エステル物語 09
「三日三晩の断食」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 エステル記  4章1-17節
自分の十字架を負う
 モルデカイは、「ユダヤ人の危機を救うのは、王妃であるお前しかいない」と、エステルに訴えました。しかし、エステルはすぐに決断ができません。たとえ王妃であっても、国家の問題にはまったく無力であることを十分に承知していたのです。

 当時の王妃などというのは、要するに王様の心を慰めるための奴隷のような存在に過ぎませんでした。先の王妃だって、王様のお召しに応じなかっただけで簡単に離縁されてしまいました。離縁されるぐらいならばまだ良い方です。逆にお召しもないのに下手に王様に近づけば、死刑にだってなりかねません。宮廷のことや政治のことを口出しすることなどもってのほかでした。

 ためらうエステルに向かって、モルデカイは「自分一人の平和を考えて、同胞を見殺しにするような卑怯な沈黙をまもってはならない。孤児であったお前が不思議な導きによって王妃にまでなっているのは、今この時に神様のご用を果たすためではないのか」と諭しました。このモルデカイの励ましを受けて、エステルはようやく決心をするのです。

 イエス様は「自分の十字架を負って、私に従ってきなさい」と言われました。十字架とは、どんなに辛いことであっても果たさなければならない、神様からの務めのことでありましょう。エステルはまさに自分の十字架を負う決心をしたのです。
祈りの応援を求める
 エステルは、モルデカイにこのように返事をしました。

 「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」(16節)

 イエス様も十字架を負われる前夜、ゲッセマネの園でお祈りになり、弟子たちにも「目を覚まして祈っていて欲しい」とお頼みになりました。パウロもまた自分の十字架を負って歩んだ人でありますが、その手紙には必ずと言っていいほど「わたしのために祈って下さい」と書かれています。そして、エステルもまた「わたしと一緒に三日三晩断食をしてください」と、モルデカイに、そしてユダヤ人すべてに、祈りによる応援を頼んだのでした。

 人にはそれぞれ自分の十字架があり、それは誰にも代わってもらうことが出来ず、自分自身で負うしかありません。しかし、だからと言って孤独になる必要はありません。お互いに祈り合い、励まし合うことが大切なのです。そのためには、「あなたのために祈っています」というだけではなくて、「わたしのために祈ってください」と言える兄弟姉妹の関係になることが大事です。

 自分の弱さや悩みをさらけ出して、「わたしのために祈ってください」というのは、決して簡単なことではありません。しかし、それが自然に言えるようになってこそ、兄弟姉妹の関係はいよいよ霊的な深まりを持ち、互いに力づけ合うことができるものになるのです。そして、一人ひとりが勇気を持って、自分の十字架を雄々しく負うことができる者となっていくのです。
三日の秘訣
 さらに、わたしはエステルが「三日三晩」と言ったことに興味を持ちます。聖書を読んでいますと、「三日」とう期間が何か重要な意味をもっていると思われる箇所を見つけることができます。中でも重要なのは、イエス様が三日目に復活されたというイースターの出来事でありましょう。

 キャサリン・マーシャルの『祈りの冒険』(いのちのことば社、絶版)という本の中に、この「三日」について興味深い解釈が書いてあります。

 「私は、ミルウォーキー州のパット・バーネスの語った出来事を決して忘れることができません。彼は、一度会ったことのある花売りのおばあさんのことを語っているのですが、その花売りは彼に『三日』の秘訣を教えたのでした。パット・バーネスは、このおばあさんがだれの目に分かるほど喜びに輝いているのを見てたいへん感動し、彼女の生活には何の苦労もないに違いないと言ったのです。すると彼女は言いました。とんでもない。私は隣の人と同じくらいたくさんのトラブルをかかえていますよ。しかし問題の中に復活が隠されていることを私は知っているのです。イエスが昇天された時、すべては暗闇に見えました。しかしそれから三日後に、イースターがやってきたのです。『ですから私はうれしいんです。私は秘訣を知っているんです。トラブルが起こったら、神様にチャンスを与えなさい。― 三日待つんですよ』と。」

