エルサレム入城(日曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書11章1-11節
旧約聖書 ゼカリヤ書9章9-10節
最後の一週間
 今日からは、いよいよご生涯の最後の一週間の学びに入ります。イエス様はこの最後の一週間をエルサレムでお過ごしになりました。最初の日は日曜日で、イエス様はロバの子の背に揺られながらエルサレムにお入りになりました。そして、そのままエルサレム神殿の境内に進んで行かれますと、しばらく辺りの様子をうかがってから、ベタニア村に引き返され、そこで一夜をお過ごしになったのであります。これが今日お読みしましたところですが、このことについてお話しをする前に、イエス様の最後の一週間というものを、もう少し続けて眺めてみたいと思うのです。

 明くる月曜日、イエス様は再びエルサレム神殿に姿をお見せになりました。そして、「宮清め」と言われておりますが、神殿で店を開いて利益をむさぼっている人たちに「わたしの家を強盗の家にするな。わたしの家は祈りの家と称えられるべきなのだ」と、彼らをきつく叱って、神殿から追い出されたということが言われています。

 次の火曜日は「論争の日」とも言われています。エルサレムの宗教指導者たちが、なんとかイエス様の尻尾を掴んでやろうと思って、様々な難問珍問をイエス様にぶつけてくるのです。もちろん、イエス様のお答えはいつも完璧でありまして、彼らはぐうの音も出ないままイエス様のもとを立ち去って行かざるをえませんでした。またこの日、イエス様は終末についての説教もなさっています。

 論争というのは心身共にお疲れになるでありましょう。明くる水曜日、イエス様はエルサレムに行かずにベタニア村で一日ゆっくりとお過ごしになります。この日、ベタニア村のマリアがイエス様に高価なナルドの香油を注ぐという出来事があり、イエス様はこれを「わたしの葬りの用意をしてくれた」とたいそう喜ばれたということも記されています。しかし、このつかの間の平和の中にも、驚くべき、悲しむべき出来事が起こります。十二弟子の一人であるイスカリオテのユダはこの日、こっそりとエルサレムに赴き、祭司長たちに会って、銀貨30枚でイエス様を彼等に引き渡すことを約束したのでした。

 次の木曜日は、イエス様は弟子たちと過越の祭りの食事をなさいました。それが最後の晩餐ともなりました。そして、この食事の後、イエス様はゲッセマネの園に行かれ、血の滴るような汗を流して、「父よ、できるならばこの杯を私から取りのけてください」と祈られたのでした。ちょうど、その祈りが終わった時であります。裏切りの者のユダが、祭司長たちを引き連れて、イエス様のもとにやってきました。そして、イエス様は捕らえられ、そのままユダヤの法廷に連れて行かれるのであります。

 取り調べは徹夜で行われました。そして、無理矢理にイエス様を神への冒涜者と決めつけると、今度は総督ピラトのもとに連れて行き、今度はローマへの反逆者としてイエス様を訴えます。ピラトは、これはユダヤ人同士の宗教問題だと理解して、イエス様を赦そうとするのですが、ユダヤ人たちが執拗に訴え続けるのでついに十字架刑を言い渡してしまうのでした。

 こうして金曜日の朝、イエス様はエルサレムの城壁の外にあるゴルゴダの丘で十字架にかかり、午後3時、ついに息を引き取られたのでした。イエス様が息を引き取られると、アリマタヤのヨセフが遺体の引き取りを申し出て許可されました。ヨセフは自分のために用意をして新しい墓にイエス様を葬ったのであります。

 次の土曜日は安息日で何事もなく静かにすぎてゆきました。そして新しい週の初めの日、日曜日の朝、マグダラのマリアがイエス様の墓に行ってみると、そこあるべきイエス様のご遺体が影も形もなく消えていたので非常に驚きます。いったいどうしたことかと途方に暮れていると、その時、マリアの背後から、「マリアよ」と呼びかける声がしました。マリアが泣きはらした顔をあげて振り向くと、そこには十字架にかかって亡くなれたはずのイエス様が生きて立っておられたのでした。

 これが、これから私たちが学んでいきますイエス様の最後の一週間と言われる一週間でありまして、エルサレムにおけるイエス様のご受難、死、そして復活の栄光ということが、この一週間に起こったのでした。

 イエス様のご生涯を伝える聖書の福音書は、この一週間に起こった様々な出来事をとても丁寧に伝えています。たとえば、『マルコによる福音書』は全部で16章ありますが、なんと11章からはすべてこの最後の一週間に関する記述となっているのです。三分の一が、この最後の一週間を伝えるために割かれているわけです。これは、『マルコによる福音』だけではなく、他の福音書もだいたい同じです。

 これはいったい何を意味するのでしょうか。イエス様のご生涯は33年間でありました。福音書は、この33年間のイエス様の誕生、成長、受洗、祈りの生活、またイエス様の説教、数々の奇跡、そして人となりというものを、それなりに伝えております。しかし、福音書が最も伝えたかったのは、イエス様の生き様よりも、イエス様の死に様であったということなのです。それは、イエス様が何のためにお生まれになったのか、何のためにお生きになったのか、何のためにお教えになったのか、そのすべての答えは、イエス様が何のために死なれたのかということにあるからなのです。

