ぶどう園の農夫の譬え(火曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書12章1-12節
旧約聖書 詩編118章17-29節
二重の恵み
 今日はKさんの洗礼式が執り行われました。心からお祝い申し上げたいと思います。Kさんは、先日の木曜日、受洗準備の時に、「今、とっても緊張しています。けれども、これでやっと心の重荷を下ろせるという不思議な平安が私を包んでいます」と、お話し下さいました。本当にイエス様の救いは素晴らしいお方です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と、イエス様は優しく招いてくださいました。そして、その招きに答えて、姉妹は今日、本当にすべての重荷に主に委ね、その喜び、その平安のうちに、神の子として新しく生まれ変わったのであります。

 先週の週報にも書かせていただきましたが、イエス様が「受けよ」と弟子たちに語っておられる御言葉が二つあります。一つは、『マタイによる福音書』26章26節の「取って食べなさい。これはわたしの体である」という御言葉です。この「取って」というのは「受けよ」という意味の言葉でありまして、これと同じ言葉で弟子たちに語れているもう一つの言葉は、『ヨハネによる福音書』20章22節にあります「聖霊を受けなさい」という御言葉なのです。

 「取って食べなさい。これはわたしの体である」というお言葉は、弟子たちに聖餐式のパンをお配り下さった時のイエス様のお言葉であります。神の子であるイエス様が、そのみ体を十字架の上で割いて、「これはあなたがたのために捧げる私の命である。これを受けよ。取って、食べよ」と差し出してくださっているのであります。そして、洗礼を受けるということは、イエス様がお与え下さった、この聖餐に与る者とされることであります。そして、イエス様の命をいただく者となって、私たちもまた神の子として、神様の愛と祝福のうちに生きる者とされることなのです。

 もう一つ、イエス様が仰ってくださったお言葉は「聖霊を受けなさい」ということであります。これに関して、イエス様はこういうことも言っておられます。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(『使徒言行録』1章18節)

 聖霊は、イエス様の御霊であります。イエス様の御霊は、イエス様の御心であります。そして、イエス様の御心とは何かと言えば、それはイエス様の救いがこの世にあまねく宣べ伝えられ、すべての人が、イエス様によって神の子とされ、神の愛、神の赦し、神の救い、神の祝福が、この世に満ちあふれることでありましょう。ですから、「聖霊を受けなさい」とは、そのようなイエス様の愛の御心をあなたがたの心として受けとりなさい、そして、その神の愛に根ざした尊い使命のために生きる神の民として新しく生まれ変わりなさいと意味なのです。

 このように洗礼を受けて新しく生まれ変わるということには、二重の意味があるのです。一つは、神の子とされ、イエス様の備え給う聖餐という恵みの食卓に与る者とされる恵みであります。もう一つは、聖霊を受けて神の民とされる恵みであります。聖霊を受ける時、私たちの貧しい心はイエス様の愛の心で満たされ、聖餐という恵みの食卓から立ち上がって、神の目的のために生きる者とされるのであります。
ぶどう園の農夫のたとえ
 さて、今日は「ぶどう園の農夫の譬え」であります。ある人が立派なぶどう園を作り、それを農夫たちに貸し与え、旅に出ました。農夫たちは、そのぶどう園で一生懸命に働き、やがて収穫の季節が訪れます。すると、ぶどう園の主人はその収穫を受け取るために、一人の僕をぶどう園に遣わしてきました。当時の習慣からすると、農夫たちは収穫の三分の一ないしは四分の一を、農園の所有者に支払うのが当然だったと言います。ところが、彼らはすべてを自分のものにしようとしてしたのであります。主人もとから送られてきた僕を、捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰してしまった、というのです。

 それでも、この主人はあきらめないで、別の僕をぶどう園に遣わしました。ところが農夫たちはまたもや、その僕を殴り、侮辱して主人のもとに送り返してしまいます。主人は、三人目の僕を遣わしました。すると農夫たちは、今度はとうとうその僕を殺してしまった、と言われています。その後も、主人はこの農夫たちにもとに僕を遣わし続けます。けれども、何人の僕を遣わしても、ことごとく農夫たちに拒絶され、ある者は殴られ、ある者は殺されてしまったというのです。

