権威についての問答(火曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書11章27-33節
旧約聖書 エレミヤ書1章4-10節
論争の日
 今日は、イエス様の最後の一週間の火曜日にあった、神殿での出来事からです。

 イエス様が神殿の境内をゆっくりと歩いておられると、待ちかまえていたかのように祭司長、律法学者、長老たちが、どやどやと勢いよく近づいてきて、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と、頭ごなしに問い詰めてきました。

 実は、この火曜日は「論争の日」とも言われていまして、このような論争が、祭司長、律法学者、長老たちによって、いくつもイエス様に仕掛けられてきた日なのです。今日はその最初の「お前の権威は何か」ということでありますが、この後も「ローマに税金を納めるべきか、否か」とか、「復活はあるのか、ないのか」とか、「数ある律法の中でもっとも重要な教えは何か」とか、「メシアはダビデの子か」といった、当時の学者たちの間でも議論が分かれていた難しい神学論争が、イエス様と祭司長、律法学者、長老たちとの間で、一日中繰り広げられたのでした。

 論争の仕掛け人である「祭司長、律法学者、長老たち」というのは、すでに18節のところで登場しています。イエス様が神殿の商人たちを追い出して「わが家は祈りの家と称えられるべし」と宣言なさった、その直後のところです。読んでみますと、「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」とあります。イエス様に対して殺意を持ったというのです。

 そして、彼らはイエス様をこの世から葬り去るためにはどうしたらいいか、一晩じっくりと策を練ったのではないでしょうか。今のままであれば、民衆がイエス様をメシアだ、エリヤの再来だと、熱烈に支持している状態でありますから、やたらにイエス様を捕らえるというわけにはいきません。まずは民衆の面前で難しい神学論争を仕掛け、イエス様を窮地に立たせ、化けの皮をはがしてやろう。そうすれば、民衆も目を覚まし、愛想をつかし、あの男がメシアであるなどという馬鹿げた幻想も棄てるに違いない。そうなればこっちのもので、あの男を「人々を惑わす異端者」として始末すればいい。そんな筋書きが、彼らの中にできあがったのだろうと思います。

 ところが、実際にはイエス様の化けの皮をはがすどころか、自分たちの化けの皮がはがれてしまうのです。もっと丁寧な言い方をしますと、彼らは、論争によってイエス様が偽物のメシアであることを暴こうとし、メシアを騙った罪で殺そうとしていました。ところが、イエス様と問答をしてみると、イエス様のお答えによって、逆に彼らこそが偽物であることがはっきりしてしまったということです。それが、火曜日の神殿での出来事、論争の日の出来事でありました。
食い物の恨み
 今日はその最初の論争である「権威についての問答」であります。

「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」

 彼らが問題にしている「このようなこと」とは、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入城して大騒ぎを起こしたことや、神殿から商売人を追い出したことなど、一連のイエス様の行動のことでありましょう。また、それだけではなく、神殿の中でイエスが「教えて」おられたことも含んでいたと思います。要するに、それは彼らの縄張りを荒らすことだったのです。

 というのも、彼らは当時のユダヤ教の正当な手続きによって、祭司長、律法学者、長老の職に任じられていました。だからこそ、人々は彼らを神様の僕と認め、教師、牧者、神殿の管理者として尊敬していたのであります。それに応じるように、彼らもまた我々こそ神の僕であるという自負をもって、人々を教え、導き、また神殿の務めを果たしていたわけです。

 ところが、そこにどこの馬の骨ともしれないイエスという男がやってきて、誰に任じられたわけでもないのに人々を教えたり、神殿で勝手なことをしている。しかも、チヤホヤされていい気になっている。それが、彼らには気に入らないのです。邪魔なのです。とっても不愉快なのです。だから、「こんなことをするお前は、いったい何様のつもりだ。どんな権威が、どんな資格が、お前にあるのか」と、彼らはイエス様に詰め寄った、というわけです。

 彼らの気持ちは分からないではありません。私が今、こうして聖書を解き明かし、説教をしているのは、私が正規の手続きを経て、牧師に任じられたという自負があるからであります。また、みなさんが私ごとき者のお話を、御言葉の説教として真剣にお聞き下さるのも、同じ事であろうと思うのです。

