徴税人ザアカイの救い <1>
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書19章1-10節
旧約聖書  詩編107編1-43節
アブラハムの子
 ザアカイは、ユダヤ人でありました。ユダヤ人でありますから、ユダヤ民族の父であり、信仰の父である「アブラハムの子」と呼ばれる者たちの一人であったわけです。

 「アブラハムの子である」というのは、単にユダヤ人であるという簡単な意味ではありません。旧約聖書の『創世記』をひもとけば、神様はこの地上に住む人間たちの中からアブラハムを選び、アブラハムに「もし、あなたが私の導きに従って生きるならば、私はあなたの子孫を大いなる国民とする。そして、すべての国民の祝福の基とする」と約束なさいました。つまりユダヤ人が「アブラハムの子」であるということは、ユダヤ人が神に選ばれた大いなる国民であるということであり、神様に祝福が約束された第一の民であるということであるということになるのです。それはユダヤ人の何にも代え難い誇りであり、アイデンティティでもありました。ザアカイは、そういう誇りをもったユダヤ人の一人であったはずなのです。

 「あったはず」と申しました。というのは、ザアカイはユダヤ人でありながら、その誇りを持つことができなかった人だったからです。実は、ザアカイに限らず、聖書にはそのような人たちが少なからず登場して参ります。ユダヤ人の中には、そういう人たちが決して少なくなかったのです。

 たとえば、先週お話ししました重い皮膚病の患者たちもそうです。彼らは、その病気の悲惨さ故に汚れた人と呼ばれ、町の外に追放され、隔離されて暮らしていました。もう彼らはユダヤ人の仲間ではない、アブラハムの子という資格はない、神様の祝福から除外されてしまった人間なのだということなのであります。他にも、生まれつきの障害者や、売春婦に転落してしまった婦人や、そういう人たちと親しく交わりを持っている人や、サマリア人という人たちがいまして、彼らは神様の祝福を奪われてしまった人たち、あるいは神様の祝福を自分で棄ててしまった人たちと見なされていたのでした。

 ザアカイもそんなユダヤ人の一人でした。特にザアカイの場合は、他の人たちとちょっと違うところがありまして、自分からそれを棄ててしまったのです。「アブラハムの子なんて言われなくて結構、俺には俺に生き方がある。俺には俺の幸せがある」と開き直っているのです。そこにザアカイという人間の特徴がありました。
誰も知らないザアカイの悩み
 しかし、どうしてザアカイはそういういじけた人間になってしまったのでしょうか。一つ、ヒントになることが聖書に書いていると思うのです。それは、ザアカイの背が低かったということです。

 高校のクラスメートの男の子が突然学校に来なくなってしまいました。何か大変な病気をしたのか、あるいは複雑な家庭の事情があるのか、はたまた深刻な悩みで苦しんでいるのかと、色々と心配をしました。ところが、後になって事情が分かってみると、彼は自分の背の高さを非常に気に病んでいて、そのことで両親を恨んだり、学校に行くのが嫌になってしまったりしたのだというのです。背が高いといっても、病的に高いという程でもありません。そんな些細なことで、親を恨んだり、学校に行けなくなったりするものなのかと、当時の私にはまったく理解ができませんでした。

 けれども、実際、人間というのはこのように弱い存在でありまして、私も自分の愚かな人生を通してそのことが段々と分かってきました。人間の悩みというのは、およそ他人からみれば小さなことなのです。しかし、たとえどんなに小さなことであっても、それをはね除けることができないから、深刻な悩みとなります。その悩みによって自分の人生が立ち止まってしまったり、振り回されてしまったり、本当に苦しい思いをしているのです。

 それを他人が笑い飛ばしてはいけないのでありましょう。自分が自分の悩みを笑い飛ばすなら、それはたいへん結構なことです。しかし、悩んでいる人を、他人が笑い飛ばすということはできません。たとえ理解できなくても、その人の苦しみの深さというものを十分に感じ取ってあげることが大切だろうと思うのです。

 ともあれ、ザアカイが背が低かったということは、十分にザアカイのコンプレックスになり得ることです。そのコンプレックスが、ザアカイの人生を大きく狂わせてしまったのではないでしょうか。

 さらに、背が低いというのは、色々と考えさせられることであると思います。たとえば、私たちはみんな同じ条件で生きているのではありません。他人と比べると色々と背の届かないところが出てくると思うのです。能力的に劣っているとか、性格的に弱い部分があるとか、身体的に不自由な部分であるとか、そういう一人一人の持っている条件というのを、日本語ではまさに「身の丈」という言い方をするのです。ザアカイが背の低さで悩んでいたように、私たちも色々な背の低さで悩んでいるということがあるのではないでしょうか。

