝福を回復してくださいます。
しかし、私たち読者には、いったいヨブは何に納得したのか、何を悟ったのか、いまいちよく分からないというのが正直な感想ではないでしょうか。失われた息子や娘が帰ってきたわけではありません。その悲しみはヨブの中にずっと残り続けたことでしょう。 |
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『ヨブ記』というのは、ヨブの試練とその回復の物語だと言いましたが、単純な神の救いの物語ではなく、「人生の理不尽な苦しみをどう解釈したらいいのか」、「本当に神様のなさることはいつも正しく公平なのか」、「なぜ神様を信じるか」という人生の深い謎を取り扱った物語だといえます。
そして、ここにはその答えがあります。それは、読めば分かるというような簡単な答えではありません。とはいえ、「答えがある」ということだけでも、私たちの希望であり、慰めです。
忘れてはならないのは次のことです。ヨブ自身はその答えがあることすら分かりませんでした。しかし、その人生の謎に答えを得ようとして、真正面から挑み、病苦と争い、神と争い、妻や友人たちとも争いました。そのような人生の悪戦苦闘の経験を通して、ヨブはついにその答えに到達したのです。
『ヨブ記』が私たちに教えていることは、人生には必ず答えがあるということです。そして、その答えはヨブのように人生の問題に真正面から取り組んで悪戦苦闘するのでなければ、決して到達し得ないような答えであるということではないでしょうか。 |
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「答えはある。しかしそれを見いだすためには時間が必要である」ということは、現代人にとって最も我慢のならないことかもしれません。現代人はスピードに慣れすぎているのです。バスや電車が5分遅れたぐらいでいらいらしてしまう人たちが大勢います。かくいう私も待つことが嫌いな短気な人間の独りですが、こと人生の問題については待つということが大切なのだということを学んでいます。
確かに、人生には「なぜ?」と思うようなことがたくさん起きます。しかし、神様は私たちの「なぜ?」に、いちいち答えを与えてくれるわけではありません。
イエス様がペトロの足を洗おうとなさった時、ペトロはそれを拒否して、「なぜ、あなたが私の足を洗うのか。私はあなたにそんなことをさせたくない」と言いました。イエス様は、そのペトロの問いに直接は答えず、「わたしのしていることは、今あなたに分かるまいが、後で、分かるようになる」(『ヨハネによる福音書』13章7節)とお答えになりました。
このように、本当に分かるためにはそれなりの時間が必要なことがあるのです。だから、納得できない現実をも受容しながら、しかし神を信じ、希望をもって生きて行きなさいと、イエス様は教えておられるのです。
『ヤコブの手紙』5章11節の御言葉を、今日の学びの結びにしたいと思います。
「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」
人生には「ヨブの忍耐」が必要なのです。「ヨブの忍耐」なくして、ヨブが最後に見たもの、聞いたものを経験することはできないのです。「ヨブの忍耐」は決して諦めではありません。それは戦いです。切なる祈りです。答えを得ようとする強い願いを持ちながら、決して諦めることなく、最後まで求め続けることです。『ヨブ記』を通して、そのような生きる力を、私たちも与えられたいと思います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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