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イエス様がサマリアとガリラヤの間に位置する小さな村にお入りになりますと、どこからともなく重い皮膚病を患った十人の人たちがおそるおそるイエス様に近寄って参りました。近寄ってきたと申しましても、彼らはその病のゆえに世間から「汚れた者」と見なされておりまして、健康な人に近寄ってはいけないという風に言われていました。ですから、近づくと行っても限界があるわけでありまして、お互いの姿を認め合うことができる程度まで近寄って、そこから思いっきり声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と、大声で拝んだというのです。
私たちはまずここで、本当にイエス様の救いを必要としてそれを願っているのに、イエス様に近づくことが出来ない人たちがいるということに、心を留めたいと思うのです。それはこの重い皮膚病を患った十人の人たちだけではありません。本当はイエス様に近づいて、すがりついて、「どうぞ、この私を憐れんでください」と拝み倒したいぐらいの気持ちなのですが、その一方で「こんな私がお祈りをしても、どうせ聞かれないに決まっているとか」とか、「私のような罪人は教会にいく資格がない」とか、あるいは本心に逆らって「イエス様なんかに俺は救えない」「教会なんか偽善者の集まりだ」と反抗的になってみたり、結局、イエス様を誰よりも求めていながら、イエス様から遠く離れたところに立ちすくみ、救いのない者として佇んでしまうということも少なくないのです。どうして、そのような人々は思い切って、あるいはもっと素直になって、イエス様に近づくことができないのでしょうか。
似たような意味で、よく教会は敷居が高いと言われることがあるのです。教会に行こうか行くまいかと迷った末、ようやく心を決めて教会の前まで来ても、教会の中に入るためには一段、二段と階段を上がって、大きくて重たい扉を開け、未知なる世界に入っていかなくてはなりません。その最後の一歩が踏み出せなくて、結局、怖じ気づいて帰ってしまったという話も聞いたこともあります。
こういうことに対して、私たちが少しでも入りやすい教会にしていくということも大事なことだろうと思うのです。勝野先生がこの会堂をお建てになるとき、塀を立てず、外からでも教会の様子がのぞけるような作りになったのにも、きっとそのようなお心があっただろうと思います。また、私も、お招きのポスターを貼ったり、扉に「どうぞ、お入りください」との札をかけたりして努力はしております。しかし、いくらそう言うことをしても、やはり入ることができない人というのは出てくるものであります。それは教会側の問題というよりも、人間側の問題があるのではないかと思うのです。
それはいったいどういう問題かといいますと、自分がイエス様に招かれているのだということを知らないということ、またそのことにどうしても自信が持てないということにあるのです。たとえば、重い皮膚病を患った十人の人たちもそうでありました。皮膚病というのは、患部が表に現れているわけですから、痛みとか、かゆみとか、不快感とか、そうことに加えて自分の姿が醜くなってしまうという精神的な苦痛を味わうことになるのです。
高校時代、人よりもちょっとだけニキビが多い友達がおりました。彼はそのことで女の子にもてないのではないかと、たいへん気に病んでおりまして、何千円もするような高価な漢方薬を顔に塗っていたのを思い起こします。そのように軽いニキビのようなものでありましても、人目が気になって、精神的にはたいへん大きな苦痛を受けているということがあるわけです。さらにまた、皮膚病というのは、病気が治ってからも、後々までその跡が体に残ってしまうということが間々あります。そうなりますと、その人は一生に亘って、そのことで人に笑われるのではないかとか、気味悪がられるのではないかとか、今まで親しくしていた人からも嫌われてしまうのではないかとか、怖じ気づいて、なかなか人前に出ることができない人間になってしまうというもあるわけです。
もっとも、実際、イエス様の生きておられた当時、重い皮膚病の患者たちは、実際、人々から汚れた者とみなされ、人々の住むところから追放されるというひどい目にあっていました。それはたいへん大きな問題でありますけれども、私が今申し上げたいのは、それだけが問題ではないのではないかということなのです。たとえ、誰かが「決してそんなことはない」と言ってくれても、そのような優しい、真実の言葉さえも届かない、いじけた、臆病な人間になってしまう、人をそういう風にしてしまう可能性のある病気が、重い皮膚病であったということなのです。
この場合、問題は世間や他人にあるのではありません。自分自身にあるのです。こんなはずじゃなかったとか、こんなになってしまったらもうお終いだとか、そのように自分で自分を否定している限り、自分が人から愛されているとか、人に受け入れられているとか、そういうことが決して信じられない人間になってしまうのです。まして、このように誰からも愛されないと思っている人間が、神様に愛され、イエス様に招かれているなどということは、とても信じがたいことになってしまうのでありましょう。 |
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それならば、イエス様の招きを信じて、教会に行くとか、お祈りをするとか、そうやってイエス様に霊的に近づいていく人間になるためには、まず自分を愛することができる人間にならなくてはいけないということになります。わたしは素晴らしい人間なんだ、神の子なんだ、招かれているんだという思いを持てる人間にならなくては、自分の力では教会に行くことも、イエス様に近づくこともできないのです。
しかし、ここで立ち止まって、私たちはもう一度よく考えてみなければなりません。そのように自分を愛することができないでいる人間だからこそ、実はイエス様の救いが必要な人間なのであり、そのような者のためにこそ、イエス様を私たちにお与え下さったのではないでしょうか。
ある時、イエス様が罪人たちと一緒に食事をしていると、ファリサイ派の人たちがそれを咎めて、弟子たちに「あなたがたの先生は、神の正しい道を説くべき者であるなら、なぜ、あのような罪人たちと一緒に親しげに食事をしているのか」と言いました。困っている弟子たちをみて、イエス様が自らファリサイ派の人たちに、このように答えるのです。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12-13)
イエス様は、私が来たのは、「私は正しい人間である」と言える人のためではなく、「私は箸にも棒にかからない人間だ」と深く自覚している者のためである。そのような者に、神様の招きを伝えるためなのだということを仰ったのでした。