 しかし、そういう背の低さというのは、あくまでも相対的な話、他人と比べた場合の話なのです。私は子供の頃、勉強はいつもビリでしたが、走るのは速かったのです。運動会ではいつも一番でした。ところが我が息子は、勉強はともかくして運動会ではいつもビリなのです。それが今年の運動会では、駆けっこで一番をとってきました。息子も満足げで、自信に満ちあふれた顔をしておりましたけれども、本当のところ息子の足が速くなったのか、あるいは一緒に走った子供が足の遅い子ばかりだったのか、それは分からりません。相対的であるということは、このように自分を誰と比べるかということによって結果が違ってくるのです。背の高い人と一緒にいれば、自分は背が低いということになるでしょうし、背の低い人たちと一緒にいればそのことで劣等感を持たなくてもいいことになるのです。

 さらにまた、それは人間が生きていくために持っている様々な条件のうちの一つにすぎません。足が遅くても、背が低くても、人間には必ずその人の持っている存在の素晴らしさというものを感じさせる何かがあるものなのです。それは、神様がお造りになった存在ですから、必ずあるのです。ところが、私たちは、しばしば自分が駄目だと思っているその部分にのみ執拗に拘り続けてしまうということがあります。そして、ついにはそれを絶対化してしまうということが起こります。たとえば、背が高くなりさえすれば自分は幸せになれるのだとか、足が速くなりさえすれば幸せになれるのだとか、そういう背の高さや、足の速さを偶像化してしまうのです。

 これが劣等感と言われるものでありまして、この劣等感によって、私たちの生き方全体が縛られ、振り回されてしまうのです。ザアカイも、本来、背が低いなんていうことで、そんなにくよくよと気に病む必要はなかったのです。しかし、彼はそれを気に病んでしまった。そうは書いてありませんけれど、きっとそうだったのではないかと思うのです。その劣等感が、彼に妙な意地を張らせたり、無意味な見栄を張らせてしまったり、あるいは両親や世の中に対する逆恨みを持たせたかも知れません。彼が徴税人になったのは、そういう彼の思いの中での、世の中への復讐であったかもしれませんし、お金持ちになって見返してやろうという意地であったかもしれないわけです。

 愚かと言えばまことに愚かな生き方でありますけれども、自分の胸に手を当てて考えてみますと、私たちも同じように足りないものばかりに目を向けて、いつもそのことに振り回されて、見栄を張ったり、意地を張ったり、逆恨みをしているというようなことがあるのではないでしょうか。
イエス様を求めるザアカイ
 ザアカイの生き方がそのような劣等感に支配されたものであったとするならば、いくらザアカイが「これが俺の生き方だ」と開き直っていても、決してそれがザアカイの本心だと思ってはいけないと思います。ザアカイの心の奥底には、ザアカイ自身も気づかないような、ザアカイの本心というものがあったに違いありません。それは、劣等感に縛られ、振り回され、意地なっている自分の人生から救われたいという思いであります。そのことが、「俺もイエス様を一目拝んでみようか」というザアカイの気持ちと、その行動に表れていたのではないでしょうか。

 ところが、せっかくそういう気持ちになったのですが、ザアカイにとってイエス様に会うということは決して簡単なことではありませんでした。イエス様のところに行ってみますと、すでに大勢の人が黒山の人だかりになっておりまして、背の低いザアカイにはさっぱり中の様子をうかがうことができなかったのです。

 「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。」

 「群衆に遮られて」とありますが、群衆はザアカイだと分かると、わざとらしく前に立ちはだかったり、どさくさに紛れてこづいたりしたりして、ザアカイを閉め出そうとしたとも考えられます。ザアカイが今まで人にしてきたことを思えば、このような仕打ちも仕方がないことでありましょう。たとえザアカイが殊勝な気持ちになって、イエス様を拝もうとしても、今までの生き方というのはそう簡単にチャラにはできるものではないのです。

 これは私たちがイエス様に出会う道を歩むときにも言えるです。ある日、思い立って心を入れ替えても、なかなか周りの理解や協力が得られなかったり、色々な邪魔が入ってしまったりして、結局、挫折してしまうということが、みなさんにもおありなのではないでしょうか。そんな時、みなさんはどうなさるのでしょうか。やっぱり、自分は駄目なのだと心挫けてしまうかもしれません。ザアカイも、いつもであったら、「やっぱり俺は背が低いから駄目なのだ」と心を頑なにし、ますますあこぎな徴税人になったかもしれません。

