徴税人ザアカイの救い <2>
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書19章1-10節
旧約聖書  ホセア書11章1-11節
ザアカイの生き方
 今日は、ザアカイについて二回目のお話しです。前回は、ザアカイとイエス様との出会いということについてお話をしました。そしてその中に三つのポイントがあったのですが、今日はまずその三つのポイントを復習してみましょう。

 一つは、ザアカイという人間についてです。彼はユダヤ人でした。ユダヤ人であるということは、ユダヤ民族の父であり、信仰の父であるアブラハムの子孫です。彼らは皆、アブラハムの子であるということを非常に大切にしたのでありまして、それは、神様がアブラハムに「あなたの子孫を大いなる国民にし、祝福の基とする」と約束されたことに基づいていました。「我々は他の民と違うのだ。今はこのようにローマの支配下で虐げられているけれども、神様がアブラハムに約束された大いなる国民、神の民なのだ」ということが、彼等の民族的な誇り、精神的な支えとなっていたのです。

 ザアカイもそのような誇りをもったユダヤ人の一人、アブラハムの子の一人として生まれたのであります。けれども、ザアカイは他のユダヤ人たちとは違いまして、いくらそのような誇りを高く持っていたとして、現実の世の中で勝ち組として生き残るためには、権力とお金を持つことだという堅い信念を持った人間でありました。そして、実際にこの世の現実を支配しているローマ政府に、民族の誇りも、精神的な支えも、つまりはユダヤ人の魂を売り渡してしまったのです。そして、彼はユダヤ人からは裏切り者、売国奴、罪人と呼ばれながら、ローマ政府の先棒を担いで、同胞であるユダヤ人から高額な税金をむしり取り、自らも私腹を肥やして、肥え太っていったわけです。
ザアカイの不幸
 第二のポイントは、ザアカイは裕福ではあったけれども、幸福ではなかったということです。この世的には金も力も欲しいままにしてきてザアカイでありますけれども、一方でそのために大変大きなものを犠牲にしてきたのです。それは、神の子としての喜び、神の子としての幸せ、神の子としての生き方でありました。

 もちろんザアカイは、そんなものはクソ喰らえだと言って、敢えて意にも介さず、徴税人の道をひた走りに生きてきたのですけれども、やはり心の奥底にポッカリと大きな穴が空いておりまして、その痛みをザアカイは無視することはできませんでした。

 17世紀の数学者であり、物理学者であり、深いキリスト教思想家であったフランスのパスカルは、このような心の空しさについて、とてもおもしろい表現をしています。人間の心の中には大きな穴がポッカリと空いていて、その穴は神様の形をしている、というのです。つまり、神様以外の何ものをもってしても埋めることの出来ない空虚さというものを、どんな人間も抱えて生きているのだというわけです。

 ザアカイにもそういう神様の形をした心の穴がポッカリと空いていたのでありまして、それは、ザアカイの有り余るほどの富をもってしても、徴税人の頭としての名誉や力というものをもってしても、決して埋めることができない穴だったのです。

 そのようなザアカイの心の現れが、ザアカイの木登りにあったと思うのです。ザアカイの住むエリコの町に、イエス様と弟子たちのご一行がいらっしゃったときのことであります。エリコ中の人々が、「神の人」と名高い預言者イエス様を一目拝もうと、イエス様のもとに続々と集まってまいりました。ザアカイという人は、これまでの生き方からしますと、そのような時にも「俺には関係がない」と、まったく無関心を装い、神の人とか、預言者などという人間を鼻で笑うような人であったのですが、どういうわけか、この時ばかりはイエスという名前を聞くと、「俺も一目イエスという男を見てみようか」という気になったのでした。

 ところが、ザアカイが行ってみますと、イエス様の周りにはすでに大勢の人々が黒山の人だかりと集まっておりまして、背の低い男だったザアカイは群衆に遮られて、ちっともイエス様を見ることができません。しかし、ザアカイはそれでもあきらめませんでした。最初は冷やかし半分であったかもしれない「イエスに会いたい」という気持ちは、いつしかザアカイの中で抑えきれないほど大きなものに変わっていたのです。

 ザアカイは、どうしたらイエス様を拝むことができるだろうかと頭をフル回転させて考えまして、イエス様がお通りになるだろう道を先回りして、さらにまたもや背が低いために見られなかったということがないように、いちじく桑の木によじ登って、イエス様を待ちかまえることにしたのでした。

 このようになりふり構わずイエス様に会おうとするザアカイの行動の中に、ザアカイは裕福ではあったけれども決して幸福ではなかったということが表されているのであります。貧乏人を見下し、力のないものを蔑んで、ふんぞり返り、威張り散らしていたザアカイでありますが、実は心の中にポッカリと穴が空いている自分を誰か救って欲しいという気持ちを持っていたわけです。
イエス様との出会い
 第三のポイントは、実はイエス様の方がこのようなザアカイを探し求めていてくださったということであります。ザアカイが木の上で待ちかまえておりますと、期待通り、イエス様はザアカイの待つ道を歩いてこられました。そして、ザアカイの木の真下まで来ますと、足を留められ、木の上を見上げて、「やあ、ザアカイ。こんなところにいたのか。さあ、おりていらっしゃい。今夜はあなたのところに泊めてもらうことにしているのだから」と声をかけられたというのです。

 ここまで、ザアカイの心の中にある空しさがむくむくと頭をもたげてきまして、ザアカイはそれに突き動かされる形で、必死になってイエス様を求めていたという話でした。ところが、ここで急に、そうではなくて、イエス様がザアカイを失われた子として愛し、探し求めておられたのだという話に変わるのであります。

 どうしてイエス様がザアカイの名前を知っていたのか、どうして木の上にいることを知っていたのか、どうしてザアカイの家に宿をとると予定することができたのか、そういうことを考えますとまことに不思議な話でありますけれども、イエス様はこのように誰も知らないはずの私たちの心の深みにある思いをよく知っていてくださいまして、それを包み込むような愛をもって、私たちに優しく出会ってくださるのであります。 
ザアカイの新生
 この主の愛にふれて、ザアカイは心の底から新たにされた人間として生まれ変わるのです。ザアカイは、喜んでイエス様とその一行を自分の立派な家に案内しました。そして、あらん限りのもてなしを尽くして、イエス様を歓迎したものと思われます。そして、しばらくの交わりの後、ザアカイは突然立ち上がって、イエス様にこう言ったのでした。

 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(8)

 まず、ザアカイは「財産の半分を貧しい人々に施します」と言いました。「すべて」と言わず「半分」と言ったところに、ザアカイの言葉の本気さを感じるのです。

 みなさんも神様の前に決意を表明する時があると思うのです。「これからはすべてを捧げて神様に仕えていきます」とか、「もう二度とこんな愚かなことをいたしません」とか、とかく決意表明というのは大袈裟なものになりがちなのです。もちろん、そこにはそれだけ心に湧き立つものがあるのでありまして、決して真っ赤な嘘というわけではないと思うのです。

 しかし、人間の気持ちというのは変わるのでありまして、心の冷静さを取り戻した時にも、なお自分の言ったことに真実に生き続けなければ、神様の前に言ったことが嘘になってしまうということがあるわけです。ですから、イエス様も一切誓ってはならないということを教えておられます。誓いを立てて嘘つきになってしまうよりも、誓いなど立てなくてもいいから、自分の出来ることを一つ一つ果たしていきなさいということではないかと思うのです。

 ザアカイは決して半分を惜しんだのではなく、気持ちの上では、「すべて」という気持ちであったに違いありません。しかし、本当に自分が嘘偽りなく果たせることを考えたときに、「すべて」ということには自信がなかったのではないでしょうか。私はそれでいいと思うのです。その方が神様に誠実であるし、信じるに足る言葉のように思います。

 また、ザアカイは不正に取り立てた税金を四倍にして返すと言いました。だいだい賠償というものは、取ったものをそっくり返すとか、それに相当するものを償うということはもちろんでありますけれども、それだけでは被害者の気持ちがすまないでありまして、それに何某等を加えて慰謝料としなければなりません。当時の法律によれば、五分の一ないし四分の一を加えるということになっていたようであります。しかし、ザアカイはそれを四倍にして返すと言ったのであります。法律的にはそこまでする必要はないのでありますけれども、法律の要求に従うだけではとても気持ちが収まらないと思ったのでありましょう。

 このように、ザアカイは今まで生き方からはまったく考えられないようなことを、イエス様に言ったのです。ザアカイの心の中で、価値観や生き方が180度変化したということなのです。それがイエス様との出会い、交わりを通して起こったということなのです。

 イエス様は、水をぶどう酒に変えたり、病人を癒したり、湖の上を歩かれたり、数々の奇跡を行われました。しかし、もっとも偉大な奇跡は、人間を心の底から新たに生まれ変わらせてくださったということではあると、私は思うのです。

