宮清め(月曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書11章15-19節
旧約聖書 申命記16章1-17節
呪われたいちじくの木
 前回は、イエス様がロバの子に乗って、大勢の群衆の歓声に包まれながら、エルサレムに入城されたというお話しをいたしました。これは、イエス様のご生涯の最後の一週間(受難週)の最初の日にあたる日曜日の出来事でありました。この日、イエス様はエルサレムに入られますと、神殿の境内の様子を静かにご覧になります。そして、夕暮れになりますとエルサレムを離れ、近郊のベタニヤ村に宿を取られたのでした。

 今日はその明くる日、月曜日の出来事です。イエス様とお弟子さんたちはベタニヤ村で一夜を過ごしてから、再びエルサレム神殿にお出かけになりました。ところが、その道行きでちょっと首を傾げるようなおかしな出来事があります。少しお腹が空いておられたイエス様は、ちょうどいちじくの木があるのをご覧になって、その実を食べようとされたのです。しかし、そのいちじくの木は葉っぱばかりで、実が一つもありませんでした。イエス様はたいそう機嫌を悪くされ、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と、いちじくの木を呪われたというのでした。

 何ともイエス様らしからぬ短気な振る舞いでありますけれども、このことについては、次週、後日譚を含めて少しお話しをしたいと思います。今日は、イエス様が再び神殿の境内にいらっしゃってたいへん荒々しいことをなさった、「宮清め」というお話からいろいろと考えてみたいと思うのです。
神殿礼拝
 折しも一年で最も盛大に祝われる過越の祭りの時期であります。ある書物にはユダヤ全土ばかりではなく、ヨーロッパや、アフリカや、中央アジアなどからも数十万とも百万ともいう巡礼者たちがエルサレムに集まってきて、神殿にお参りしたということであります。

 日本にも色々なお祭りがありまして、そういう時には大勢の人たちが、神社にお参りをいたします。特にお正月には、日本中の人がこぞって、そこかしこの神社に初詣に参ります。こういう人たちは皆、神様にお願いをするためにお参りをするのでありましょう。

 毎月四のつく日は、巣鴨のとげぬき地蔵の縁日でありまして、四日、十四日、二十四日には、この辺からも多くの人が都電に乗ってお参りに行くようです。私も、お参りではなく、見物に行ったことがありますが、子供ぐらいの背丈の観音像がありまして、頭とか、足とか、病気を治してもらいたい部分を洗うと御利益があるのだそうです。どの程度信じているのかは分かりませんが、たくさんの人がその順番を待って、観音様の前に並んでいました。

 西新井大師にも見物に行ったことがあります。平日だというのに大勢の参拝者が来ているので驚きました。西新井大師の場合は、お護摩と言って、やはり交通安全とか、厄除けとか、色々な願い事をお祈りしてくれる行事が毎日のように行われていまして、そのために人が集まっているのです。

 このように、日本で神様をお参りすると言いますと、必ずそこに人間の願い事ということがあるのです。病気を治して欲しい、交通事故にならないように守ってほしい、商売がうまく言って欲しい、勝負事に勝ちたい、こういう人間の様々な願い事をかなえてくれるのが神様の役目なのです。

 ところが、エルサレム神殿に参拝に来る何十万とも百万とも言われる巡礼者たちの目的は、これとはまったく正反対でありました。彼らは、神様を喜ばれる捧げ物をしようと神殿に来ていたのであります。

 今日、合わせてお読みしました旧約聖書の『申命記』16章には、過越の祭りを含めたユダヤの三大祝祭日について書かれておりました。ユダヤには過越祭(除酵祭)、七週祭(五旬節)、そして仮庵祭と、年に三度の大きなお祭りが祝われたのです。そして、これらのお祭りで最も大切なことは、捧げ物をもって、神様の御前に出て行くことだと言われているのです。16-17節を、もう一度読んでみましょう。

 「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。」

 神様を礼拝するということは、神様が定められた時に、神様の定められた場所で、心から捧げ物を携えて神様の御前に進み出ることなのです。
礼拝の精神
 私たちはよく「礼拝を守る」という言い方をします。「礼拝をする」、「礼拝に行く」など色々な言い方をしても良いと思いますが、「守る」という言い方には、礼拝の精神がよく表されているのです。たとえば『申命記』16章1節には、「アビブの月を守り」と書いてあります。礼拝は、神様の人間に対する教えとして、大切に守り続けなくてはならないものであるということが、「守る」という言葉にはあるのです。

 この「守る」という精神がなくなりますと、礼拝は堕落します。礼拝に行きたいとか、行きたくないとか、礼拝に行けるとか、行けないとか、神様を中心とした礼拝ではなく、人間の都合や気持ちで礼拝したり、しなかったりということになってしまうのです。