 ところがどういうわけか、今度ばかりはザアカイも違ったのです。

 「それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」

 いい大人が木に登るなんていうのは、あまり格好の良いものではありません。しかし、ザアカイはそういう恥も外聞もかなぐり棄てて、木によじ登り、イエス様を一目拝もうとしたというのです。もうこの時すでに、ザアカイの中には、何事かが起こっていたに違いありません。ほんのちょっと見てやろうという冷やかし半分の思いではなく、ザアカイは本気でイエス様を一目拝みたいという気持ちになっているのです。それは見栄っ張りのザアカイに木登りまでさせるほど大きな気持ちとなり、ザアカイをイエス様に向けて突き動かしているのです。

 こんなことは、これは今までザアカイには考えられないことでありした。ザアカイというのは、お金にならない人には用がない、関係ない、という人だったのです。しかし今や、まったくお金にならないイエス様を、ザアカイは必死になって追い求めているのでした。どうして、そんな気持ちになったのか、ザアカイ自身もあまり説明ができないことだったのではないかと思います。しかし、そこには非常に明確な原因があるのでありまして、それは、ザアカイの心の中に神様が働いておられるということなのです。
ザアカイを見出すイエス様
 こうして、ザアカイはイエス様への出会いへと導かれました。

「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」

 なんとも不思議なことが起こったのであります。本当はザアカイの方がイエス様に会いたいと思っていたのではないでしょうか。ところが、実は、イエス様の方がザアカイに会いたいと思っていたというのであります。そして、木の上にいるザアカイを見つけ出して、まるで友だちに対するかのような親しみをもって、「やあ、ザアカイ。そんなところにいたのか。はやく降りておいで。今日はあなたの家に泊めてもらうよ」と、声をかけてくださったというのです。

 どうして、イエス様はザアカイの名前まで知っていらっしゃったのでしょうか。どうして、ザアカイの家に泊まることまで予定しておられたのでしょうか。どうして、ザアカイが木の上にいることが分かったのでしょうか。まったく謎に包まれたことでありますけれども、ザアカイは、そのことに今まで味わったことがないうれしさというものを感じたに違いありません。

 もちろん、これまでのザアカイの人生にも色々な喜びがあったと思うのです。うまいこと人をだました喜び。たんまりと税金をむしり取った喜び。お金がたまっていく喜び。ローマ政府の権力を傘にして、人々に力ある者として振る舞う喜び。貧しい人を見下して優越感に浸る喜び。しかし、愛の喜びだけは知りませんでした。ザアカイは、生まれて初めて、あるいは本当に久しぶりに、愛というものを感じ、そのうれしさを感じたのでした。

 ザアカイがこの主の愛にふれてどのように変わっていったのか、そのことは次回にお話をさせていただきたいと思います。今日は詩編107編の御言葉を少し説明させていただきまして、今日のお話しのまとめとさせていただきたいと思います。

 詩編107編には、人間が味わうであろう様々な悩みや労苦について書かれています。第一に、4節には生きる道を失った彷徨い続ける人々について書かれています。第二に、10節には、貧しさや苦難から逃れることが出来ないで絶望の中に倒れている人々について書かれています。第三に、17節には自分の罪や生き方の間違いのために、人生が狂い、そこから抜け出せなくなってしまった人々について書かれています。第四に、25-27節には、突然吹き荒れる人生の嵐にもまれ、その中で溺れそうになっている人々のことが書かれています。しかし、どんな艱難辛苦の中にあっても、苦しみのうちにて神様に呼ばわるならば、神様は必ずやその悩みからあなたを救い出してくださる。その驚くべき御業を見て、神の御名を賛美せよと言うのです。

 ザアカイの場合は特に、自分の誤った生き方の中に迷い込んでしまい、そこから抜け出せなくなってしまったという苦しみを経験していたと言えるのではないでしょうか。しかし、人知れず苦しんでいたザアカイのこの悩みを、イエス様は知っていてくださったのです。その心の叫びを、イエス様は聞き漏らさず聞いていてくださったのです。そこに、ザアカイの救いがありました。

 私たちも、そのような救いを経験した者として、今ここに、主の十字架のもとに集められているのです。その喜びをもって、救い主なるイエス様に感謝と賛美を捧げて、この一週間も歩んで参りましょう。
 
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