 最後に、主人は「自分の息子ならば敬ってくれるだろう」と考え、独り息子を農夫たちのもとに遣わしました。すると、農夫たちは「これは跡取りだ。こいつさえ殺してしまえば、ぶどう園は私たちのものになる」と相談して、敬うどころか、この息子を殺し、ぶどう園の外に放り出してしまったというのです。

 何ともひどい話です。救いのない話です。イエス様は、いったい何をこの譬え話によってお語りになろうとしておられるのでしょうか。

 それを知るのには、この譬え話がどういう状況で語られたのかということも知っておく必要があります。先週お話ししたことでありますが、イエス様が神殿を歩いていると、神殿当局者たち、つまり祭司長、律法学者、長老という人たちがゾロゾロとやってきて、イエス様を取り囲み、「あなたはいったい何の権威でこのようなことをしているのか」と、問い詰めたのです。「このようなこと」というのは、いろいろありまして、ゼカリヤが預言した平和の王の到来よろしくロバの子に乗ってエルサレムにやってきて群衆の歓声を浴びたり、「わが家は祈りの家と称えられるべし」と言って神殿の境内で商売をしている人たちを追い散らしたり、神殿の中で勝手に人々を教えたり、要するにここ数日、でイエス様がなさっていることすべてが気にくわないのです。

 それは一言で言えば、縄張りを侵されたということでありましょう。どこの馬の骨ともしれないイエスという男が、ガリラヤの田舎くんだりで妙な教えを広めたり、不思議な業をして民衆を惑わしているということは、彼らも前から聞いていて知っていたのです。しかし、それは都から遠く離れたところでの話でありましたから、彼等も黙って静観しておりました。だがエルサレムで勝手なまねは困る、不愉快だ、目障りだ、とっとと出て行ってくれと思うのです。そして、それが殺意にまで高まっておりました。11章18節には、こう書かれているのです。

 「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。」

 ですから、この「ぶどう園の農夫たちの譬え」を聞いて、彼らは自分たちへの当てつけだと気づいたと言われています。その通り、イエス様は、ご自分を邪魔者にして殺そうとしている彼らに対して、あなたがたは、主人の独り息子を殺してしまったこのぶどう園の農夫たちと同じだ、ということを言いたいのであります。

 しかし、彼らに当てつけ、皮肉るだけの譬え話だとしたら、そんなものはあまり価値がありません。これは、別の言い方をすれば、神の民の不幸な生き方の譬えなのではありませんでしょうか。そして、この譬えを通して、神の民の幸福な生き方はどうあるべきなのかということを、逆説的に教えてくださっているのではないかと思うのです。 
仮りの世と借りの世
 そのような視点で、改めてこの譬え話を読んでみますと、色々なことが分かってきます。

「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」

 ここには、神様の創造の御業が語られているのです。神様はこの世界をぶどう園としてお造りになりました。そして、このぶどう園に神様を喜び、楽しませる素晴らしい実が豊かになる日のことを思って、すばらしい搾り場をも用意いたしました。さらには、このぶどう園が誰にも侵されることがないように、垣を巡らし、見張りのやぐらも立てたというのです。

 こうして完成したぶどう園を、神様は農夫たちに、つまりご自分の民をお委ねになりました。ここが肝心なところでありまして、私たちにとってこの世界は、神様のものであり、神様に貸し与えられているものであるということなのです。そのことをきちんと弁えているということが、神の民の幸せな生き方に必須条件なのです。

 よく日本人は、「この世は仮の世である」といいます。「仮の世」というのは仏教から来た思想で、所詮この世は仮の世なのだから、この世に対する執着を捨てて、真実の世界つまり仏の世界に目を向けよということです。そうすれば、この世の迷いや苦しみから解放されるというのです。

 しかし、これは体のいい現実逃避だと思うのです。こういう考え方をしていますと、自分の苦しみだけではなく、人の苦しみにも関心が薄れていってしまいます。人の苦しみが分からなければ、そこに人を救う愛ということも生まれてきません。また自分が何か罪を犯したとしても、所詮は仮の世での話ですから、自分の心さえ改まれば、それで罪はなくなると思ってしまう。たとえ自分の犯した罪の結果によって他人がどんなに苦しんでいても、自分は心を改めたのだからいいではないかということになってしまうのです。

