ラザロの復活 <3>
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書11章45-54節
旧約聖書 ヨブ記19章23-27節
ラザロの復活(復習)
 今日はラザロの復活の三回目のお話となります。ラザロは、イエス様が「わたしの友」と呼んでくださるほどの在家信者でありました。そのラザロが何かの病気にかかって死線を彷徨うことになります。

 このラザロには、マルタとマリアという、やはり心から主を愛する二人の姉妹がおりました。二人は何とか弟を救って頂こうと、イエス様に使いを出し、「あなたの愛する者が病気です」と言わせました。それは、弟ラザロの回復を祈る、二人の切なるメッセージでありました。

 ところが、この知らせを聞いたイエス様は、「この病気は死で終わるものではない」と仰いまして、なお二日の間その地に留まり、ようやく腰を上げられたかと思いますと、「ラザロは死んだのだ」と弟子たちに告白をなさいまして、その足でラザロの住むベタニア村に赴かれたのでした。

 果たして、ベタニア村に到着をいたしますと、時すでに遅し、ラザロは死んで葬られ、四日も経っておりました。イエス様がいらしたと聞いて出迎えに出たマルタも、泣きはらした顔で、「主よ、もしあなたがここにいらしてくださったら、弟は死なずに済んだでしょうに」と、悲しみを込めて訴えます。

 イエス様の頬にも涙が流れていました。それを見て、人々は「ああ、なんとラザロを愛しておられたことか」と感動しました。しかし、ある者たちは「数々の奇跡を行った人も、ラザロを死なないようにはできなかったのか」とつぶやきます。

 そのような人々の中を掻き分けて、イエス様はラザロの墓に向かい、その前に立ち、恐ろしい形相で墓をにらみつけて、人々に「墓を開けなさい」と命じられました。マルタは驚き、「主よ、もう臭くなっています」と小声で注意しました。人々も、いったい何をするつもりだろうといぶかしがりながらも、言われたとおりに墓を開けました。

 すると、イエス様は天を仰いで「彼らが信じるためです」とお祈りをなさると、墓の中に向かって「ラザロよ、出てきなさい」と大声で叫ばれたのです。唖然として、人々が見守っておりますと、なんと墓の中から包帯でぐるぐる巻きにされたラザロがゆっくりと歩いて出てきたのでした。
イエスを信じた人々
 さて、今日、お読みしましたのは、このような驚くべき奇跡を目の当たりにした人々の反応についてであります。まず45節にはこのように書かれていました。

 「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」

 「イエスを信じた」という言葉が重要です。彼らは、イエス様の持っておられる「力」を信じたというのではありません。また、イエス様の「お言葉」を信じたというのでもありません。復活であり、命であるところの「イエスを信じた」というのです。

 少しさかのぼって、37節を見てみますと、これはまだ奇跡が起こる前の話ですが、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」という、人々の失望の声があがっています。この時、人々が求めていたのはラザロの癒しでありました。ですから、彼らはこういうのです。何もできないイエス様には用はない、まったくがっかりだ、と。彼らはラザロを癒すことができるイエス様の力を期待していたのでありまして、イエス様ご自身を求めていたわけではないのです。

 ところが、奇跡が起こりますと、彼らはイエス様を信じました。くどいようですが、この時、彼らが信じたのは、「やっぱりイエス様の力はすごいもんだ。イエス様にまさるお力をもった御方はいない」というような事ではなくて、イエス様の何かではなくて、イエス様ご自身を信じたということなのです。

 それはいったいどういう事なのでしょうか。何を意味するのでしょうか。私たちの信仰生活とどんな関わりがあるのでしょうか。もう一つ、さかのぼって23-25節の御言葉を見てまいりたいと思います。イエス様がベタニア村に到着しますと、マルタが出迎えて、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。すると、イエス様は「あなたの兄弟は復活する」、「わたしは復活であり、命である」「あなたは信じるか」という風に、マルタにお答えになったのです。

