枯れたいちじくの木(月〜火曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書11章20-25節
旧約聖書 エレミヤ書8章4-23節
いちじくの木を呪う
 前回は、宮清めのお話でした。その時にも少しお話をいたしましたが、その日の朝、イエス様とお弟子さんたちがエルサレム神殿に向かわれるその道筋で、ちょっと気になる出来事がありました。聖書では12〜14節に書かれておりますので、それをお読みしてみたいと思います。

 「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。」

 道すがら空腹を覚えられたイエス様は、遠くに葉の生い茂ったいちじくの木があるのを見つけられました。そこで、イエス様はその実を食べようと近寄ってお探しになったのですが、残念ながら、葉っぱばかりで一つの実もなかったというのです。それもそのはず、いちじくの季節ではなかったのだとも言われています。いちじくに実がなるのは初夏でありますが、その時はまだ春だったのです。しかし、がっかりなさったイエス様は、「今から後、お前の実を食べる者がいないように」と、いちじくの木を呪われたのでありました。

 その明くる日、つまりイエス様の最後の一週間における火曜日の出来事になりますが、その日もイエス様と弟子たちは朝早くから神殿に向かっておられました。そして、件の木の前にきますと、弟子たちの足がぱたりと止まる・・・昨日まで青々と葉っぱが生い茂っていたいちじくの木の変わり果てた姿が、彼らの目に飛び込んできたのです。それは、根元からすっかり枯れておりました。

 唖然とした弟子たちは、イエス様のお顔を凝視したことでありましょう。いったい、これはどういうことなのか。イエス様のお言葉一つでこの木が枯れてしまったということなのか。イエス様のお言葉の一つ一つに、そんなに大きな力があるのならば、一時の感情でその言葉が発せられてはなりません。では、このいちじくに対する言葉はどうだったのでしょうか。イエス様にしてはあまりにも短気だったのではないでしょうか。そんな割り切れない気持ちを胸に秘めながら、弟子たちは、イエス様にさりげなく説明を求めます。

 「先生、ご覧下さい。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」

 イエス様は弟子たちにお答えになりました。しかし、それは「ああ、そうだったのか」とすぐに納得させられるようなお答えではありません。イエス様は、「神を信じなさい。祈りが聞かれることを信じなさい。」と、信仰について弟子たちに語られたのです。これが、どうしていちじくの木に対する答えなのか。そのことを、今日はご一緒に考えてみたいと思うのです。
食い物の恨み
 まず、事の発端でありますが、それは12節に「イエスは空腹を覚えられた」と書いてあります。それでいちじくの木に近寄られたのですが、実がなかったので、イエス様は腹をお立てになってこの木を呪い枯らしてしまったというのです。つまり、イエス様がこの木を枯らしてしまったのは、食い物の恨みだったと書かれているのです。

 「食い物の恨みは恐ろしい」と言います。それは貪欲で、飢えて飽くことを知らない人間の意地汚さを、浅ましさを言い表した言葉だろうと思うのです。しかし、本来、飢えというのは命あるものが必死になって生きようとする生命力の源でもありまして、美しくもあるものなのです。

 こんな話を読んだことがあります。ある方が、炊事場で犬を飼っていたのです。それが五、六匹かわいらしい子犬を生みました。その子犬たちは、その方が洗面器に残飯を入れて置いてやると、重なり合うようにして洗面器に頭をつっこみ、ガツガツと残飯をむさぼり食うわけです。それを見て、その方はこういうのです。「その子犬が食物を奪い合う状態というのは、非常に美しいんですね。ぼくはシベリアではあまり涙を流すことはなかったんですけど、涙が出てしょうがなかった。人間が飢えて、食物を奪い合うと、あんなに醜いのに、なぜうつくしいのかと思った。そんなところから、ぼくは動物の方が自然で、人間は最初から不自然なんじゃないかという気がしたのです」

 これを読んで、私も「そうだなあ」と思いながら、あることを思い起こしました。私の実家のすぐ裏手にはそんなに大きくはないのですが、鮎やウナギも獲れる瀬戸川という川が流れているのです。夏休みをいただいて実家に帰った時には、子供たちとこの川で泳いだり、魚を捕ったり、バーベキューをしたりしてよく遊びます。ある夏、この川に鮎が特に多く見られて、地元の子供たちもタモを振り回しながら必死になって鮎を追いかけていました。上手な子供は二十匹ぐらい捕まえて得意げです。

 我が家の子供たちは一匹も捕れないのですが、地元の子供らに混じって一生懸命に鮎を追いかけておりました。すると、そこに数人の大人がやってきて、子供たちが遊んでいるその場所に投網を投げて一網打尽に鮎を捕り出したのです。それを見て、私はなんだかとても嫌な気持ちになったのであります。