 この点、イエス様は、神の民は「仮の世」ではなく、「借りの世」に生きるのであると、仰るのです。借りているということは、借家でありますから、本当の家は、やはり別にあるということでもあります。たとえば、イエス様は、「準備ができたら、あなたがたを天国に迎えにきます」と言われました (ヨハネ14:2-3)。「私たちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)という御言葉もあります。私たちの永遠の住まいは天にあるという意味では、聖書もまた、この世は過ぎ去るものであり、永遠の御国である天に目を向けて生きることが大切だと言っているのです。

 しかし、「借りの世」は、決して「仮の世」ではありません。「仮の世」であるならば、それは真実の世界が来た時に夢、幻のごとく消えてしまうことになるでしょう。天下を取り、栄華を極めた豊臣秀吉も、「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」と、辞世の句を残して世を去ったと言います。どんなに一生懸命に生きても、結局は「夢のまた夢」ということで終わってしまう、それがこの世を仮の世として生きた人の人生なのです。

 けれども、「借りの世」を生きる人は違います。何よりも、神からお預かりしているというこの世に対する責任と使命があるのであります。たとえば環境問題とか、平和の問題とか、人権の問題とか、そういうこの世の問題に対して、私たちにはそれを担い、その問題解決のために全力を尽くすという責任と使命があるのです。

 
石井十次
 その点、先日、山田火砂子監督の映画でみました石井十次の生涯というのは、借りの世を生きる神の僕の姿だと思って、深く感動させられました。

 石井十次は、日本で初めて孤児院を作った人で、明治、大正時代にのべ三千人の孤児を引き取って育てたクリスチャンです。彼はもともと心根の優しい人間でありました。だからこそ、そこかしこに物乞いをする孤児たちが溢れているのを見過ごしに出来ないで、一人、また一人と自分の家に呼んで来て育てたのでありましょう。

 でも、それだけであったならば、彼は自分の生涯の仕事を成し遂げられなかったのでありまして、それが出来たのは、彼が孤児救済をイエス様の御心と信じ、そして自分に与えられた責任と使命と受け止めたからなのです。

 飢饉が起こったり、戦争が起こったりする度に、何百人という孤児が石井十次のもとに集まってきました。それらの孤児をすべて受け入れるためには施設をもっともっと拡大しなければなりませんし、莫大な資金も必要になります。しかし、社会福祉などという考え方がない時代のですから、人々の理解を得ることはきわめて難しい。そんな状況の中、孤児は救いたいが、果たして数限りない孤児をすべて救うことなんかできるのかと、石井十次の心は迷いました。

 しかし、そんな時、彼は一つの幻を見るのです。それは、イエス様が背中に大きな籠を背負って十次の前に立っている姿でした。その籠の中には数百人の孤児たちがいっぱいに入っています。その上になお、その後ろに200〜300人の子供が立っているのでした。そして、その子供たちを、もうこれ以上入らないのではないかというような孤児でいっぱいのイエス様の籠の中に一生懸命に詰めている人たちがいたのでありました。そして、不思議なことにすべてが子供たちがイエス様の籠の中に入るのと、イエス様が「もう済んだのか」と言われて、立ち去っていこうとされた。十次は思わず、イエス様の籠の後ろに手をかけて、それを手伝って一緒に運んだという幻です。

 この幻について、十次はこう言っています。

 「自分は大勢の子供が次々と来てどうなるかと心配しているけれど、『孤児院を背負っているのはお前ではなく、私だ。今見たとおり、私の籠はいっぱいに見えてもまだ入る。心配せずに、お前はお前のありったけの力を出して私を手伝ってくれ』と、イエス様が励ましてくださっているのだと教えてくださったのだ」

 石井十次は、神様のぶどう園の農夫として一生懸命に生きた人でありました。しかも、そのぶどう園を決して自分のものにしようとはしなかったのです。あくまでも神様の僕として、神様の御心のために、それだからこそ困難とも闘いながら、孤児救済のために生きたのです。

 最初に、洗礼の恵みは二重の恵みがあると申しました。神の子として生まれ変わる恵みと、神の民の一員に加えられる恵です。そして、神の民として生きるということは、決して楽しいことばかりではなく、むしろ困難や試練も伴う人生であります。責任と使命をもって生きる戦いの人生であります。しかし、その人生は決して「夢のまた夢」と空しく消える人生ではありません。天に朽ちることのない宝を積む人生なのです。

 この譬え話から、さらにまだ多くの学ぶことがありますが、次回に続きをお話しさせていただきます。
目次

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