 「わたしは命である」とは、どういうことでありましょうか。また、「わたしは復活である」とは、どういうことでしょうか。イエス様は、「わたしはあなたに命を与える者である」と言わずに、「わたしこそがあなたの命である」と言われました。また、「わたしはあなたをよみがえらせることができる」と言わずに、「わたしこそがあなたの復活である」と言われました。それは、イエス様が与えてくださるものは、イエス様に付属する命や復活の力というものではなくて、イエス様ご自身をあなたの命、あなたの復活として捧げてくださる、与えてくださる御方であるということなのです。

 逆にいうと、私たちはイエス様から何かを受け取るというよりも、イエス様ご自身をわが命、わが復活として受け取らなくてはならないというわけであります。
復活である主
 ところで、イエス様は、「わたしは命である」というだけではなく、「わたしは復活である」と言われた意味について考えてみたいと思います。イエス様が私の復活であるというのはどういうことでありましょうか。それは、イエス様を私たちの命として受け取ることが、私たちの新しい命になり、新しい人生の出発になるということなのです。

 復活というのは、今ある自分がもっと立派で、大きな自分になっていくという意味ではありません。それは復活ではなく、成長です。成長と復活は違うのでありまして、復活というのは一度死んだ人間が、もう一度新しく生まれるということなのです。

 まず成長について考えてみましょう。成長というのは、肉体的にも、精神的にも、もっと大きな、価値ある自分になっていこうとすることです。そのような願いを持つことは人間として当然ですし、限定的な意味ではたいへん良いことだと思うのです。しかし、私たちは成長の限界ということを必ず認めなくてはなりません。

 肉体的な成長に限界があることは申すまでもないでありましょう。ある時期から、私たちの体の成長は下り坂になります。これは、どんなに健康管理をしても避けられないことなのです。では、精神的な成長は無限であるかというと決してそんなことはありません。そもそも人間というのは有限な存在でありますから、自分の中にないものを引き出すことはできません。では、せめて自分の中にあるものは最大限に引き出せるかと言いますと、それもまたたいへん難しいことなのです。

 私はこのような成長の難しさということを考えるときに、イエス様の種まきの譬えを思い起こします。ある農夫が種をまきますと、ある種は道ばたに落ちて、成長する前に鳥に食べられてしまいます。別の種は石地に落ち、芽は出すものの根を張ることができないために、日照りで枯れてしまいます。他の種は茨の中に落ち、ある程度まで成長すると自分を覆う茨が邪魔になってそれ以上に成長できなかったという話です。私たちにも、育つ環境や、育つ方向性によって、成長が妨げられてしまうということがあるのではないでしょうか。

 しかし、私たちの希望は成長にではなく、復活にこそあります。鳥に食べられてしまった種、日照りで枯れてしまった種、茨で成長を邪魔されてしまった種、これらの種は成長できずに死んでしまった種でありますけれども、復活ということは、その死が命の終わりではなく、新しい命の始まりとなるということなのです。

 そして、この新しい命の始まりというのは、「私は復活であり、命である」と言われたイエス様を、自分の新しい命として受け入れるということから始まるのだと、聖書は教えてくださるのです。
始まりとしての死
 星野富弘さんという方がおられます。不自由な体で口に絵筆をくわえて、たくさんの美しい花の絵を描き、そこに美しい詩を添えておられます。その美しい絵と詩は、毎年カレンダーになったりして、たいへん評判を得ています。

 星野さんはスポーツマンで大学を卒業するまで器械体操をやり続け、卒業後も中学校の体育教師になりました。ところが中学校の先生になって二ヶ月目、これからと言う時に、体育館で宙返りに失敗して首の骨を折り、手足が動かなくなってしまったのです。その時の絶望の気持ちを、星野さんはこのように語っておられます。

 「怪我をして、まったく動けなくなり、気管切開をして、口も利けなくなったとき、そういう日が幾日も幾日も続いた時、わたしは自分の弱さというものを、しみじみと知らされました。わたしは体力に自身があったため、いつの間にか、体を動かすことによって何でもできると錯覚していたようでした。自由にしゃべれたため、言葉で自分の心をごまかし、いつの間にか、それが本当の自分だと、勘違いしていたようでした。しかし、動くことも、しゃべることもできずに寝ている毎日は、覆っていた飾りをすべてはぎ取られた、ほんとうの自分と向き合わせの生活でした。本当の私は、強くもなく、立派でもなく、たとえ立派なことを思っても、次の日には、もういい加減なことを考えている、だらしのない私だったのです。鍛えたはずの根性と忍耐は、怪我をして一週間ぐらいでどこかに行ってしまいました」

 また、ある時、星野さんは、いつも自分のことを心配してくれる看護婦さんから「星野さん、ちきちょうなんて、言わないでね」と言われました。星野さんはまったく無自覚だったのですが、それ以来気をつけてみると、「今日は天気がいいなあ、ちきしょう」「ちきしょう、腹が減った」という具合に、確かに「ちきしょう」という言葉を連発して使っていることに気づいたのです。星野さんは、その時の自分の気持ちを反省し、こんな風にも言っています。

 「しあわせな人を見れば、憎たらしくなり、大けがをして病室に担ぎ込まれてくる人がいれば、仲間ができたようで、ほっとしたり、眠れない夜は自分だけが起きているのがしゃくにさわって、母を起こしたり・・・熱が出れば大騒ぎをして、わたしのまわりに先生や看護婦さんがたくさん集まってくるのにさえ、優越感を感じるような、なさけない自分と向きあわせの毎日だったのです。」

 さて、このような星野さんに、転機が訪れます。それはクリスチャンの友人から贈られた一冊の聖書でした。最初は、「とうとう神様にまですがりついたのか」と思われるのがいやで、聖書を開くのには抵抗があったそうです。しかし、この一冊の聖書の中に今の自分を何とかしてくれるものがあるかもしれないという密かな希望を抑えきれず、入院生活の色々な葛藤を重ね合わせながら聖書を少しずつ読み始めたのです。

 すると、ある御言葉が星野さんの心を捕らえました。マタイによる福音書11章28-30節、
 
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(新改訳)

 どうして、この御言葉が星野さんの心にとまったかと言いますと、神様は本当に不思議なことをなさるものでありまして、星野さんは貧しい農家の生まれで、ある時、畑に運び入れているため豚小屋の肥やしを籠に背負っておりますと、誰の者か分かりませんが十字架のついた墓地がありまして、ふと目を留めると、そこに「重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」ということが書いてあったのだそうです。星野少年はまさに肥やしという重荷を負った人でありましたから、その言葉が妙に印象に残るのです。その小さな出来事が、それから何年も経ってから、星野さんの人生を救うような大きな意味をもって働いてくるわけです。

 星野さんは、この言葉に親しみを覚えて、何度も何度もこの御言葉を反芻しながら入院生活を送りました。そして、イエス・キリストというお方がだんだんと心の中に入ってくるようになってきて、イエス様の愛によって心の重荷が軽くなっていくことを感じたというのです。

 こうして、星野さんは生まれ変わりました。「もしあの事故さえなければ」と悔やんだり、運命を呪ったり、他人との関わりにも素直になれない古い星野さんではなく、新しい星野さんが生まれたのです。新しい星野さんは、スポーツマンの古い星野さんと違って、手足が動かず車いすの生活を強いられる星野さんです。自信に満ちていた古い星野さんではなく、自分、心の弱さ、醜さをいやと言うほど思い知らされ、うち砕かれた星野さんです。しかし、そんな自分を変わることなく愛してくださるお方、イエス様を知り、イエス様を心に受け入れ、イエス様の愛と命に満たされて、本当に多くの人に慰めと励ましを与える素晴らしい絵を描き、詩を書く新しい星野さんとなったのです。

 このように、偽りに満ち、罪に満ちた古い自分に対する死を通して、神様の愛を知る本当の自分、新しい自分に生まれ変わっていくことができる、これが「わたしは復活である。私を信じる者は死んでも生きる」と言われたイエス様のお言葉であり、私の希望なのです。

 私は、ラザロの物語をお話しする際、最初から、どうしてイエス様はすぐにラザロのもとに駆けつけてくださらなかったのか、どうして死なないようにしてくださらなかったのか、ということにこだわってきました。そして、それは神の時である。神様は私たちに最高の贈り物をしようとチャンスを待っておられるのだということをお話ししてきたのです。では、その最高の贈り物とは何か。それは復活であり、命であるところのイエス様ご自身なのです。 
イエス様の死
 ただし、この最高の贈り物を受け取るためには、どうしても古い自分に死ぬと言う経験が必要です。復活は、死を通して与えられる新しい命だからです。

 さて、11章46節を読んでみましょう。

 「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。」

 ラザロの復活の奇跡を見て、イエス様をわが復活、わが命と信じる者も大勢いたのですが、中にはこのような奇跡を見て、その事実を認めているにもかかわらず、なお信じない者たちがいたということが書かれております。そして、エルサレムにいる宗教指導者たちに、ベタニア村で起こった出来事を、そして多くの者がイエス様に帰依したことを報告した、つまり告げ口をしたというのです。

 するとエルサレムの宗教指導者たちは最高法院を招集して、「イエスという男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか」と話し合ったというのです。48節の言葉は、たいへん興味深い言葉です。

 「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

 「我々の神殿」「我々の国民」と彼らは言います。神殿も、国民も、実は彼らものではなく神様のものであるはずです。しかし、それを「我々の神殿」「我々の国民」と言うところに、彼らの本心が見えてきます。つまり、彼らが守ろうとしているのは、実は神殿でもなく、国民でもなく、自分自身の立場、役得、名誉、誇り、財産にすぎなかったということが分かるのです。

 ところが、イエス様は神殿も、律法も、国民も、すべては神様のものですよ、と言われ、彼らの手からそれを神様にお返ししようとされたのです。しかし、それは困るということで、彼らは必死になってそれらものをイエス様から守ろうとした、その結果がイエス様への迫害であったということなのです。

 大祭司カイアファはこう言います。

 「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」

 「国民全体が滅びないように」などと大義名分を言っていますが、本心は「どうすることが好都合か」という自分たちの損得の問題なのです。自分を守るためには、イエス様を殺すこともいたしかたないというわけです。

 まったくひどい話だと思いますが、実は、私たちも、イエス様に対して、彼らと同じような躓きを覚えることがあるのではないでしょうか。私たちもやはり、「私の命」、「私の人生」、「私の体」、「私の家」、「私の家族」、「私の心」「私の思想」「私の名誉」、「私の誇り」と、何とか私を守ろうとしてしまうのです。そして、それが私たちのエゴとなり、神への反抗となり、私たちの命を罪の中に死ぬものとしてしまっているのです。

 イエス様は、それらのものを、一度、神様にお返ししなさい。そうすれば、すべてのものは神様の御手によって聖められ、あなたを生かすものとして、あなたの手に新しく与えられるのだと、お教え下さいます。古い自分に死んで、新しい自分として生まれ変わるというのは、そういう体験のことだと言っても良いでしょう。しかし、私たちは自分を神様にお返しすることができないために、イエス様をわが命、わが復活として生きることができなくなってしまうのです。

 あまり時間がありませんの、急いで三つのことを申し上げます。一つは、3節です。マルタとマリアは、「私たちの愛する弟ラザロ」とは言いませんでした。「あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言ったのです。愛する弟ラザロさえも、この姉妹はイエス様のものとしてお捧げしていたのです。このような信仰、このような祈りが、私たちにも必要なのではないでしょうか。

 もう一つは、16節で、イエス様がベタニア村に行こうとするとき、弟子たちは迫害を恐れました。すると、トマスが「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と申します。私たちがイエス様をわが命、わが復活として新しい命に生きるためには、このように主と共にいるためには自分をも捨てようとする大胆な信仰、勇気というものが、私たちに必要なのです。

 最後は、51-53節です。イエス様は私たちにそのような自我の死を求めるだけではありません。私たちに命を与えるために、イエス様はご自分の命を捨て給うお方なのです。大祭司カイアファの言葉はまったく身勝手から出た言葉ですが、実はイエス様が私たちに命を与えるために、そして散らされた神の子らを一つに集めるために、十字架にかかって死んで下さるということを、知らずのうちに預言しているのだと、聖書は解説するのです。そして、その通りに、イエス様が「わたしは復活であり、命である」と宣言されたその日から、イエス様の十字架への道は決定的なものになったというわけです。
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