 まったく驚くべき変化が、ザアカイのうちに起こったのでありますが、いったい、イエス様はどのようにザアカイを導かれたのでしょうか。いったい、どんなお言葉をもって、どんなお導きをもって、悪魔に魂を売り渡したようなザアカイの心を、神様のもとに取り戻すことができたのでしょうか。残念ながら、聖書はそのことについてはいっさい何も語っておりません。その夜、ザアカイの家で、イエス様とザアカイとの間にどんなことがあったのか、たいへん興味深いことでありますけれども、聖書はいっさいその様子については省略をしているのであります。

 しかし、私は、この省略には意味があると思うのです。つまり、ザアカイという人間を変えたのは、良い教えとか、良い導きというものではなくて、イエス様と出会うことによってであった、そういうことを教えているのではないでしょうか。イエス様の教えや導きがなかったというのではありません。あったかもしれませんが、それは脇役だったのです。主役はイエス様との人格的な出会いだったということなのです。

 人間というのは、言葉によって動かされるのではありません。感動によって動かされるのです。木に登って待ちかまえるザアカイに、イエス様は友人として語りかけてくださいました。ザアカイは、そのことに感動したのです。友情をもって自分の名前を呼んでくれる人がいるという幸せを、ザアカイは長いこと忘れていました。この感動がなければ、どんなに正しい教えも、どんなに理にかなった導きも、ザアカイの心を動かすことはなかったでありましょう。イエス様との心揺さぶられる出会いがあってこそ、ザアカイは新しく生まれ変わるきっかけを得たのです。

 もう少し申し上げますと、良い話、良いアドバイスをしてくれる人というのは、イエス様だけではなく、他にもたくさんいるのです。たとえば、お釈迦様の教えにだって素晴らしいものがあると思います。ですから、ある人々は、「私はキリスト教徒だ」、「私は仏教徒だ」などと意地を張らずに、イエス様からも、お釈迦様からも、良い教えをどんどん積極的に学んだらいいじゃないかと言うのです。

 しかし、どんなに良い教えを学んで、良い教えで頭の中にいっぱいになっていても、それで良い人間になって、良い生活が始まるわけではありません。私たちは色々な面で自分が変わらなくてはいけない、新しい生活を始めなくてはいけないと思っていると思うのですが、そのためには本当に良いものに出会って、心が揺さぶられるという感動が必要なのです。

 イエス様が私たちに与えてくれるのはその感動であります。イエス様は、「私を見た者は神を見たのである」と仰いました。イエス様は、私たちに「神との出会い」という本当に素晴らしい感動を与えてくださるのです。そして、「神は愛なり、神は聖なり、ハレルヤ!」と叫ばせてくださるのです。

 お釈迦様もいいことを教えておられるかもしれません。しかし、私たちの心を揺さぶり、神は愛なり、神は聖なりという感動でいっぱいにしてくれるのは、今も生きて私たちに聖霊をお与え下さるイエス様なのです。このイエス様との出会いによって、私たちも、またどんな人間も新しい人間として生まれ変わることができるのです。
 
イエス様の使命
 さて、イエス様はザアカイの言葉を聞いて、本当に喜ばれて、弟子たちにこう言われました。

 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 イエス様によれば、ザアカイは「失われたもの」でした。「失われたもの」というのは、本来あるべき場所にないという意味です。ザアカイは、本来、神様の民として、神様の愛と祝福の中に生きる人間の一人でありました。しかし、神様の愛から離れ、祝福を受け損なって生きていたのであります。イエス様が世に来て下さったのは、そのような神様の愛からさまよい出てしまった人間、神様の祝福を受け損なっている人間、そのために神なく望みなく意気阻喪している人間を探し求めて、見出して、そして神様のところに連れ帰るためだと仰ったのであります。

 そして、そのために、イエス様は神様から遠く離れた人間を訪ね求め、その中に宿られるお方となったのです。エリコの町で最も神様から離れていたザアカイの家に宿を取られたということは、本当にイエス様らしいことであったといえましょう。

 改めて5節を読んでみたいと思います。

 「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」

 「急いで」という言葉があります。「今日」という言葉があります。一刻も早く、今日という日のうちに、わたしはあなたを救いたいのだという、イエス様のお気持ちが込められているのです。

 イエス様は私たちに対しても、同じような気持ちで語りかけてくださっています。そのイエス様のお声を聞いて、ザアカイのようにイエス様を今日という日のうちにお迎えする者でありたいと願います。
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