 そういう意味で、これからイエス様の最後の一週間を学ぶわけですけれども、ここからがイエス様のご生涯の意味やご生涯の目的というものが、いよいよ明らかにされてくるところでありまして、私どもも丁寧に聖書を読み、この一週間を学んで参りたいと思うのです。
ロバの子に乗った王
 さて、最後の一週間の最初の日、イエス様がロバの子にのってエルサレムに入城された時のお話をいたしましょう。前回、イエス様がエリコの町でザアカイの家に泊まられたというお話をしましたが、その後、いよいよイエス様はエルサレムに向かって真っ直ぐに旅を続けられ、エルサレムの直前にあるベトファゲベという村にさしかかりました。イエス様は、そこで弟子たちに一頭の子ロバを用意させるのです。

 弟子たちがロバを連れてくると、その上に自分の服をかけ、ロバにまたがって、エルサレムへの道を進み行かれたのでした。すると、イエス様に従っておりました大勢の群衆が、うゎーと一斉に歓声をあげ、自分の服を脱いで道に敷いたり、野原から葉のついた小枝(伝統的には棕櫚の枝とされています)を取ってきて道に敷いたりして、「ダビデの子にホサナ! 主の御名によって来る者に祝福あれ」と叫びながら、エルサレムまで練り歩いたというのであります。

 実は、三ヶ月ほど前、受難週の聖日(棕櫚の日)の礼拝で、私はこのエルサレム入城のお話をしました。その時の話の繰り返しになりますが、なぜ、イエス様はロバにのってエルサレムに入られたのかということについて、まずお話をしたいと思います。

 イエス様がロバにお乗りになると、その途端に群衆が非常に興奮して大歓声をあげたということが書かれていますが、それには一つの理由がありました。イエス様の時代からさらに500年も前にゼカリヤという預言者が、このような預言をしていたからであります。

「シオンの娘に告げよ。
 『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
  柔和な方で、ろばに乗り、
  荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

 「シオンの娘」とはエルサレムの雅号であります。500年の間、人々は、このゼカリヤの預言によって、主の御名によって来るまことの王が、ロバの子に乗ってエルサレムにきたるということを信じて待ち続けていたのであります。

 イエス様ご自身も、この預言を十分にご承知で、それを意識なさってのことだったと思いますが、わざわざロバの子に乗って、エルサレムに向かわれたのであります。そして、前に後ろにと従っていた群衆も、そのゼカリヤの預言が今、ここに成就したのだと受け止めて、歓声をあげたのでありました。

 しかし、どうしてロバなのでありましょうか。馬の方がすらりと背も高く、足も速く、威風堂々として、王様の姿も立派に見えると思うのです。けれども、ゼカリヤはあなたがたの王は馬ではなくロバに乗ってくるであろうと預言しました。そこにこそ、この世の王とは違う霊的な王の徴があると教えたのであります。

 第一に、ロバの背の低さこそ大事なことでありました。馬に乗った王様は、高い所から人々を見下ろす王様でありましょう。それは力で人々を支配することを意味しています。しかし、主の御名によってきたる王は、背の低いロバに乗って私たちと同じ高さに立ってくださる王であるということなのです。それは上から私たちを見下ろすのではなく、私たちと同じ目線に立って、私たちの友となっていくださる王様であることを、つまりは力ではなく、愛によって私たちを治めてくださる御方であるということを意味しているのです。

 第二に、ロバの足ののろさも大事なことであります。馬というのは足が速いのです。王様が乗る馬というのは、その中でも一番足が速い馬であろうと思います。その王様に従うためには、自分もまた足の速い馬にのっていなければなりません。王様についていくだけの力をもっただけが、王様に従うことができるのです。しかし、ロバに乗った王様は、歩みの遅い者、たとえば子供や、婦人や、老人や、障害者や、そういった力の弱い者と歩みを合わせて歩むことができる王様なのです。

 第三に、ロバは日常的な荷物を運んだり、農作物を運んだり、要するに平和な目的のために用いられます。馬に乗った王様は、言うなれば戦の大将であります。敵をやっつける王様です。しかし、テロに対する報復がさらなるテロを生みだし、それがまた新たな戦争を引き起こす今の世界情勢を見れば分かりますように、馬に乗って戦をする王様は決して平和をもたらすことはできません。

 ロバに乗った王様は、戦争はしません。では何をするかと言ったら、荷を負うロバのように、人の重荷を負うのです。人間にとって最も大きい重荷は何でしょうか。それは人間の心の中に巣くう罪であります。この罪のゆえに、人間は神なき望みなき者となっています。この罪のゆえに、人間は愛なく満足のない者となっています。絶望、憎しみ、自己嫌悪、貪欲、傲慢、虚栄からの塊となって、そこから逃れられない者となっています。そこから泥沼と化した争いも起こってくるのです。