 日本基督教団の定めによりますと、牧師になるためには、神の召しを受け、献身し、それだけではなくちゃんと検定試験に合格し、教区総会の議決を経て、按手を受領しなければならないとあります。正直に申しますと、この牧師になる道のりというのは、私にとってたいへんな道のりでありました。検定試験というのは勉強すれば合格いたしますが、果たして自分には神の召しがあるのか、どうか。また、本当に神様に自分を捧げる覚悟があるのか、どうか。そういうことは、人から判断されるというよりも、自分自身を突き詰めて、神様に血の滲むような祈りを捧げて、ようやく「はい」と答えることができるものなのです。

 そのような道のりを通って、今、みなさんの前で神様のご用をさせていただいているわけですが、たとえばそこに外から誰かがやってきて、神学校も行かず、検定試験も受けず、按手も受けていないのに、勝手に教えたり、教会の運営を始めたりしたらどうでしょうか。やはり、私も「あなたはどんな権威をもって、そんなことをするのか。誰が、あなたにそんなことをしてもよいという権威を与えたのか」と、問うに違いないと思うのです。

 権威というのは宗教的な権威だけではなく、政治的な権威もありますし、家庭であれば父親の権威、学校であれば先生の権威、職場であれば役職の権威と、色々な権威があります。その権威を問うということは、その権威が正当なものであるかどうか、つまり「あなたにその資格があるか」ということを問うことなのです。あなたには牧師の資格があるのか。父親の資格があるのか。先生と呼ばれる資格があるのか。部長とか社長の資格があるのか。そのような振る舞いをする資格があるのか、と問うことなのです。みなさんは、そういうことにちゃんと答えられるでしょうか。
相田みつをさんの自惚れ
 相田みつをさんという方をご存じでしょうか。十年以上前に亡くなられた方ですが、素人にはうまいんだか下手なんだかよくわからない独特の書で詩を書かれて、今も根強い人気をもっておられる方です。仏法を学んだ方で、詩の中にもそういう宗教色が出ております。が、あまり気になりません。仏教とかキリスト教という枠を越えて、人の心に訴えてくる素晴らしい詩を書く方です。

 相田さんは書道家であり、詩人でもあるのですが、無名の頃はそれでは食べていけませんから、習字の先生をして生計を立てておりました。ところが、道元の禅問答を学んで行くうちに、自分を深く見つめ直す機会を得るんですね。「自分のやっていることは何だ」、「習字の先生をして親子四人の生計を立てている、この生ぬるい生き方は何だ」、「今のような安易な生き方をして、安易な書を書く書道家でいいのか」と、自分に問いつめるのです。

 そして、ついにある決心をいたします。お金や名声などはいらない、書家とか、詩人と呼ばれなくてもいい、ただ本当に自分の心が納得のいく生き方をし、自分の納得のいく仕事をし、自分の心の自由だけは守ろうと、ただ食うためだけにやっていた習字の先生をぱったりと辞めてしまったのです。

 その途端に「親子四人がどうやって食べていけるか」という現実問題が、相田さんに重くのしかかってきます。そこで思いついたのが、心ゆくままに書いた自分の書や詩を生かして、商店の包装紙のデザインをしようということなのです。相田さんは、自分でお店を一軒一軒回って「お宅の包み紙のデザインをさせてくれませんか」と仕事を探しました。ところが、当時はデザインなんて洒落た言葉もなく、そんなものにお金を払う時代でもありません。ことごとく門前払いをされてしまったのでした。

 ところがあきらめずに回っていますと、ようやく話を聞いてくれるお菓子屋さんがありました。ちょっとおもしろいところなので、文章をそのまま引用して紹介させていただきます。

(以下引用、「いちずに一本道、いちずに一ツ事」より)
 某市にある一軒のお菓子屋さんに飛び込んだ時の話です。「わたしはこれこれこういうもんですが、お宅の包み紙のデザインをやらせてくれませんか」と言って、肩書きも何もついていない名刺を差し出しました。店のご主人曰く、「あなたはどんな経歴の持ち主ですか?」「経歴や肩書きは何もありません。立派な肩書きがあればここまで注文に来ません。ないから来たんです」わたしは正直に答えました。「あなたはどこか他のお店の仕事をやっていますか?」「いいえ、やっておりません。お宅が初めてです」「どうしてうちに来ました?」「はい、お宅がこの街で一番いいお店のように思えましたから」「何か今までにやった仕事の見本はありますか?」「いいえ、ありません。こちらがはじめてです。」「ほう、初めてですか。うちで今使っている包み紙はこれですが」と言って、ご主人は、その時使用していた包装紙を広げて、「これよりもいいものができる自信がありますか?」と、私に聞きました。「そんな自信はありません。あるのはうぬぼれだけです。そのうぬぼれも、やってみなければわかりません」私は絶対にいいものを作りますとは言いませんでした。それは嘘になるからです。「うん、確かにそうだ。おもしろい、ひとつ頼んでみるかね」
(引用終わり)

 こうやって相田さんは初めての仕事を取ったというのです。相田さんの「そんな自信はありません。あるのはうぬぼれだけです。」という返事、これは本当に素晴らしい返事だと思います。店のご主人に対するだけの返事ではなく、すべての人に対する返事であり、自分の人生に対する答えだと言っても大袈裟ではないと、私は思いました。

 「自信」と「自惚れ」はほとんど同じような意味ですが、世間では「自信を持て」ということは言いますが、「自惚れを持て」ということは言いません。「自信を持つ」というのは、人が自分を誉めてくれたり、世の中が自分を評価してくれたりすることがあって、初めて「ああ、自分にもこんなことができるのだ」と気がついて、自分が堂々とした人間になっていくことだと思うのです。けれども、相田さんにはまだ何の実績もなかったわけですから、自信など持ちようがありません。

 けれども、「自惚れはある」と言われました。自惚れというのは他人の評価は関係ありません。人が自分のことは糞味噌に言おうと、自分が自分のことを心の中で認めてあげれば良いのです。ですから、自惚れの強い人というのは、人から何と言われてもあまり気にしません。人に左右されない自由さがあるのです。ところが自信家というのは人の評価によって成り立っているものですから、人に誉められれば自信を持つし、人に貶されれば自信を失ってしまうわけです。

 「そんな自信はありません。あるのはうぬぼれだけです。」という相田さんの言葉は、他人が自分の仕事を認めてくれるかどうか、それは判らないけれども、私は自分が納得できるような仕事をする、そういう約束できるということなのです。本当に自由な心をもった、いや、そういう心で生きていこうと決心をして、それを実行に移した相田さんだからこそ言える言葉だと思います。 
権威と何か
 このような心の自由さということが、実は権威ということと関係してまいります。

 聖書における「権威」とは「主権」のことなのです。「主権」というのは、他のものに支配されない、自由で、独立した力です。他人に束縛や支配されないで、自由に振る舞うことができる力です。こういう力をもっているのは、本来は神様だけであります。ですから、この言葉も、本当は神様だけに用いられる言葉であったとも言われています。

 それなら、この地上における様々な権威というのは何かといいますと、本当の権威、主権をもっておられる神様が、御心のままに一人一人にゆだねられた権威であると言うことができましょう。『ローマの信徒への手紙』13章1節にも、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」と書かれています。この地上にある権威というのは、天においても地においても唯一の主権者、独立した自由な力をもった神様にもとに位置づけられた権威だけなのです。

 先ほど、みなさんが権威を問われたらどう答えられますか、とお尋ねしました。あなたには本当に父親なり、母親の資格があるのか、本当に先生と呼ばれる資格があるのか、本当に上司と呼ばれる資格があるのか、そのように問われて「はい」と答えることができますかとお尋ねしたのです。私は、本当に牧師の資格があるのかと問われたら、相田さんの言葉を借りて、「自信はないが、うぬぼれはあります」と答えるしかないと思うのです。

 自信はありません。自信というのは要するに他人の評価ですから、人が私に合格証を与えてくれるとか、私の働きを見て「あなたは良い牧師です」と誉めてくれるとか、そうしたら自分が牧師であることの自信がちょっとだけ深まるのは事実です。しかし、誰かが「あなたは牧師失格です」と言ったら、たちまち自信を失ってしまう。そんな頼りないことでは、たいがい私はいつもしょんぼりとした牧師になってしまいます。

 そうならないのは、相田さん流に言えば「自惚れ」が私にもあるからなのですね。「自惚れ」と言う言葉がふさわしくなければ、人の評価がどうであろうと、自分の心の中で、その資格が神様に与えられていると信じることができるからなのです。自分は神からの召命を受けている、それに対して自分は心から献身していると、自分で自分を納得させられる生き方をしている、どうか。それこそが「自分が牧師である」と言うときに、最も大切なことだと思っているからなのです。

 皆さんも同じだと思います。紙切れ一枚に「あなたは牧師です」とか、「あなたは教師です」とか、「あなたの父親です」と書いてあっても、何の意味もありません。人が、あなたは良い先生だ、良い父親だ、良い母親だと言ってくれるか、どうかでもありません。自分にはその権威が神様に与えられているのだ、それに対して自分は誠実に生きているのだと、自分で自分のことが信じられることが、その人を本当に牧師なり、教師なり、父親なり、母親にするのではないでしょうか。相田さんがうぬぼれと言ったのも、自分が書家であり、詩人であるということは他人が決めることではなく、天が自分に与えてくれたことなのだという意味だと思うのです。それが心の自由さ、つまり他人に左右されない資格、力、つまり権威というものになってくると思うのです。
権威を問うのは、生き方を問うこと
 しかし、祭司長、律法学者、長老たちがイエス様に求めた権威は、そういう権威ではありません。あなたが教師である、あなたが祭司である、あなたがメシアであるということを証明する紙切れがあるかどうか、ということなのです。だれがそんなものをあなたに与えたのか、ということなのです。

 ですから、イエス様はこう答えました。

 「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」

 イエス様が尋ねておられるのは、ヨハネの権威ではなく、ヨハネの授けた洗礼の権威です。あの洗礼には意味があったのか、どうかということです。

 当時、洗礼というのは、新しく神の民として生まれるための儀式として行われていました。ということは、生まれたときから神の民であるユダヤ人は洗礼を受ける必要はないことになります。ですから、洗礼というのは、もっぱら異邦人がユダヤ教に改宗するときに行われていたのでした。

 ところが、ヨハネは、「もうすぐメシアが来る。その時、ユダヤ人だからと安心していてはいけない。自分の生活を悔い改めて、心から神様に立ち返らないならば、神様の裁きを受けることになるのだ」と教えて、ユダヤ人たちに洗礼を授けていたのです。つまり、大切なのはユダヤ人の血筋ではなく、信仰を受け継ぎ、心における神様との結びつきだということを、洗礼を授けるということを通して教えたのです。

 このヨハネの教えを聞いて、多くのユダヤ人がヨハネの洗礼を受けました。イエス様も、ヨハネの洗礼の意義を認めて、この洗礼をお受けになりました。イエス様は、そのことを改めて、祭司長、律法学者、長老たちに問うのです。ヨハネの洗礼は神様に与えられた権威に基づいた正しい洗礼なのか、それとも何の資格もない人間であるヨハネが勝手にやった意味もない洗礼なのか。

 祭司長たちは、「わかりません」と答えます。本当は判らないのではなく、「あれもヨハネが勝手にやったことだ」と思っているのです。けれども、彼らにそのようには言えませんでした。それは、どうしてか。

 「『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言うだろう。しかし、「人からのものだ」と言えば……。』彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、『分からない』と答えた。」(31-33節)

 彼らが自分の考えていることを正直に言えなかったのは、「群衆を怖かった」からであるというのです。もし、彼らは神様の権威に生きていたならば、人を恐れる必要はありません。神様から授かった自由をもって、誰に対しても自分が信じていることを言えばいいのです。それができないというのは、彼らが神様ではなく、人の評価とか、評判とか、人間に寄り頼んだ権威に生きていた証拠なのです。

 だから、彼らの生き方は不自由なのです。イエス様が来ると、自分たちの縄張りを侵したとか、葬り去らなければ自分たちの立場が危ないとか、そういう妬みとか、不安とか、恐れに駆られて躍起になってしまうわけです。

 こうして彼らは、イエス様の化けの皮をはがそうとして、逆に自分たちの化けの皮をはがされてしまった。イエス様の権威を問うて、自分たちの権威が問われてしまった。権威を問われるとは、生き方を問われることです。あなたは何に基にして生きているのか。何を気にして生きているか。あなたのしていることは正しいのか。そういうことが問われることなのです。

 しかし、イエス様は、最後に彼らを裁きませんでした。「わたしも、あなたがたに答えない」と言って、御自分の権威を明らかにすることを保留されたのです。イエス様の目的は、彼らの罪、過ちを明らかにすることではありますが、決して彼らをやっつけるためにではなかったからです。「わたしも、あなたがたに答えない」という言葉には、私は待っているから、自分で正しい答えを見つけてご覧なさいという、イエス様の優しさが込められていたのではないでしょうか。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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