エステル物語 10
「王様のもとへ」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 エステル記  5章1-14節
神われらと共にいます
 「それから三日目のことである。エステルは王妃の衣装を着け、王宮の内庭に入り、王宮に向かって立った。王は王宮の中で王宮の入り口に向かって王座に座っていた。」(5章1節)

 三日間の断食の後、エステルは何が起こるかわからないまま王様の前に出てゆきました。私たちにもこのような時があるのではないでしょうか。ただ祈り、神の恵みを求め、信じて、思い切った行動をしなければならない時です。しかし、神はエステルと共におられました。

 「王は庭に立っている王妃エステルを見て、満悦の面持ちで、手にした金の笏を差し伸べた。エステルは近づいてその笏の先に触れた。王は言った。『王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。』」(2-3節)

 王様はことのほか上機嫌でした。金の笏を伸べてエステルの突然の訪問を許したばかりか、こうして命がけで自分を訪ねてきたということは、よっぽどの事情があってだろうと察し、「どうした? お前の願いであれば、国の半分だけ与えるから申してみよ」と優しく語りかけてくれたというのです。

 エステルは思わぬ王様の優しき言葉に触れて、どんなに王様に感謝し、また見えないところでお守り下さっている神様に感謝したことでしょうか。エステルは見えない神様を信じて、勇気を振り絞って行動したのですが、今は「神われらと共にいます」という確信が胸にあふれ、神を見て讃美する者に変えられたのです。

 神を見るとか、知る経験というのは、決して勉強の結果ではなく、信仰だけを頼りに歩んだ結果として与えられるものです。どうなるか分からない道を、祈りと信仰をもって歩んだ時、その結果として「神われらと共にいます」という福音の確信と喜びを経験するのです。
王様をじらすエステル
 「エステルは答えた。『もし王のお心に適いますなら、今日私は酒宴を準備いたしますから、ハマンと一緒にお出ましください。』」(4節)

 王様は、エステルに言われたとおりハマンを連れて、エステルの用意した酒宴に行きました。しかし、王様はエステルの願いが何であるか気が気でならなかったに違いありません。ぶどう酒を飲みながら、「さあ、あなたの願いを申して見よ」と促します。エステルは「私の願いは・・」と言いかけて黙ってしまいます。しばらくして、「もしお心に家内マスならば、明日、もう一度酒宴の用意をいたしますから、どうぞハマンと一緒に来てください。明日、私の願いをはっきりと申し上げさせて頂きます」と言ったのでした。

 せっかく王様が好意を示してくれたにも関わらず、エステルがすぐにユダヤ人の救いを願わなかったのは不思議です。王様の気持ちに確信が持てなかったために酒宴を開いて様子を見たのでしょうか。あるいは、王様をもてなすことによって、もっともっと王様を上機嫌にしようとしたのでしょうか。しかし、それなら何故ハマンを一緒に呼んだのかという疑問が残ります。

 エステルの真意はよく分かりませんが、結果としてこれが実に旨い具合に働くのです。王様は、エステルの「じらし」を面白い趣向だと捕らえました。それで夜も眠れなくなって、宮廷日誌を読んでいると、モルデカイが王の命を救ったという記事を読むことになります。それで王は、モルデカイに恩賞を与えていなかったことを思い起こし、モルデカイに改めて恩賞を贈ることになるのです。皮肉にも、ハマンがそのモルデカイに恩賞を与えることになるということも面白いところです。ともかく、すべてがエステルの計画だとしたら、これは孔明も顔負けの天才軍師と言っても善いでしょう。

 しかし、これはやはりエステルの知恵ではなく、神様の知恵であったと思います。前回、「三日の法則」というお話しをしまして、困ったときには慌てて何かをしようとするのではなく、祈ることによって神様に時間を与えることが必要だということを学びました。この時も、エステルは自分で何かをしようとするのではなく、神様の御業が起こることを待っていたのではないでしょうか。
うかれるハマン
 さて、ハマンについてみてみましょう。

@ 感情の揺れ動き

 「この日、ハマンはうきうきと上機嫌で引き下がった」(9節前半)

 ハマンはこの日、本当に幸せだったのでしょう。なぜなら、王妃エステルが王様のお供に選んだのが自分であったからです。王妃エステルさえも、自分に一目を置いていると思ったからです。しかし、それが真実の幸せではないことは、すぐに分かります。

 「しかし、王宮の門にはモルデカイがいて、立ちもせず動こうともしなかった。ハマンはこれをみて、怒りがこみ上げてくるのを覚えた」(9節後半)

 ハマンの「うきうきとした上機嫌」は、モルデカイを見るや否やたちまち不機嫌になります。こういう感情の揺れ動きも、私たちもよく経験することではないでしょうか。もし、本当に幸せであるならば、それは何にも動かされない幸せであるはずです。しかし、ちょっと何かがあったり、誰かにであったりすると、たちまち失われてしまうような幸せ感ばかりを追い求めてしまうのです。

A 自制心

 ただハマンには多少なりとも自制心があったようです。

 「ハマンは自制して家に帰った」(10節)

 ここで、感情に翻弄されてしまうような人間であったら、いくら悪人とはいえ、なかなかここまで上り詰めることはできなかったでありましょう。彼は、自制することを知っていました。その代わり、家に友人たちを招待し、妻も同席させ、自慢話をさんざん聞かせて憂さを晴らしたというのです。

 「彼は、自分の素晴らしい財産と大勢の息子について、また王から賜った栄誉、他の大臣にまさる自分の栄進についても余すことなく語り聞かせた」(11節)

 友人というのは、つまり腹心です。何でもハマンの言うことを聞く者たちです。しかし、こういう人たちは、決して本当の友人ではなく、ハマンの力に与って自分たちも少しいい目をしたいと考えているだけだということに、果たしてハマンは気付いていたのでしょうか。

B 憎しみ

 「だが、王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイを見るたびに、そのすべてがわたしには空しいものとなる」(10節)

 これはなかなか含蓄のある言葉ではないでしょうか。ハマンには多くの喜びがありました。自慢話もありました。この世の喜びの一切がありました。しかし、モルデカイ一人の存在によって、それらがまったく空しくなってしまうというのです。

 言い換えれば、ハマンの喜びというのはそれしきのものであったということなのです。モルデカイは、そのような喜びには見向きもしない人間でした。だから、ハマンをうらやましがりもしなければ、尊敬もしていなかった。モルデカイは、ただ神のみを恐れ敬っていました。そして、この世ではなく、神様が与えてくださる名誉や富を求めていました。そして、その方がずっと人間としてずっと偉大な生き方だったということです。

 私たちはモルデカイのような人間にならなくてはいけないと思うのです。この世の人を見て、神様なんか信じていてもいいことないじゃないか、みんなのようにうまくやった方がいいじゃないか、と急に自分の信仰が空しく思えてくる人がいます。しかし、そうではなく、この世の人々が私たちを見て、自分の喜び、生き方が空しくなるような信仰を持ちたいのです。 
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