■ 問題外のところに答えがある
サムエルは困りました。エッサイ家の息子たちと次々に対面するのですが、そのだれに対しても神様の同意を得ることができなかったからです。するとエッサイが弁解を含めながら、彼に打ち明けました。
「実は、もう一人の息子がいます。末っ子で、まだ子供に過ぎません。問題にならないと思って羊の番をさせているのですが…」
■ それは神が決めること
これを聞いたサムエルは、すぐにその子を連れてくるように命じます。問題になるかどうかは人が決めることではなく、神様がお決めになる事だと、サムエルはすでにしっかりと学んでいたのです。
数に入らなかった末っ子、だれも問題にしなかった取るに足らぬ者、そのダビデがサムエルの前に現れました。その時です。「これがその人である」という神の声が、サムエルにはっきりと聞えたのでした。
■ なぜ、ダビデが?
後になって、ダビデは「人は何者なので目に留められるのですか」と讃美しました。「なぜ、神がダビデを選ばれたか」それは、彼を選んだサムエルにさえ分からなかったことでしょう。
そういうことは考えても仕方がないことなのだと思います。神様は「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(出33:19)と言われるお方だからです。
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)
これもそうです。「なぜ?」と考えることは無駄なことなのです。人間やこの世の側に「選ばれる理由」「愛される理由」など何一つないのですから。「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」これが神様の答えなのです。
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