 そこに平和をもたすためには、馬に乗った王様ではなく、ロバにのった王様こそが必要なのです。人の罪を責めて、断罪する王様ではなくて、自分を犠牲にして、罪の重荷をすべて自分の身に負って、人を赦す王様こそ、私たちに平和をもたらす王様なのです。

 このようなロバにのった王様が、あなたの王様であると、ゼカリアは預言したのでした。そして、イエス様はまさしくゼカリヤが預言したようなロバにのって王様です。それは単なるパフォーマンスとしてロバに乗ったという意味ではありません。これまで学んできましたイエス様のご生涯を省みるならば、イエス様はまさしくロバに乗った王様だったのではないでしょうか。小さき者たち、低き者たちの目線で生き、彼等をご自分の友とされました。愚かで、迷いやすい者たちを決して見捨て給うことなく、忍耐強く導き続けてくださいました。そして、今、それらを完成されるために、人の罪を負い、十字架という重荷を負うために、ロバにのってエルサレムに向かっておられるのです。

 イエス様はロバに乗った王様です。愛の王様です。このお方こそ、神様によって私たちの王様となるべく世にきてくださったお方なのです。
イエス様を乗せたロバ
 さて、ここまでのお話は、三ヶ月前の棕櫚の日の聖日にお話ししたことでもありますが、実はこのエルサレム入城のお話は、「ロバに乗ったイエス様」だけではなく、「イエス様をお乗せしたロバ」についても考えさせられるお話だと思うのです。

 そのロバは、ロバはロバでも子ロバでありました。しかも、まだ誰も乗せたことのない子ロバであったと言われています。わたしは、この力もない、経験もない子ロバに、しばしば自分を重ね合わせてしまうのです。そして、この場面を題材にした「子ロバのうた」というゴスペル・フォークソングをよく口ずさみます。

 ロバの子 なんだか悲しい
 このごろ 毎日 さびしい
 なにかのお役に立ちたい
 けれども力が足らない
 だから いつも だんまり
 だから くびを ふるだけ

 一匹のロバの子が、何かのお役に立ちたいと思っているのですが、自分には出来ることがなにもないので、さびしく、かなしい思いをしていたというのです。そんなある日のこと、イエス様はお弟子たちに、向こうの村に行くと、子ロバがつないであるのを見るでしょう。「主がお入り用なのです」と言って、その子ロバを連れてきてください」と頼むのです。しかも、マルコによる福音書にははっきりと書いてありませんが、マタイによる福音書によると子ロバは親ロバと一緒にいるのです。しかし、イエス様は力もなく、経験もない、子ロバをご自分の乗り物としてお選びになったということが書かれています。

  イエス様 お弟子をつかわし
  親ロバ 子ロバに頼んだ
  預言を全うするため
  わたしを運んでください
  だから 子ロバ 夢のよう
  だから 子ロバ いななく

  ホザナの歓声とどろき
  勝利の入城 はじまる
  イエス様 のせてる ロバの子
  しゅろの葉 ふみしめ 首ふる
  だから 鈴がしゃらしゃら
  だから 汗がほとほと

  がんばれ ロバの子
  イエス様 ゆれてる
  がんばれ ロバの子
  よろよろするな オ!

 実際、イエス様の乗せたロバの子がこんな風に喜んだかどうか分かりませんが、しかし、なぜ、イエス様は親ロバではなく子ロバを選び、しかも人間を一度も乗せた経験のない、ある意味でまことに頼りないロバを選ばれたのでしょうか。

 わたしは、そのようなロバをお選びになったイエス様のお心の中に、ロバに乗ったイエス様のもう一つの愛を見るのです。それは、この子ロバのように経験が浅く、力や知恵にも劣り、人生にちょっとした事があるとすぐにおろおろとしたり、よろよろとしてしまう私たちも、イエス様のお役に立って生きることができる者として、「主がお入り用なのです」と召し出してくださるという優しさであります。

 人間というのは、本当に傷つき、倒れている時には、ただただ優しさの中に抱きしめられるということが必要であります。しかし、いつまでもそのような状態が続きますと、今度は逆に、自分は人に迷惑ばかりをかけているのではないか、こんな自分は生きている価値がないのではないかと、人の優しさが自分の苦しみになるということもあるのです。

 やはりこの世に生まれてきたからには、どんな小さなことでもいい、人の役に立つなり、神様の役に立つなりして生きていきたいと、人間は考えるのです。あなたが出会って良かった、あなたがいてくれてよかったと、言われたいと思うのです。それがなければ、私たちはまったく生きがいのない人間になってしまいます。

 「主がお入り用なのです」というお言葉は、そんな私たちにも与えられている恵みの言葉です。能力がないとか、経験がないとか、病気であるとか、年を取りすぎているとか、この世的には役立たない者というレッテルを貼られていようとも、神の御国の建設ためには、私たちはなお主に必要とされ、価値あるもの、役立つ者として生きるように、この人生が与えられているということなのです。

 「主がお入り用なのです」、このお言葉を恐れつつも、ありがたく受け取って、自分をイエス様にお捧げし、イエス様をお乗せした子ロバのように、私たちもよろよろとしながらであるかもしれませんが、イエス様と共に歩む者でありたいと願います。
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