こういう話もあります。ルカによる福音書18章9節以下に記されている、イエス様の譬え話です。ちょっと、読んでみましょう。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
この譬え話に出てくる徴税人は、重い皮膚病を患った十人と同じなのです。何が同じかと言いますと、彼もまた、みんなが祈っている場所から遠く離れたところに立って、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と言ったというのです。この人もやはり、自分を愛することができない人間で、神様に招かれているということが信じられない人間だったということでありましょう。
しかし、イエス様は、この人こそ神様に義しい人間と認められて、家に帰ったのだと言ってくださいました。ここが非常に重要なところでありまして、神様が近づいてくださるのは、自分から神様に近づいていく人間に対してではなくて、自分では神様に近づくこともできないような人間に対してなのだ、それが神様という御方なのだということを、イエス様は仰っておられるのです。
もう一つ、この譬え話の後に、乳飲み子を招いて祝福されるというエピソードが記されています。ルカによる福音書18章15-17節です。これも合わせてお読みしてみたいと思います。
「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」
ここには、イエス様はどんな小さき者をも決して軽しめられないお方であるだけではなく、そのような小さき者を「恐れるな、小さい群よ。御国をくださることは、あなたがたの父のみこころなのである」と、積極的に招き給うお方であるということが、ここに示されているのです。
みなさん、小さき者であるということは、あるいは取るに足らぬ者であるということは、決して絶望的なことではないのです。イエス様の福音によれば、それはむしろ祝福の基なのです。神様は、そのような者を招くためにこそ、イエス様を私たちに与えてくださったからです。
ですから、私たちも、イエス様から遠く離れて立つ者であったとしても、そこから、あの重い皮膚病を患った十人の人たちのように、声を張り上げて、「イエス様、どうか、私たちを憐れんでください」と、イエス様を拝もうではありませんか。また、あの徴税人のように、天を仰ぐ資格もなく、祈る資格のない人間であると知りながらも、その遠く離れた場所で、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、胸を打ちながら祈っている人がいるならば、その人こそイエス様に招かれている人なのだと信じてあげようではありませんか。
まことに逆説的ではありますが、自分は神様の愛に値しないと悲しむ人間こそ、神の愛を知り、喜びに満たされると、イエス様は約束してくださっているのです。 |
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さて、十人の皮膚病患者たちの切なる祈りは、イエス様に届き、かなえられ、清められたと、聖書は記しています。しかし、自分が癒されたことを知り、大声で神様を賛美しながら帰ってきて、イエス様の足許にひれ伏したのは、十人のうちのたった一人であったというのです。
これには、イエス様もさすがに驚いたのでありましょうか。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と、怪しまれたと言います。
みなさん、主の愛を受けるためには、主の愛に値する人間でなくても良いのだということを、今お話ししました。たとえば、ユダヤ人でなくても良いし、罪人であっても良いし、信仰など何も分からないし、祈ることさえ知らない乳飲み子でもいいのです。私たちの生きている世界に置き換えてみますと、クリスチャンでなくてもいいし、教会に一度も行ったことがない人でも良いということです。そのような人もイエス様に愛され、招かれており、憐れみを受けることができるのです。
しかし、遠く離れて立っていながらも、なおそのような主の深い憐れみを受けて、恵みをいただいたならば、それによって私たちはイエス様の近づき、その足許にひれ伏して、感謝に生きる人間にならなくてはならないでありましょう。クリスチャンというのは、別に偉い人間でも、清い人間でもなく、そのような感謝に生きる人間だと思うのです。そして、そこからさらに「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」という言葉をいただいて、主と共に生きる者として生まれ変わって、新しい人生を生きるのが、クリスチャンなのです。
最初、重い皮膚病を患った人々は、イエス様から遠く離れて立ち、それ以上に近づくことはできませんでした。しかし、イエス様の憐れみによって、彼らは癒されます。その時、九人は、もうイエス様には用はないということで、イエス様から離れていきました。しかし、一人は、溢れるばかりの感謝をもって、今まで近づけなかったイエス様の足許に来て、ひれ伏して拝むのです。そして、そこで「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」という祝福の言葉をいただいて、イエス様によって救われ、イエス様と共に生きる者とされた、新しい人生をそこから始めるのです。これがクリスチャンの姿なのです。
しかし、どうして、他の九人はイエス様のもとに帰らなかったのでしょうか。どうして、このサマリア人だけが、イエス様のもとに帰ったのでしょうか。それは、重い皮膚病を患った十人の、その中でも最も小さき者だったのが、ユダヤ人から軽蔑され、迫害されていたこのサマリア人であったということなのです。みなさん、私たちがクリスチャンにされたということは、たいへん喜ばしいことではありますが、自分がクリスチャンであることを誇って、あたかも精神的貴族か、道徳的貴族であるかのように、ノン・クリスチャンを見下すことができるような立場の人間ではありません。神様に招かれて、感謝に生きる者とされた私たちは、この世の小さき者の中でも、さらにまた最も小さき者であったのです。それゆえに、イエス様の深い憐れみが心に沁みて、誰よりも感謝に溢れることができた者に過ぎないのです。
私たちの誇りは、あくまでも自分ではなく、主にあります。偉大な救い主、イエス・キリストをこそ私たちの誇りとして、常に主に依り頼んで、力強くこの世の旅路を歩んで参りたいと思います。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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