 私たちはトラブルが起こると、もう頭の中が心配や恐れで一杯になり、しかもどんどん膨らんでいきます。そして、「どうしよう、どうしよう」と焦ったり、せっかちに「もう駄目だ」と絶望してしまいます。落語に、これから将棋を指そうという男が先の先まで手を読んで、まだ一手も打たないうちに「参りました」と言って投了してしまったという話がありますが、そんなことを私たちは実際やっているのではないでしょうか。

 けれども、そんな風に性急に考えたり、結論を出したりする前に、神様にチャンスを与えなさいというのです。具体的に言うと、三日ぐらい問題をほったらかしにして、神様がいったい何をなさろうとしているのか様子を見るということです。そして、その間に聖書を読んだり、祈ったりして、心の中で神様といろいろと対話をしてみるといいのです。神様はこのトラブルで、神様は何を語りかけておられるのか。私にどのようなご計画をもっておられるのだろうか。何をせよと仰っておられるのだろうか。必ずしも三日とは限りませんが、そうしているうちに自分のすべきことが分かってくるということがあります。あるいは後ろ向きの悪い感情の嵐がおさまって、トラブルを前向きに受け取る力が湧いてくることもあります。

 思わぬ事が突然見に降りかかってくると、つい慌てふためいてしまうのが人の常ですが、一見、お先まっ暗と思えるような未来にも、実は神様の御計画があるのです。それを信じるならば、どんな闇の中にも希望の光が見えてくるのです。
隠された神
 闇の中に光が隠れているという話ですが、それにちなんでエステル記に隠れている神についてお話しをしましょう。実は、エステル記は聖書の中の物語であるのに、「神」、「主」、「御心」、「礼拝」、「祈り」、という宗教的な言葉が一度も現れてきません。今、お祈りについてお話しをしたばかりですが、実際には「祈り」と言う言葉は使われていないのです。また、これはユダヤ人の救いの話ですが、そのために「神の奇跡」が起こったとも記されていません。しかし、言葉は使われていないけれども、祈りに満ち、また神様の奇しきお働きを十分に感じさせる書物となっているのは本当に不思議なことです。

 「闇の中にも光が隠されている」ということと同じですが、私たちの日常生活というのはいつもいつも奇跡が起こっているわけではありません。しかし、それにもかかわらず神様がいて働いてくださるのだと感じることがあります。『エステル記』はこれは私たちの日常感覚に最も近い書であると言えるかも知れません。

 ところで、エステル記には面白い研究があります。実は、神様の名前が暗号として隠されているというのです。具体的に言うと、5章4節の中に神様の名が隠されているというわけです。

 神様の名前は「YHWH」と綴ります。これをエホバとか、ヤーゥエと読でいるのです。それがどのように隠されているかというと、5章4節は原語の順番に並べると「お越しください、王様、そしてハマン、今日」となります。そしてそれぞれの頭につくアルファベットを並べると、YHWHとなるというのです。

 こじつけかもしれません。しかし、このような一種の言葉遊びは世界中に見られることなのです。日本でも兼好法師が友人に送った和歌にこんな歌があります。

 よもすずし ねざめのかりほ たまくらも
 まそでも秋に へだてなきかぜ

 これはそれぞれの最初の言葉を拾うと、「よね(米)たまえ」となります。そして、超人的なテクニックですが、終わり言葉を拾って、後ろから読むと「ぜにもほし」となるのです。

 これに対して友人が返した句が次のような和歌です。

 よるもうし ねたく我せこ はては来ず
 なおざりにだに しばし問いませ

 「よねはなし」「ぜにすこし」と読めますね。こういう技法が日本だけではなく、世界各地にあります。ですから、エステル記の中に神の名が隠されているのもまんざらでたらめとはいえないかもしれません。
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