 いつでも、どこでも神様を礼拝できるということも、一つの恵みです。しかし、だからといって、自分の都合に合わせて礼拝をしてもいいということではないのです。礼拝は人間の求めではなく、神の求めでありますから、神の定められた時に、神の定められた場所で礼拝を守るということによって、私たちが神を神として生きていることの、そして、私たちが神の民であることの証しとなるわけです。

 教会が毎週日曜日の朝ごとに、夕ごとに礼拝を守るということもそうであります。これは決して人間の都合で決めることではありません。日曜日の朝というのは、マグダラのマリアが復活の主にまみえた記念の時であります。その同じ日の夕、エマオで二人の弟子が復活の主にまみえました。この記念として、私たちは日曜日の朝ごとに夕ごとに、復活の主、今も生ける主の証し人として礼拝を守っているのです。ですから、私たちが主に救われし主の民である限り、復活の主の証しとして、日曜日ごとに、その朝に夕に、礼拝を守り続けるべきものなのです。

 「捧げ物をする」ということも、同じ意味であります。聖書には、必ず捧げ物を携えて礼拝をしなければならないとありますが、神様がそう仰るのは、決して欲張りだからではありません。神様が求めておられるのは、本当のところ私たちの心なのです。私たちの心が神様と共にあることです。そして、神様の愛していることです。それゆえに神様を喜び、罪を憎み、神様の前に清くあろうとする心に満ちていることなのです。申命記17章1節にはこう記されています。
 
 「いかなる欠陥であれ傷のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主のいとわれることである。」

 病気や傷ついた動物を捧げ物としてはいけないというのです。これも、神様が私たちに心を求めておられるがゆえの掟なのです。自分のためには良いものをとっておいて、神様にはどうでも良いものを持っていくという心では、とても神様に喜ばれる者にはなりません。

 ダビデは『詩編』の中でこのように歌っています。

「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩編51編18-19節)

 パウロもまた、『ローマの信徒への手紙』の中で、このように述べています。

 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12章1節)

 神様が求めておられるのは、動物とか、穀物とか、献金とではなく、私たちの宝を、私たち自身を、神様への捧げ物とする心なのです。この心をもって、神様の御前に出ていくことなのです。それが礼拝の精神なのです。
宮清め
 さて、イエス様が神殿にいらしゃった時、そこには過越の祭りを祝う大勢の巡礼者が、ユダヤ全土から、また世界各地から集まっておりました。この人たちは、今申しましたように、神様に喜ばれる捧げ物をするために来たのであります。本来でしたら、皆自分の家から捧げ物の家畜を携えて、参拝に来るところでありましょう。しかし、それではたいへんな苦労が伴います。しかも、せっかく傷のない健康な家畜を連れてきたのに、長旅の途中で病気になったり、怪我をしたりするアクシデントが起こらないとも限りません。そういう心配をなくし、巡礼者の便宜を図るために、神殿の境内では検査済みの羊や鳩を売る店が出ていたのであります。

 両替商などというのもありました。神殿で捧げる献金はユダヤ貨幣に限られていました。それに対して、普段生活で遣っているお金はローマ貨幣でありましたので、それをユダヤ貨幣に両替してから、献金をしなければならなかったのです。たいへん面倒ですが、そういう面倒を少しでもなくすために、神殿には両替商が店を出していたのでした。

 いずれにしても、こういうお店というのはたいへん便利なものでありますし、長年の習慣として何の疑問もなく行われていたのでありました。ただ、これらのお店にはそれだけではないものがありました。たとえば、神殿当局は、これらの商人たちから所場代を取って儲けていましたし、お店にしてもボランティアではありませんから、しっかり儲けていたのです。

 私と家族は、この夏も10日間の夏休みをいただき、帰省したおりに浜名湖の花博に行って来ました。広大な土地に素晴らしい花壇がいくつも広がっていて、見応えのある素晴らしい博覧会でしたが、昼食ではひどい目に遭ってしまいました。具のないカレーライスが650円もしたり、たいしておいしくないピザトーストが800円もしたり、だいだいこのような場所では高めに値段がつくのは仕方がないにしても、ちょっとひどすぎる代物だったのです。食べた後で、「お弁当を持ってくればよかった」と後悔しましたが、こういうお祭りの場所ではそんな物が売られてしますし、ついそんなものを買ってしまうことがあるわけです。

 エルサレム神殿はどうだったのでしょうか? 書物で調べますと、両替の手数料は十分の一から六分の一を取られたそうです。鳩の値段も、宮の外で買うよりも十五倍の値段がしたと書かれていました。巡礼者たちは、ずいぶん高いなあと思いながら、それでも神様への捧げ物にケチケチしていたら罰があたるのではないかと、巡礼者たちはこの日のためにためて置いたお金を、黙って彼等に支払っていたのではないでしょうか。私も、よっぽど花博の売店に文句を言ってやろうかと思いましたが、子供たちの手前もありますし、ちょっと我慢すれば済むことですから黙っておきましたが、エルサレム神殿の巡礼者たちも同じだっただろうなと思うのです。

 しかし、イエス様は違いました。

 「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。」

 追い出したとか、机や椅子をひっくり返したとか、通せんぼをしたとか、柔和で優しいイエス様のイメージが覆ってしまう荒々しい御業でありますが、これが「宮清め」と言われている出来事なのです。 
強盗の巣
 イエス様は、どうしてこんなに荒々しいことをなさったのでしょうか。色々と問題があったと思うのです。たとえば「鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された」とあります。他にも牛や羊を売る人もいたのです。しかし、鳩を売る者がとくに大勢いたようであります。

 鳩というのは、本来は羊や牛を捧げなければならないところを、貧しい人々のために特別に定められた例外的な捧げ物でした。先ほどの『申命記』には、「鳩」とは書いてありませんでしたけれども、「主から受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい」とありました。牛や羊を捧げ得ない貧しい人々も、すべての人々が神様から与えられたものに応じて神様への捧げ物をするようにと教えられているのです。

 実際、神殿での捧げ物は、羊や牛よりも、鳩の方がずっと多かったのだろうと思います。それに応じて、鳩を売る者もたくさんいたわけです。ところが、彼らはこういう貧しい人々が精一杯の捧げ物をしようとするときに、法外な値段で売りつけ、暴利をむさぼっていた。これは、貧しい人々に対する神様の御心を損なう忌まわしい悪行であったといえましょう。

 また、イエス様が神殿の境内から売り買いしている人を追い出されたり、彼らが境内の中で荷物を運んだりすることすらもお許しにならなかったということが言われています。このようなところを読みますと、値段だけではなく、境内という場所にも問題があったことが分かるのです。

 エルサレム神殿の境内というのは一つではなくて、何重にも重なっていました。一番中心に本殿と言いますか、聖所があるわけです。その前庭に動物を捧げる祭壇があるわけです。そこは「イスラエルの庭」と言いまして、イスラエル人の、しかも成人男子だけに入ることがゆるされた境内でありました。その外には「婦人の庭」がありまして、イスラエルの婦人がもっとも聖所に近づけるのは、この庭でありました。さらにその外にかなり広めの「異邦人の庭」がありました。その名前からも分かりますように、異邦人でユダヤ教に改宗した人たちが礼拝する場所でありました。あるいは異邦人と同じように、体に障害を持つ人などもここで礼拝をすることになっていました。

 イエス様がひっくり返されたいろいろなお店が並んでいたのは、この「異邦人の庭」にあったのです。それは異邦人たちの祈りの場所である「異邦人の庭」が、騒々しい市場となってしまっていたということなのです。これもまた神様の御心を損なう大きな悪行であったと言えましょう。

 イエス様は、「あなたたちは神殿を強盗の巣にしている」と厳しくお叱りになったわけですが、貧しい人々から暴利をむさぼるやり方、そして異邦人や障害者の祈りの場所を占領して商売する有様は、強盗的だと言って良いでありましょう。

 しかし、私は「強盗の巣」という言葉にはそれ以上に、もっと不気味な意味があると思うのです。「強盗の巣」というのは、強盗にしてみれば一番安全な場所、一番気兼ねない場所、強盗が伸び伸びと過ごし、昼寝ができる場所、それが強盗のマイホーム、「強盗の巣」なのです。それは、また「神がそこにいない」ということをも意味しているのではないでしょうか。

 神殿というのは、まさしく神様がいます所です。神様がそこに住んでいるという意味ではありませんが、神様の御名が置かれた場所であり、神様に近づくために人々はそこに集うのです。だとすれば、神殿は、一番悪いことができない場所、罪人や悪人や強盗が、もっとも居心地の悪い場所、最も近寄りがたい場所であるはずです。しかし、逆に強盗の巣になってしまっている。そこには神への恐れもなく、神への畏れもないということなのです。イエス様の激しい怒りというのは、その事に対するものだったのです。

 私は、神殿の中にお店があっても、多少他より高めであっても、それ自体がそんなに悪いことだと思いません。やはり厳しい規定のある捧げ物は自分で用意するよりも現地で調達した方が安心ですし、便利なのです。また、そのようなお店をしている人たちも生活があるのですから、正当な範囲で儲けを出すということも必要なことでありましょう。しかし、そこに神様が忘れられてしまうと、神殿が神様に仕える場所ではなく、商売の家になったり、強盗の巣になったりしてしまうわけです。

