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前回は忠臣ハタクについて学びました。ハタクは『エステル記』の主役ではありません。しかし、物語(=人生や歴史)において重要な役割を果たしているのは、決して主役級の人物ばかりではないということを教えてくれる人物でした。彼は持ち前の忠実さをもって、モルデカイとエステルの間に立つ者として一役買ったのです。
さて、ハタクを通して、エステルはモルデカイがなぜ粗布をまとい、灰をかぶって、王宮の門の前で嘆いていたかを知りました。王宮の外では、ハマンの策略により、同胞(ユダヤ人)たちが非常に恐ろしい目にあっていたのです。さらに、モルデカイが自分に何を求めているのかをも知りました。モルデカイは、エステルを王の前に行かせ、苦悩の中にあるユダヤ人を救うために嘆願してもらおうと考えていたのです。
しかし、このことでエステルは恐れと迷いに陥ってしまいます。確かに、王に嘆願するとしたら自分をおいて他にいないでしょう。しかし、王妃であろうと、王に直訴するということは決してたやすいことではなかったのです。というのは、王妃であるエステル自身もまた、ペルシャの宮廷でのしきたりに縛られていたからです。それは、誰であれ呼ばれもしないのに王様に近づく者は死刑に処せられるという掟でした。
ただし、もし王様が、近づいてくる者に対して金の笏を差し伸べるなら、近づく許可が与えられたことになるという取り決めもありました。しかし、エステルにはまったく自信がありませんでした。確かに寵愛を受けて王妃になったのですが、ここ一ヶ月の間、王様からのお召しは一度もなかったのです。
同胞のために生きるか、自分のために生きるか、エステルは苦悩したに違いありません。同胞のためには自分が王のもとにいって嘆願すべきだとは思うのです。しかし、他方では、いくら私が王妃だってそんなことはできない、それは自殺行為なのだという自己保全の気持ちが強いブレーキをかけます。引き受けるわけにも行かず、断るわけにもいかず、エステルは途方に暮れるばかりでした。
結局、エステルの出した結論は、自分がどうしたらいいか分からないでいることを正直にハタクに話し、ハタクを通してモルデカイに伝えようということでした。
「エステルはまたモルデカイへの返事をハタクにゆだねた。『この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。』」(10-11節) |
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ハタクを通してエステルの迷う気持ちを知ったモルデカイは、とても厳しく、力強い言葉で、彼女の為すべきことを示し、激励しました。
「エステルの返事がモルデカイに伝えられると、モルデカイは再びエステルに言い送った。『他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。』」(12-14節)
モルデカイは、エステルに「神の目的のために、自分の身を捨てて行動しなさい」と言っているのです。モルデカイとて親でありますから、エステルを誰よりも可愛く思っていただろうに相違ありません。他のユダヤ人はともかく、エステルだけは助けてやりたいという気持ちが彼の内に興ってきても当然だと思うのです。しかし、そのようなマイホーム主義、つまりに自分や身内の幸せだけを願う人生観を、彼は良しとしなかったのです。では、モルデカイの人生観とはどんなものだったのでしょうか。それは、「すべての人間は神様の目的のために生きるべきである」という人生観です。
これはイエス様の教えと一致します。イエス様はこう言われました。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイによる福音書16章24-25節)
神の目的(=自分の十字架)を忘れ、自己保身に走るということは、自分が生まれてきたことの意味や価値を捨て去ることに等しく、かえって自分を損なうことになります。そういう人は、どんなに生き延びても、喜びをもって、満ち足りた思いをもって、「わたしは自分の人生を生きた」と言えない人生を生きることになってしまうのです。しかし、神の目的のために自分を顧みないで行動するならば、たとえ命を失っても、本当の意味で「生きた」と言える人生を生きることができるのだと、イエス様は仰っているのです。 |
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モルデカイが、エステルに「神の目的のために生きよ」と厳しいまでに忠告することができたのは、ただ「そうすることが正しい人生だから」という理由だけではありません。それだけであったら、モルデカイは血も涙もない養父と言われても仕方がありません。しかし、モルデカイには、神様の目的に生きるならば、神様は必ず私たちを通してご自身の目的を果たしてくださるという揺るぎない確信があったからなのです。モルデカイのこの言葉に注目してください。
「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。」
あなたは神の目的に生きるべきであるが、たとえあなたがそれを放棄しても、神様は別の人を起こしてご自身の目的を成就されるであろうというのです。人間が何をするか、何をしないかで、神様の目的が妨げられることはないのです。しかし、それによって、あなたの人生は生きたり、死んだりすることになるだろうということです。
こんな話を読んだことがあります。ある医師のもとに、頼りなげな初産の女性が来ました。分娩のときになって、赤ちゃんは女の子で、しかも片足であることが分かりました。医師は、とっさにこの頼りなげな母親の受けるショックと、障害児を育てていく一家の物心両面の苦しみと、片足で生まれてくるこの子の不幸とを思って、二、三分の間、産道からその子を引き出すのを遅らせて、胎児の息の根が消え入るのを待とうと思いました。それが母親とこの子のためになると判断したからです。
ところが、そのとき胎児の健全な片方の小さな足、その足先が医師の手を、ぐっと押しました。そして、そのはずみに、医師は自分が考えたとおりにやれなくて、その赤ん坊を、哀れな一本足のまま分娩させてしまったのでした。
それから17年の歳月が流れました。医師の病院では、例年の如くクリスマスの祝会を行っていました。看護婦たちがローソクの灯をかかげて「聖しこの夜」を歌いました。そして、その舞台の端には一人の少女がハープをオルガンに合わせて静かに奏でていました。医師は特にハープの音色が好きであったので、彼女に注目し、その美しい音色に聞き入り、感動さえ覚えていました。
すると、彼の傍らに中年の上品な婦人が近づき、そっと囁きました。「先生、あの子をご覧になっておられましたね。17年前、先生に取り上げて頂いた、片足で生まれた女の子です。義足をつけていますが、前向きです。水泳も、ダンスも出来ます。あの娘は私の命です。」
医師は大きな衝撃を受けました。そして、少女に近づき、「今晩、あなたの演奏が、私にとってどんなに深い意味をもたらしたか、私以外には誰もわかりません。もう一度『聖しこの夜』を私にだけ聞かせてください。私の肩には誰も知らない重荷がかかっていました。それを取り除いてくれるのは、あなただけです」
このエピソードもまた、神様の御旨は何ものにも妨げられず必ず実現するということを物語っています。しかし、それを妨げようとしてしまった医師は、長いこと良心の呵責を感じ、それを心の重荷として苦しんできました。神様の憐れみによって、それが取り除かれるまでは・・・
モルデカイが言いたいことも、そういうことなのです。
「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。」 |
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モルデカイの真摯な語りかけによって、エステルの心を動かされました。彼女は、すべての手放し、全き献身への決断をし、立ち上がったのです。
「エステルはモルデカイに返事を送った。『早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。』」(15-16節)
私たちは、「死んだらおしまいだ」と思うかも知れません。しかし、それは大きな間違いです。人間は誰でも必ず死ぬのです。「死んだらおしまいだ」などと考えたら、「どうせ死ぬのだから、苦労して生きていたところで何になるのだろう」と、はじめから生きるのが嫌になってしまいます。私たちは、「死んだらお終い」ではなく、死ぬことを生きることの目標に据えなくてはならないのです。「いかに生きるか」とは、「いかに死ぬか」という問題だと認識することが必要なのです。意味のある死、価値のある死、満ち足りた死、このような死を死ぬことが生きることも目標ではないでしょうか。
イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われました。死ぬことを否むのではなく、死んでも生きるような生き方、死に方が大切なのです。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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