 動物が必死になって生きようとし、食物を奪い合ったり、蓄えたり、時には殺したりしても、私たちは、それを醜いとか、汚いとか感じないのです。むしろ、その営みに生きようとする力強さを感じ、生命の尊さをも感じるのではないでしょうか。ところが、人間が食物を奪い合ったり、蓄えたり、そのために殺生をしたりすると、何か非常に罪深いものを見るような嫌な気持ちにさせられる。それはいったいどうしてなのでしょうか。

 私は、それは人間が不幸だからではないかと思うのです。不幸というのは精神的な飢えです。動物はお腹が空いていても不幸だとは思わないでしょう。ただ食物が欲しいと思うだけなのです。そして、無心に食物を求めて生きる。それは決して哀れなものではありません。むしろ、何度も言うように生きる力強さを感じるのです。

 ヘレンケラー女史は目が見えず、耳が聞こえず、肉体的には非常に大きなハンディ・キャップを持っていました。彼女は「障碍は不自由ではあるが、決して不幸ではない」と言います。肉体的には欠けを感じるけれども、精神的には満たされているというわけです。そういう彼女の生き様というのは、非常に激しい戦いの人生だったと思うのですが、決して彼女を惨めで可哀想だとは感じないのです。むしろ、多くの人たちを感動させ、私たちに勇気を与え、生きる力を与える人生なのです。

 精神的な飢えと肉体的な飢えは、本来、次元が違うことです。ところが、それが重なり合って渾然一体となってしまうから、飢えた人間が惨めったらしくなったり、哀れっぽくなったり、意地汚くなったりしてしまうのではないでしょうか。お腹が空いたから食べ物が欲しいと思うだけではなく、どうして私はこんなに貧しいのだろう、どうして私にはあの人のようにおいしいものを食べることができないのだろうと、不幸を嘆き、人の不幸をうらやんだりするから、惨めになってしまうのです。
メシアの飢え
 ところで、イエス様は飢えのゆえに、いちじくの木を呪って枯らしてしまったというのです。このことについて書物を調べますと、色々な説明がありました。たとえば、季節はずれであっても年を越した実が残っているということはしばしばあることで、イエス様はそのようなことをいちじくの木に期待されたのであると書いてある本もありました。あるいはまだ熟していなくても、青い実の一つや二つがなっていてもおかしくないのに、それさえ一つもなかったのがこのいちじくの木なのだ、という説明もありました。イエス様が、季節はずれのいちじくの木に実を期待したことが、決して的はずれではなかったのだということを、なんとか弁明しようとしているのです。

 しかし、それにしたって枯らすことはないではないかと、それはやりすぎではないかと、正直、私などは考えてしまいます。やはり、これは食い物の恨みとしか言いようがないのです。単なる肉体的な飢えであるならば、食べ物がなかったからといって呪ったりはしないのです。食べ物以上のものを、もっと精神的な満たしを、イエス様は求めておられたのです。はっきりと言えば、つまり、イエス様もまた、呪いの言葉を吐きたくなるような大きな不幸を背負っておられたのです。

 イエス様は救い主です。神様です。それなのにイエス様は不幸だったと言うのかと、不思議に思うかもしれません。しかし、救い主だからこそ、イエス様は不幸を感じておられたと、私は思うのです。イエス様は三年間、一生懸命に神様の救いを伝えてきました。寝食を忘れて、病める人々を癒し、罪人を訪ね、神様の愛を世に現してきました。そのイエス様のお働きの物語が、あと一週間で終わろうとしているのです。イエス様は、明らかにそのことを予想し、自覚して行動をしておられます。しかし、このように時が迫ってきても、神を畏れず、悔い改めない多くの人々や、神を見失い、望みなく生き意気阻喪している人々が巷に溢れているのです。

 それは、すなわちイエス様の不幸です。イエス様は救い主であるからこそ、そして神様であるからこそ、そのことに胸を痛め、悲しみ、また苛立ち、怒りをさえ感じておられたに違いないのです。もし、彼らがこのまま滅んでいくとするならば、メシアであるイエス様の不幸なのです。

 先週、宮清めのお話をしました。イエス様は、神礼拝の中心であるエルサレム神殿が強盗の巣になっていると烈火のごとくにお怒りになりまして、境内で商売をしている人々の机や腰掛けをひっくりかえし、売り物であった犠牲用の牛や羊を縄の鞭で追い散らされました。イエス様らしからぬ荒々しい御業でありますが、これもまたイエス様の不幸からかもし出された御業だと言えます。神殿が強盗の巣になっているとはどういうことか。それは先週お話ししましたように、神様がないがしろにされているということです。神様を恐れていないから、神殿で神様の御旨に反するようなことは平気で出来るわけです。その悲しみ、その失望が、荒々しい宮清めという出来事になって現れたのです 
いちじくの木
 みなさん、私が言わんといていることは、イエス様の「実をつけないいちじくの木のたとえ」を思い起こされると、もう少しはっきりとご理解いただけると思うのです。これは『ルカによる福音書』13章6-9節に記された短いたとえ話でありますが、今日のところを合わせてみると読んでみると、皆さんにもきっと心にぐっと来るものがあるだろうと思います。

 「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカ13:6-9)

 いちじくの木は、イスラエルを表すのによく使われる喩えです。このいちじくの木の持ち主は神様であり、それを育てている園丁はイエス様のことです。ところが、三年も世話をしているのに一向に実をつけようとしないいちじくの木にしびれを切らせて、神様は園丁に、つまりイエス様に、切り倒してしまえと命じるのです。

 三年というのは、イエス様の公生涯と重なる年月です。イエス様は三年、一生懸命にイスラエルが実を結ぶように、神様の喜びを満たすいちじくの木となるように、伝道をなさってきました。ところが、まったく実をつけないので、もう切り倒せという厳しい裁きの言葉がくだってしまうのです。

 しかし、園丁は諦めませんでした。「ご主人さま、一年だけお待ち下さい。あと一年、わたしは今まで以上に懇ろにこのいちじくの世話をいたしますから、肥料もいつもより余計にやってみますから」と、頼み込むのです。この園丁の気持ちこそ、イエス様のお気持ちだったのです。そういうせっぱ詰まった思いをもって、イエス様はイスラエルを愛し、祈り、教えてきたのです。

 ところが、イエス様のご生涯の最後の一週間においても、イスラエルはまったく悔い改めず、実を結びません。その現実が、イエス様にどれほど大きな悲しみと不幸をもたらしたことでありましょうか。

 その日の朝も、イエス様は不幸なる救い主として、気を重くしながら、しかし最後の最後まで愛し抜き、自分の救い主としての務めを果たし抜こうという決意をもって、エルサレムに向かっておられましたに違いありません。すると、空腹を覚えられた。これは単純に肉体的な飢えでありますけれども、みると青々と葉の生い茂ったいちじくの木がありました。そのいちじくの木を見た途端、イエス様の肉体的な飢えと精神的な飢えは重なり合ってしまったのだと思うのです。いちじくの木は、イスラエルを表す木であったからです。

 イエス様は、いちじくの木に実があることを期待して、お近づきになりました。いちじくの木に実を探すイエス様のお気持ちの中には、イスラエルといういちじくの木に、ご自分の働きの実をお探しになるような思いが重ねっていたのではありませんでしょうか。もし季節はずれのいちじくの木に、一つでも二つでも実があれば、どんなにイエス様の心は慰められたことでありましょうか。しかし、イエス様の淡い期待は外れました。ある意味では予想通り、いちじくの木には一つの実もなっていなかったのです。それがイスラエルの現実であったのです。

 イエス様は、このとき、預言者エレミヤが神殿で預言した言葉を思い起こされたかもしれません。

 「わたしは彼らを集めようとしたがと
  主は言われる。
  ぶどうの木にぶどうはなく
  いちじくの木にいちじくはない。
  葉はしおれ、わたしが与えたものは
  彼らから失われていた。」(エレミヤ8:13)

 「娘なるわが民の破滅のゆえに
  わたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。
  ギレアドに乳香がないというのか
  そこには医者がいないのか。
  なぜ、娘なるわが民の傷はいえないのか。
  わたしの頭が大水の源となり
  わたしの目が涙の源となればよいのに。
  そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう
  娘なるわが民の倒れた者のために。」(エレミヤ8:20-23)

 実をつけないいちじくの木に対する呪いは、イエス様のイスラエルに対する悲しみと失望から来たことだったのです。この悲しみと失望は、イスラエルの愛の深さから来る裏返しの感情でもあります。実をつけていないいちじくの木と、実を結ばないイスラエルが重なってしまうほどに、イエス様はイスラエルを愛し、イスラエルの救いことばかりを思い、最後の一週間を過ごしておられたということなのです。
信じれば、山は動く
 イエス様が呪われたいちじくの木は、よく朝、根元からすっかり枯れていました。弟子たちは、それを見て、イエス様が呪い枯らしてしまったのだと思ったのです。どうして、イエス様はこんなことをなさったのだろうか。酷いではないか。そのぐらいのことを思ったかも知れません。

 しかし、私は、イエス様は、このいちじくを枯らしてしまおうなどいう気持ちは毛頭無かったのではないかと思います。ただ、イエス様は実をつけていないいちじくの木に、自分の懸命な伝道の働きにも関わらず、実を結ばないまま切り倒されて滅びてゆくイスラエルの姿が重なってしまった。今までは「あと一年お待ち下さい」という気持ちで頑張ってきたけど、やっぱり駄目なのではないかと、一瞬、イエス様の心に絶望が起こったわけです。すると、その思いが、そのまま現実のいちじくの木に反映されてしまったのです。

 心にあることが現実に反映されるということは、私も経験することです。よく言われるのは、「病は気から」ということです。気に病んでいると、本当に病気になってしまうということがあるのです。実は、このようなことは病気だけではなく、心に悪いことを描いていれば、現実にも悪いことが起こり、心に良いことを描いていれば、現実も良い方向に向かっていくということが、私たちの人生にもあることなのです。イエス様の場合、心に描かれることは私たちには想像もつかないほど純粋で、神様に直結していますから、イエス様がいちじくの木を見てイスラエルの滅びを心に描いてしまった途端に、いちじくの木が枯れてしまうというような、ちょっと考えられないようなことが起こったのです。

 それは、イエス様にとってもハッとさせられることだったに違いありません。イスラエルが滅ぼされる姿を心に描いた途端に、現実のいちじくの木が枯れてしまったというのならば、その逆も起こるはずです。聞いても聞かず、見ても見ようとしない、本当に強情な人間がいます。今後二度と実を結ぶなんていうことはあり得ないのではないかと思うような人間がいます。そういう人々の滅び行く姿を描くのは簡単なのです。しかし、そういう人たちがいつの日か、神様の子どもらとして生まれ変わり、天の子らと共に神様の御名を誉めたたえるような人間になるということを思い描くのは難しい。しかし、難しくても何でも、神の為し給うことに望みをかけ、その救われる姿を思い描いてしっかりとした希望を持ち続けるならば、それもまた現実に反映されていくのではないか。イエス様は、そのように御自分を奮い立たせられたのではないかと思うのです。

 これは、少し特殊な解釈でありますが、そう考えますと、弟子たちに対するイエス様のお言葉の意味が本当によくわかってくるのです。

 「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

 これは、イエス様ご自身が、枯れたいちじくの木の啓示から受けとめたことだと言ってもいいのではないでしょうか。三年の働きは何一つ実を結んでいない。それどころか、彼らはますます心を頑なにして、自分を殺そうとしている。そのことが、イエス様の大きな不幸として心にのしかかってきているのですが、それにも関わらず、この不幸を背負って、なお彼らを愛し抜こう、彼らの救いを信じ抜こう、その信仰に立とうと、イエス様がご自身を奮い立たせられた信仰が、ここに言い表されているのだと思うのです。

 まず、「神を信じなさい」とあります。意外に思うかもしれませんが、聖書の中で「神を信じなさい」と言われるのは珍しいことなのです。このように言われているのは、聖書全体の中で、ここと、ヨハネ14章1節の二カ所だけです。普通は、「信じなさい」ということだけが言われているのですね。イエス様も、「恐れることはない。ただ信じなさい」と仰いました。わざわざ「神様」と言わなくても、分かっていることだからそれでいいのです。

 しかし、ここでは「神を信じなさい」と言われました。ことさら「神様を」ということは強調されているのは、信仰、信仰と言っても、結局は自分の力を信じていたり、他人の力を信じていたり、この世の常識にとらわれていたりしてしまうことがあるからなのです。そうすると、神様を信じていても、こればっかりはどうにもならないのではないかという絶望が起こります。それではいけないのだと、イエス様はおっしゃるのです。

 神様を信じるとは、「神様への信仰を持つ」という意味と同時に、「神様の信仰を持つ」という風に理解できるのです。つまり、神様が心に描くことを、私たちもそのまま心に描くということです。神様が私たちのために約束してくださっていることを、たとえどんなことがあっても信じ通すということであります。そういう信仰があれば、「山は動くのだ」とイエス様は仰ってくださったのでした。

 山を動かすというのは、実のならないいちじくの木に実を結ばせることよりも桁外れに難しいことです。いちじくならば、三年で無理でも十年、二十年と研究を重ね、努力を重ねれば実をつけるようになるかもしれません。しかし、山を海に移すというのは人間の努力では絶対にできないことなのです。けれども、神様がそれをなさると約束なさっているならば、神様を信じ、あなたも山が海に移ることを心にしっかりと思い描いて祈り、また人生を生きていきなさいということなのです。そうすれば、動かないはずの山も、必ず動くのだということであります。

 私たちは、よく「死んでしまったらおしまいだ」と言います。イエス様も、自分が死んでしまったら、イスラエルの救いはどうなるのかと、心配されたのかもしれません。しかし、この時、イエス様はたとえ自分が殺されようとも、神様の御旨は必ず実現していくのだと信じられたのだと思うのです。そして、十字架への道をまた一歩、前進して行かれるのです。
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