 たとえば、荒川教会でも礼拝者の便宜、特に新来者や未信者の便宜を払って、備え付け聖書を置いています。聖書というのは案外重たいものですから、お年を召された方や、遠方からいらっしゃる方、あるいは体の弱い方には結構な負担となります。しかし、みなさんが、教会に聖書があるから持ってこなくても良いという安易な考えを持ちますと、果たして聖書を神の言葉として大切にする精神を損なうのではないかと心配もいたします。また、本来遣っていただきたい方のための聖書がなくなってしまうという心配もあります。すべての人が一緒に礼拝を守るために様々な便宜を図ることは非常に大切なことですし、神様への奉仕にも通じると思うのです。しかし、その心を忘れてしまいますと、礼拝の精神が損なわれる方向に流れてしまうわけです。

 教会のバザーもそうです。バザーというのは神様への奉仕でありますし、近隣の方々や家族、友人たちを教会にお招きする間接的な伝道でもあります。しかし、その一方で、バザーの時は、教会で売り買いがなされるわけで、教会が商売の家になってしまうのではないかと恐れもあるのです。そこで私たちが必ず忘れてはならないのは、神様が中心であるということなのです。

 教会は神殿とは少し違うところもありますけれども、神様が定められた時に、定められた場所において、神様を礼拝する者たちがそれぞれ自分を神様への捧げ物として集う場所であります。礼拝だけではなく、奉仕や交わりも含めて、何をするにせよ、何をしないにせよ、その神様を中心とした精神、神様にお仕えするという心を一番に守って行かなくてはならないのです。それが失われた時、教会もまた神様ではなく、人間のドロドロとした思いだけが渦巻く汚らしい場所、神を恐れぬ強盗の巣になってしまうということを、私たちは忘れないようにしたいと思うのです。 
祈りの家
 イエス様は、そのように神を忘れた神殿に、「わが家は祈りの家と称えられるべし」と高らかに宣言されて、両替商の机をひっくりかえし、鳩売りの腰掛けをひっくり返し、あるいは別の『ヨハネのよる福音書』によれば、縄の鞭をつくって振り回し、羊や牛を境内から追い出して、ここに神がいますことを、神の裁きがあることをお示しになったのであります。

 それにしても、イエス様も乱暴なことをなさるなと思いますけれども、清めるということは非常にたいへんなことであり、エネルギーがいることだと思います。私の書斎も散らかすのは簡単で、ほっといても散らかってしまいます。しかし、ほっといても片づくと言うことは絶対にありません。

 先日、息子の夏休みの自由研究を手伝っておりました。電子工作をやりたいというので、息子と一緒に秋葉原に行って部品をそろえ、ハンダこても買ってやったのです。ところがうまく行かないものですから、ハンダ付けした部品を取り外すことにしました。ところがハンダ付けが割と簡単なのに対して、一度ハンダづけしたものを取り外すというのは実にたいへんなのです。専用の用具をつかってハンダを一つ一つ丁寧に吸い取りながら外して行かなくてはなりません。このように清めるということは、汚すことの何倍、何十倍ものエネルギーが必要です。まして、人間の心を清めるためには、本当に大きな忍耐と力が必要なのです。

 みなさん、私たちの心も同じでありまして、私たちの心は神の宮であると聖書に言われているのですが、何もしないで放っておけばどんどん、どんどん余分なもので散らり、汚れていくのです。そして一度汚れてしまったものを取り除くというのは、ハンダを取り除くよりも困難なことでありまして、はっきりいえば人間の努力や熱心ではどうすることもできず、神様の偉大な力をもって以外にどうすることもできないと言って良いのではないでしょうか。

 つまり、私たちにもイエス様の飴と鞭が必要なのです。飴はもちろん必要ですが、それだけではなく、時には厳しい鞭をもって叱咤され、激励され、清めていただくということが必要なのです。

 両替商の机がひっくり返されたように、私たちの仕事机がひっくり返されるようなことがあるかもしれません。鳩売りの腰掛けがひっくり返されたように、私たちの座り込んでいる椅子が倒されることがあるかもしれません。鞭で、羊や牛が追い払われたように、私たちの財産が奪われるかもしれません。しかし、このようなイエス様の厳しさは、決して私たちを滅ぼすためではなく、もう一度、私たちに幸せな祈りの時間と場所とを与えてくださるためなのです。私たちがイエス様と共にいまし、イエス様が私たちと共にいてくださる、そのような喜びに満ち、感謝に溢れた日々をお備え下さるためなのです。

 そのことのようなイエス様の愛を思って、神様を恐れつつも、どうぞ清めてくださいと祈る者になりたいと思います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp