ぶどう園の農夫の譬え<2> (火曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書12章1-12節
旧約聖書 イザヤ書12章1-3節
借りの世
 ある主人が、農夫たちにぶどう園を貸し与えました。そして、収穫の時期になりましたので、主人は農夫たちの働きの実りを受け取るために僕たちを遣わしました。ところが、農夫たちはその僕たちを次々と袋だたきにして追い返したり、殴り殺したりしてしまうのです。

 ぶどう園の主人は、自分の息子なら敬ってくれるだろうと考えまして、一人息子を農園に遣わしました。しかし、農夫たちは主人の息子を見つけと、敬うどころか「これは跡取りだ。こいつさえ殺してしまえば、ぶどう園は我々のものになる」と相談しまして、この息子を殺し、ぶどう園の外に放り出してしまったというのです。

 まったくむごたらしい話としか言いようがありません。しかし、この譬え話は、読み方によっては、「神の民の幸福な生き方」はどこにあるのかということを、私たちに教えてくれる話でもあるのです。前回はそのような視点から、この世は「仮の世」ではなく、「借りの世」であるというお話をしました。今日はそこのことを少し復習してから、次に進んで参りたいと思います。1節にこう記されています。

 「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」

 ここには、神様の創造の御業が語られています。神様はこの世界をぶどう園としてお造りになりました。なぜ「ぶどう園」なのでしょうか。それは、この世界が何の目的もなく存在しているのではなく、神様のために豊かな実を結ぶためにこそ存在しているのだということを物語っているのです。

 また、神様はこのぶどう園の管理を、農夫たちに任せられたとあります。農夫たちとは、この世界で神様の目的のために働く人たちのことであります。それは具体的には誰のことを言っているのでしょうか。直接的には、イスラエルの民のこと、特に祭司長たち、律法学者たち、長老たちのことを指しているのは確かでありましょう。しかし、彼等だけではなく、私たちクリスチャンも、神様のご用のために恵によって召し出された人間なのです。

 前回は洗礼式がありましたので、特にそのことを強調してお話をさせていただきました。クリスチャンになるということは、神様から新しい命を授かることであります。その新しい命には二重の恵みがあります。一つは、神の子として、神様の愛と保護の中に生まれ変わる恵みです。もう一つは、神の民として、神様のご用のために召し出されるという恵みです。どんな仕事でもそうであるように、神様のご用に生きるということも決して楽しいことばかりではありません。むしろ困難や試練も伴う人生に違いないのです。しかし、同じく苦労をしても、過ぎゆくものため生きるのと、朽ちることのない宝のために生きるのとでは価値が違います。神の民として召し出されるということは、私たちの人生が素晴らしい価値をもつようになるということでもあるのです。

 神様にそのような人生を与えられる前、みなさんはどんなに一生懸命に生きていたとしても、所詮「仮の世」を生きている人間にすぎませんでした。やがて過ぎゆくものの中で、過ぎゆくものを追い求めて生きていたのです。しかし今、みなさんは「借りの世」を生きる者とされたのです。神様の農夫として、神様の造られたこの世界が豊かに実を結ぶようにと祈りつつ、働きつつ、生きる者なのです。
神の不在
 ところで、1節にはもう一つ気になる部分があります。それは「旅に出た」という言葉です。

 これは、農夫である私たちにとってはちょっと心細い言葉ではないでしょうか。私たちを神の民として召し出して、「さあ、この世界で私のために働きなさい」と言ってくださるところまで良いのです。けれども、神様が旅に出てしまったら、私たちはいったいどうしたらよいのでしょうか。神様が不在のこの世界で、私たちにいったい何ができるというのでしょうか。私たちは神様のために一生懸命に生きるから、神様はいつも側にいて、私たちの働きを見守り、監督してほしいというのが、私たちの正直な思いなのです。

 しかし、現実は違います。神様は私たちにぶどう園を貸し与えて、そのままどこかに行ってしまわれたと、イエス様はおっしゃるのです。この世界は確かに神様のものでありますけれども、神様はこの世界にいらっしゃらないというのです。そして、この世界で神様の働きをしているのは農夫たち、つまり神様を信じ、神様を愛し、神様に仕えて生きている人たちであるというわけです。

 先週、八田桂寿さんをお招きしてお話を伺いした。八田さんは幼い頃、空襲にあい、大きな火傷を負って障害者となられました。そのため学校にも通わず、友だちとも遊ばず、子供時代を過ごされました。しかし、そういう八田さんに、イエス様は出会ってくださり、八田さんに素晴らしい人生を与えてくださったのです。

 イエス様が出会ってくださるとは、どういうことか。それは具体的には、ある絵描きさんとの出会いであったと、八田さんはお話しくださいました。その絵描きさんがイエス様ご自身であったということではありません。しかし、その方は自分が神様に与えられた信仰と恵みをもって、八田さんに聖書を読むことを教え、教会に導き、礼拝を大切にすることを教えてくれたのでした。その絵描きさんの向こう側に、私を救おうとする神様が、イエス様がいらっしゃったのだと、そういう証しだったのです。

 八田さんの言葉をそのまま繰り返すならば、「神様は、一度その者を救ってやろうと思われたなら、必ず誰か人間をその者の傍らに置き、生身の人間を通して働きかけ、生身の人間を媒介としてご自分へと導かれる」ということです。八田さんが、ここで「生身の人間を通して」と強調されたのは、決して神様の直接的な介在を否定しているわけではないと思うのです。けれども、人間が神様に仕えて働く、イエス様の証しを立てて生きていくということも、非常に大切はことなのだということを言われたのです。その信仰があるから、八田さんも自分自身の生身の体をもってイエス様にお仕えするという生き方をしておられるわけです。

 しかし、結局、人間の働きだけがあって、神様は何もしてくださらないのでしょうか。そうではありません。本当は神様がしてくださっていることがたくさんあるのです。聖書にも、神様がぶどう園に垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立ててくださったとあります。このイエス様のお話によれば、神様は何もかもゼロから始めよと言っておられるわけではないのです。この世界が愛と平和と義の実を豊かに結ぶために、神様がしてくださったことが先ずあるのです。その神様のお働きの上で、私たちが働くのです。

 神様がしてくださったこととは何でしょうか。それは、この譬え話の直接の聞き手である祭司長たち、律法学者たち、長老たちにしてみれば、モーセの律法ということでありましょう。律法というのは、神の教えです。彼らは律法に精通し、律法の権威であったかもしれませんが、自分で律法を考え出したのではありません。モーセを通して神が与えてくださったものなのです。それがあって、はじめて彼等は律法を研究し、律法を解釈し、人々に神の教えを伝える者となることができるわけです。

 私たちはどうなのでしょうか。神様は、私たちには律法に勝るもの、「イエス・キリスト」という神様の恵みをお与えくださいました。神様は赦しなき、望みなき、呪われた世界を私たちに委ねて、あなたがたの力で何とかしなさいと、旅に出て行かれたのではないのです。神様が私たちに委ねられた世界は、神の恵みによって、イエス様がすべての人のために十字架にかかって死んでくださった世界です(『ヘブライ人への手紙』2章9節)。イエス様によって罪の赦しという救い、永遠の命という希望、聖霊の満たしという祝福を約束された世界なのです。神の恵みを土台にして、この世界が愛と平和と義の実を結ばせるように、あなたがたは力を尽くして神様に仕えなさいと言われているわけです。

 そういうことが分かりますと、神様が旅に出られたということは何も私たちを放っておられるということではないということも分かるのです。神様は私たちを大きな恵みの中においてくださいました。その神様の御心にお応えする者として、私たちは神様にお仕えして生きるのであります。

 私は、神様が「旅に出た」という譬え話の意味をこう考えます。それは神様がこの世界に対して何もしてくださらないという意味ではありません。神様には神様のなすべき事があって、この世界のために休むことなく働いていてくださっているのです。しかし、わたしたちにもまたなすべき事がある。それは神様のお働きからすれば僅かなことにすぎませんけれども、私たちの実感からすれば本当に多くのことが私たちのなすべき事として委ねられているのです。もちろん、一人ですべてをするのではありません。ひとりひとり神様に与えられた分に応じて、また互いに励まし合い、助け合いながら、自分の中の精一杯をもって神様にお仕えして生きることが期待されているのです。 
収穫は誰のものか?
次に、2節を読んでみましょう。

「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。」

 「収穫の時」と言いますと、この世の人生の終末に、神様の御前で私たちの人生の総決算がなされる日ということを考えるかもしれません。しかし、ここでは日常的な収穫の時と考えても良いと思うのです。たとえば、私たちの働きの実りが与えられる時として給料日があります。あるいは商売に成功して多くの利益を手にする時というのもあります。またお金だけが収穫ではありません。私たちの働きが人に評価される時、名誉を受けるとき、また喜びに満ちた結果を生むとき、そういう時、はたしてそれは本当に私たちのものなのでしょうか。

 「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。」

 イエス様は、私たちが働きの実りを手にするとき、神様が現れて、「それは私のものだ。私に返しなさい」と主張されるというのです。みなさんはどう思われるでしょうか。納得できるでしょうか。納得できない農夫たちはどうしたか。こう書いてあります。

 「だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。」(3-5節)

 これはまったくひどい話だと、私は最初に申しました。しかし、本当にそんな風に言う資格があるのか、ということを改めて考えてみたいのです。

 もし、農夫たちのしていることがひどいと思うなら、私たちは、自分の苦労に満ちた働きの実りである給料を、売り上げを、名誉を、喜びに満ちた結果を、神様が「それは私のものだ。わたしに捧げなさい」と主張した時、喜んでそれを神様にお返しする者でなければなりません。これは神様のお金です。これは神様の名誉です。私ではなく神様こそお受けになるべきですと、言えなくてはなりません。かのヨブのように「主が与え、主が取り給う。主の御名はほむべきかな」と言えなくてはなりません。

 その時に「神様はひどい。わたしのせっかくの苦労の実りを奪ってしまわれた」なんて言うようであれば、私たちもまた農夫たちと同じなのです。彼らを決して酷い人間だとはいえない者なのです。

 では、自分もまたこの農夫たちと同じことをしたいのかと言えば、それも違います。ただ、どうしてこの農夫たちがこんな勘違いをしてしまったのか、その問題点はどこにあったのかということが分かるような気がするのです。それは、やはりぶどう園の主人(=神様)が旅に出ていたということがポイントになると思うのです。先ほど申しましたように、それは決して神様がどこにもいないという意味ではなく、また何もしておられないという意味でもないのです。そのことに気がつきませんと、自分一人で一生懸命に生きているつもりになってしまうのです。

 実際に自分が一人でやってきたことなど、いったいどれだけあるのでしょうか。苦労もした。努力もした。犠牲も払った。辛い経験も乗り越えてきた。けれども、それは本当に自分だけの力であったでしょうか。そうではなかったはずなのです。私たちにこの命を、体を、人生を、家族を、友を与えてくださったのは神様なのです。

 ぶどう園の農夫たちにしても、自分でぶどう園を開墾したわけではありません。垣根を巡らしたわけでもありません。見張り櫓を建てたわけでもありません。ぶどうの木を植えたわけでもない。ただ、それをすべて主人の手から受けとって、水をやり、肥料をやり、害虫を取り除くぐらいなのです。しかし、そういう神様の恵みというのは、特別なこととしてではなく、ごく当たり前のこととして私たちに与えられていますから、気づかないまま過ごしてしまうのではないでしょうか。

 たとえば、私たちが毎日ご飯を美味しく頂くことができることも、元気で働くことができることも、こうして礼拝に来ることができることも、実は当たり前のようでいて当たり前ではないのです。それは健康を損なってみればすぐに分かることです。あるいは一つや二つ、私たちの心の平安を乱すようなことが身に振り抱えれば、ご飯も喉を通らなくなり、仕事にも精が出なくなり、教会に行く足だって重くなって、ああご飯が美味しくいただけることも、元気で働けることも、こうして教会にこられることも、すべては神様のお陰なのだなと気がつくのです。

 しかし、普段は、そのことをまったく忘れている人が多いのです。感謝を忘れているというなら、それはまだマシな方です。なぜ感謝をしなくてはいけないのか、そのことがまったく分かっていない人も多いのではないでしょうか。そういう人は、私は神様に世話になったことがない、すべては自分の努力の賜物だ、と胸を張っていうわけです。

 このような勘違いは、あまり罪のない些細な勘違いのようにも思えますが、実はそれこそが、あの農夫たちの心にあったことなのです。この勘違いこそが、神様を邪魔者にし、御言葉を侮り、神の僕らを迫害する、たいへん罪深い、歪んだ生き方につながってくるのだということを、イエス様は教えてくださっているわけです。 
主人の愚かさ
 そういう意味では、この農夫たちのしていることというのは決して驚くに及ばないのです。人間は神なしに生きたいのです。今も多くの人たちがその過ちの中におり、私たちもかつては確かにその過ちの中にいたのであります。

 それとは別に、本当に驚くべきことが、私たちの理解を絶することが、この譬え話の中にはあります。それは、このぶどう園の主人の考え、そして行動です。

 「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。」(6)

 この主人は、僕らが何人も酷い目に遭わされているのに、「自分の息子なら敬ってくれるだろう」と考えて、そういう凶暴な農夫たちのところに愛する息子を送り込もうと考えたのです。人がいいという程度の話ではありません。あれだけ酷いことをした人のところに、愛する息子を送り込むなどというのは残酷極まりない話でありますし、愚かさの極みだとも言えるでしょう。このような主人の考え方、行動こそ、この物語の中で本当に異常なことだと思うのです。その結果は目に見えております。

 「農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。」(7-8)

 この物語が、イエス様の十字架を暗示していることは、皆さんもお分かりのことだろうと思います。なぜ、イエス様は十字架におかかりになったのか。この譬え話はそのことをよく物語っているのです。それは神なしに生きたい、神に代わってこの世界に君臨したい、神などというものは邪魔者だと思い上がった人間の仕業であるということが一点です。しかし、それだけではないのです。殺されるということが分かってながら、御子をこの世にお遣わしになった神様の御心、理解を絶する、従って言葉には尽くせない神様の御心というものが、イエス様の十字架の出来事にはあるのです。

 聖書にはこんな風に言われている箇所もあります。

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(1コリント1:18-25)

 自分の独り子を罪深き人間の世に送り込むなどというのは、自分の手で独り子を殺したも同然のことであります。ですから、十字架というのは、「神の愚かさ」、「神の弱さ」に見えるというのです。しかし、この神の愚かさの中に、私たちを救う神の知恵、神の力、そして神の愛があるのだというわけです。それが分かるには、私たちの知恵や力というものを飛躍して、十字架を与え賜う神様の御心に直接触れるような経験が必要なのかも知れません。

 山谷伝道所を開設して、社会の底辺にいる人たちに神のご奉仕をすることに生きられた中森幾之進先生の十字架体験についてお話しさせて頂きたいと思います。

 中森先生は、徳島県、寒村の貧しい農家に生まれ、四人の弟妹たちの面倒を見ながら苦学して商業高校を卒業し、やがて関西学院宗教主事の柳原正義牧師の助手となり、構内の宗教館に住み込みで働く事になりました。これを機には先生は受洗をなさり、神学部にも入学し、昼間は学生として学び、夜は柳原主事の許で働く様になったといいます。

 神学生になりますと、「神の国の実現のために、被抑圧階級の味方となって働こう」と志し、さっそく被差別部落に行って日曜学校を開いたり、農民組合の結成集会に応援に行ったり、様々な活動を始められました。

 しかし、その高い志が色々なことが重なって打ち砕かれ、もぎ取られてしまうという経験をなさるのです。たとえば賭博に手を出して金に困った弟が強盗傷害罪を犯して、刑務所に入れられてしまいます。中森先生は、一家の危機を救うために末の弟を引き取って、小学校に通わせながら、自分は勉強したり、働いたり、奉仕活動をしたりと、非常に忙しい生活を送るようになりました。そして、そのために過労と栄養失調で体を壊してしまうのです。また、被差別部落や農民組合での活動によって特高刑事に目をつけられ、拘留されて苛酷な取り調べを受けるようなこともありました。

 それでも先生は、牧師になって神様のために働こうと耐え忍んでおられたのですが、頼りにしていた柳原主事が体を壊し、学校をお辞めになってしまったのです。それを機に、彼は助手の仕事を失い、宗教館を追い出され、小さな弟と二人、収入もなく、住む場所もなくなってしまいます。借金をして廃屋のようなところに住みますが、毎日の食事にも事欠く有様であったと言います。それだけではありません。欠席が多い事や思想犯として拘留された事を理由に神学部まで退学をさせられてしまったのです。

 ついに、先生はまったく絶望し、神とキリストを呪い、教会を憎み、餓死しようと決心をしたのでした。先生は聖書と赤鉛筆とタオル一本を持って有馬の山奥に行きました。そして、山の中で聖書を開くと、何も食べず水だけを飲んで三日間、これまで赤線を引いた箇所に全部赤鉛筆で「ウソ」と書き込んでいきました。

 四日目の朝、もしや読み落としがあったら自分の死は恥になると思い、再度聖書を開きました。イエス様と並んで十字架に処刑された二人の犯罪人を描いた所が目に留まりました。一人はイエス様を呪い、もう一人はこれを戒め、御国に入るとき思い出してくださいと頼んで受け入れられた箇所です。その時、一条の光が彼の魂を貫きます。自分はあの犯罪人のように主を呪ったが、今もう一人の犯罪人のように主に赦され受け入れられているという主の大きな愛に包まれているのを実感し、「主よ、中森を赦してください。中森の死を私に死なせてください。そして中森をあなたの子として愛し生かしてください」と祈り、喜びと希望に満たされて山を下りました。さらに、帰ってみると、不思議にも、ある教授の執り成しで卒業できるようになっていたというのです。

 イエス様の十字架というのは、滅び行く者には神の愚か、神の無能さにすら見えるけれども、実はそこにこ私たちを救う、そして新しく生まれ変わらせる神の知恵、神の力、神の愛があるのであります。

 イエス様は譬え話をされた後、こう言われました。

 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

 これは、十字架にかけられたイエス様が、つまり人々に殺されて捨てられたイエス様が、復活なさって、新しい神の民を形成されるという意味で語られているのです。私たちは神様を邪魔者にし、イエス様を十字架に殺してしまった罪人でありますけれども、今はそのイエス様の十字架によって救われ、神の民として新しい命に生かされていることを感謝して、日々を歩んでまいりたいと思います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp