皇帝への税金 (火曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書12章13-17節
旧約聖書 マラキ書3章6-12節
同じ穴の狢(むじな)
 イエス様が十字架におかかりになる三日前の話しです。イエス様は神殿で教えておられました。そこに、何とか理由を見つけてイエスを捕らえたいと願いた人たちが、手を変え、品を変え、イエス様のところにやってきては問答を繰り返し、言葉尻を捕らえようと躍起になっていたのです。ですから、この日は「論争の日」とも言われているというのは、前にもお話しした通りであります。

 イエス様のところにやってきたのは、いったいどんな人たちだったのでしょうか。前には、「祭司長、律法学者、長老」という三種類の人たちが登場したということが書かれていました。今日のところには「ファリサイ派とヘロデ党」という二つのグループが名を連ねています。さらに、この後の話しをみますと、「サドカイ派」の人々がイエス様のところにやってきたということも書かれています。要するに、当時のユダヤ人社会において指導的な立場にいた人たちが総出で、イエス様を捕らえようとしていたというのです。

 ところが面白いことに、この人たちは、日頃、お互いにあまり仲がよくないグループでした。

 たとえば、「ファリサイ派」と「ヘロデ派」という人たちが一緒にやってきたと書いてあります。「ファリサイ派」は、律法の研究や実践に非常に熱心なグループで、現実に妥協しないユダヤ教の原理主義者です。政治的には、ローマの権力に媚びることは神への背信行為だと決めつけていた反ローマ主義者でした。

 他方、「ヘロデ派」はその名前からも分かりますように、ヘロデ王家をもり立てようとする政治的な党派でありました。ヘロデ家というのは、ハスモン王家に仕える将軍の家でありました。ところが、王家に後継者争いが生じますと、そこにローマ帝国が干渉してきて、そのローマの権力を後ろ盾にしてまんまとユダヤの王家の地位に成り上がってきたのが、ヘロデ王家なのでした。ですから、ヘロデ党というのは親ローマ主義者です。

 反ローマ主義者と親ローマ主義者、日頃は深い対立関係にあった両者が、この時は手を取り合って、イエス様に挑戦してきたというのですから、おかしいことではありませんか。

 ついでに、もう少しお話しをしておきますと、ファリサイ派とサドカイ派、これも実は仲が悪いのです。ファリサイ派の人たちというのは主に手工業に従事する職人たちでありまして、そういう人たちの中から特に個人的な自覚によって律法に熱心になっていった人々が集まって出来たグループなのです。ですから、身分的にはそんなに高くありません。中産階級と言ったところです。
 
 それに対して、サドカイ派は先ほど申しましたハスモン王家の時代に祭司の一族として身分を与えられた特権階級でした。彼らは自分たちの特権的な仕事や身分を守ることに熱心で、ファリサイ派のような律法研究に対しては興味を示さず、批判的な立場をとっていたのです。ただし、政治的にはハスモン家を支持しているわけですから、当然、反ヘロデ、反ローマというで、ファリサイ派と一致します。

 さらにまた、祭司長、律法学者、長老たちもお互いに仲が良くありませんでした。祭司長たちというのは、サドカイ派に属する人たちです。律法学者というのはファリサイ派に属する人たちでした。長老たちというのは、これはちょっと分からないのですが、王室に仕える人たちであったとすればおそらくヘロデ党に近い人たちでした。

 このように宗教的、政治的に対立して、お互いに絶対に譲り合えないと言っていた人たちが、「反イエス」ということで、いとも簡単に手を取り合って、仲良く共同戦線をはっているわけです。

 これを見て思うのですが、私たち人間はお互いに身分が違うとか、主義が違うとか、性格が違うとか、ほんのちょっとで違いがあれば、「あの人とは私と違う」と言って、人を蔑んだり、自惚れたりしています。場合によっては、それが戦争になったりもします。だけど、本当は同じ穴の狢なのではないでしょうか。こういうジョークを聞いたことがあります。「人間が戦争をやめて一つの地球国家になるためにはどうしたらいいのか。それには宇宙人が地球に攻めてくればいいんだ」 なかなか的を射たブッラク・ジョークだと思うのです。要するに、人間というのはどんなにお互いに違いを主張し合っても、結局は、みんな同じ穴の中に住む運命共同体なのだということなのです。
天動説の信仰
 その狢たちが住む「同じ穴」とは何か。あまり立派な穴とは言えません。人間というのは立派さよりも、醜さにおいて多くの共通点をもっているわけでありまして。一言で言えば「罪の穴蔵である」と言ってもいいのではないでしょうか。

 罪の本質が何かと言えば、自己中心です。この世界は神の世界でありまして、私たちもまた神のものであります。神様こそがこの世界の主であり、私たちの人生の主であられるのです。それを認めないで、この世界から神様を追い出そうとし、自分の人生から神様を閉め出そうとしている。それが自己中心という罪なのです。

 先日、驚くようなニュースを耳にしました。小学4〜6年生の約4割の児童が、天動説(「太陽が地球の周りを回っている」)を信じているという統計結果が出たというのです。これは学校教育の問題だとは思います。けれども、今の子供達は天文の知識もさることながら、人生観、世界観のコペルニクス的転換を果たしていないのでないかという危惧まで感じてしまいました。世の中というのは自分を中心に動いているという幼児期の感覚から抜け出せていない子供達が多いように思うのです。小さなうちは仕方ありません。しかし、小学校の高学年になっても、挨拶もできず、礼儀も知らず、思いやりとか、協調性に著しく欠ける子供が、今は結構多いのです。

 さらにまた、それは現代っ子だけの問題かというと、決してそうではありません。さっきも言いましたように、「今の子はどうだ」とか「昔は違った」などという区別や差別化もあまり意味がないのでありまして、人間というのは、自己中心から神中心への転換という究極のコペルニクス的転換を果たさなければ、みんな同じ罪の穴蔵に住む狢なのです。

 ただひとりイエス様だけは違われた。イエス様は、神様から遣わされてきて、その汚く臭い穴蔵から狢を救い出し、神様のもとに連れて帰ろうとなさったわけです。ところが、ここで狢はいっせいにイエス様に噛みついてしまったのです。ファリサイ派の人々も、ヘロデ党も、祭司長、律法学者、長老たちも、サドカイ派の人々も、普段はいがみ合っていたのですが、イエス様が現れるとたちまち団結して、俺たちの大切なねぐらに何をしに来たのだ、俺たちはうまくやっているのだから邪魔をしないでくれ、と噛みついたのです。

 彼らは無神論者ではありませんでした。しかし、「主よ、主よ」と唱える者が、必ず信仰者なのではありません。また、聖書を研究している人が必ず信仰者なのではありません。信仰者であるということは、神の主権を認めるということ大事なのです。神の主権とは、この世界においても、自分の人生においても、神様が自由に振る舞われる権利です。しかも、神は愛なり、神は善なり、神は義なりと信じ、その神様の主権を心から歓迎するのが、信仰者なのです。

 こんな話しを聞いたことがあります。昔々、アイルランドの高い山に、一人の隠遁者が生活していました。その地方の領主は彼を尊敬したので、ある日、高価な器を贈り物として届けさせました。それを渡して帰ってきた家来に聞くと、隠遁者の反応は「感謝」の一言だけでした。領主は「たったそれだけとは無礼者!」と怒って、器を取り返してくるように命じます。そして、器を持ち帰ってきた家来に聞くと、隠遁者は今度もただ一言、「感謝」とだけ言ったというのです。領主はびっくりしました。素晴らしい贈り物をもらった時にも「感謝」、奪われた時も「感謝」。「彼こそまさに聖人だ。この器をすぐにもう一度彼の所に持って行きなさい」と、領主は命じたというのです。

 「神を信じている」と言いながら、神様がくださったものに、「これは良い」とか、「これは悪い」とか、そんな選り好みをしていたら、それは果たして信仰でしょうか。信仰とは、神様のなされることを私たちが評価することではなくて、自分がどう思うとしても「神様がなされたことだから必ず善い物に違いない」と神様の為し給うこと信じることなのです。当座は思わしくなくても、きっと善い結果をもたらすことになるのだと信じることなのです。

 ところが、ファリサイ派にしろ、その他のグループの人たちにしろ、「主よ、主よ」と言いながら、結局は自分たちの都合、利害関係が一番大事であったのです。その証拠に、利害関係さえ一致すれば、お互いに主義主張は関係なく手を結ぶことができる。そういう自己中心の、言ってみれば天動説の信仰でありますから、イエス様が愛をもっていらしてくださっても、敵意をもって噛みついてしまうということが起こるわけです。信仰者になるということは、このような天動説の信仰から、地動説の信仰をもった人間へと、つまり自分を中心に神を信じる信仰から、神様を中心に自分を考える信仰へと、コペルニクス的な転換を遂げなければならないわけです。
次元が違う生き方
 ただ、こういう人たちは決して馬鹿ではありませんから、そういう下心を上手に隠して、いかにも敬虔な信者らしく振る舞うこともあるわけです。今日のところでも、まるでイエス様に教えを請う者であるかのように近づいてきて、その実、隙あらば言葉尻を捕らえ、イエスを陥れようとたくらんでいたのだというわけです。

 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」

 この丁寧すぎるほどの言葉の中に、イエス様を斬りつけようとする刃が隠されています。「皇帝に税金を納めるべきか、納めてはならないのか」この問いは、どちらに答えても、イエス様が必ず不利に陥る仕掛けになっているのです。

 たとえば、「納めなさい」と答えたら、ローマの重税に喘ぎ、それからの解放を願ってやまない民衆がイエス様の敵となるでしょう。「納めるな」と答えれば、ローマへの反逆をたくらむ危険な指導者として、ローマの官憲が黙っていないでしょう。どうにもかわしようのない罠が、彼らの問いの中にしかけられているのです。

 しかし、イエス様はこの難問にいともたやすくお答になってしまうのです。イエス様は、「デナリオン銀貨を見せてご覧なさい」と言われました。彼らが取り出すと、「そこにあるのは誰の肖像と銘か」と、お尋ねになります。当時、通用していたデナリオン銀貨には、皇帝ティベリウスの肖像が刻まれ、「ローマ皇帝は神の子である」と銘打ってあったそうです。ですから、彼らは「皇帝のものです」と答えます。そこで、イエス様は、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、お答えになったというのです。

 これを聞いて、「彼らはイエスの答えに驚き入った」と書いてあります。驚いたから、信じたというわけではありません。イエス様は信じる者だけではなく、信じない者にも驚くべき御方なのです。それは、イエス様の生きておられる次元が、私たちとは全然違うところにあったからなのです。

 たとえば『マタイによる福音書』には、「山上の説教」というイエス様の教えがまとめて書かれているところがあります。その中に、「貧しい人は幸せである」とか、「右の頬を打たれたら、左の頬を向けよ」とか、「敵を愛しなさい」とか、「狭い門から入れ」とか、有名なお言葉が幾つも出てきます。そして、それを聞いて、やはり群衆は驚いたということが書かれているのです。

 「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(『マタイによる福音書』7章28-29節)
 
 どうして驚いたのか。無名の教師であるイエス様が、どんな立派な先生より素晴らしいお話しをしたから驚いたのか。そうではないのです。イエス様は教えというのは、普通の意味では決して素晴らしいとはいえないものなのです。たとえば「右の頬を打たれたら、左の頬を向けよ」という教え一つとっても、私たちの生き方や、価値観から言ったら、これは素晴らしいとは言えません。正しいとも思えないのです。ただ一つはっきりと言えることは、私たちに生き方や考え方とはまったく別次元のことをイエス様は仰っているということです。

 「敵を愛せ」とか、「狭き門から入れ」ということもそうです。「貧しい人は幸いである」とか、「迫害されたら喜びなさい」ということそうです。こういう教えは、私たちが考え得るような善悪や愛の次元を越えているのです。人々は、イエス様の中には、私たちが考えもしなかったような生き方があるのだということを見て取り、そのことで驚いたのです。
神のものは神に
 それと同じ驚きを、ファリサイ派やヘロデ党の人たちは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という答えの中に感じたのでした。

 次元の違いは、「返しなさい」という言葉に表れています。実は、彼らは「返すべきでしょうか」と尋ねたのではありません。「納めるべきでしょうか」と尋ねました。「納める」というのは「与える」という言葉です。「与える」と「返す」では意味が全然違うのです。「返す」というのは、それが自分のものではないから返すのであります。そこのところに、イエス様の生きておられる次元がありました。

 イエス様は、御自分の命も、世の人を救うというお仕事も、お集めになった弟子たちも、はたまた皇帝も、この世界のすべてのもの、御自分の人生のすべてのものは、神様のものであるという次元で生きておられました。神様が与えてくださったものを、あれが善いとか悪いとか評価したり、あれは価値が高い、これは価値が低いと値段をつけたりすることは、イエス様の生き方にはないのです。神様に与えられたものすべてに感謝を込め、命を注いで生き、それを二倍、三倍にして神に返していくこと、神のものを神に返すこと、それだけがイエス様の生き方なのです。

 ファリサイ派とヘロデ党の人々は、そのことに驚いたのです。彼らは自分が稼いだものは自分のもの、キャリアも、名誉も、自分の人生に属するものは全て自分のものだと思って生きていました。それを増やすことや、守ることが人生だと思っていました。そいう生き方をしている彼らには、イエス様のような答えは決して思いつかないものだったからです。

 だいたい納税の問題というのは、自分のものはあくまでも自分のものであり、その損得こそ人生の重大事だと思っているところから起こってくるのです。神のためだ、信仰のためだと、どんなにもっともらしい理屈をつけたとしても、税金を納めたくないと言う人たちは、結局は自分のものが権力者によって搾取されると感じるから納めたくないわけです。税金を納めるべきだという人たちも同じ事で、それによって自分たちに利益が還元されると思うから納めようというわけです。どちらにしても、自分にとって損か得かということが問題なのです。

 イエス様には、そういう損得勘定はないのです。なぜなら、自分のものは神様のもので、いずれお返しするものだと思っていらっしゃるからです。ですから、皇帝のものだと思うならば、皇帝に返せばいいじゃないか。神様のものだと思うならば、神様に返せばいいじゃないかと、いともあっさりとお答えになります。というのは、イエス様にとっては、どっちにしたって、結局は神様のもとに返っていくものだからなのです。

 皇帝とても神様のものなのです。聖書にも「神に由来しない権威はない。今ある権威はすべて神がお立てになった」(ローマ13:1)と書いてあります。それならば、皇帝に対する自分の分を果たすということが、神のものを神に返すということになるのではないでしょうか。

 ただし、皇帝に対する自分の分を果たすというのは、皇帝に従うことではなく神に従うという意味においてなされなければなりません。神に従うのですから、場合によっては皇帝と真っ正面から闘うことが、皇帝に対する自分の分を果たすことになるかもしれません。もちろん、皇帝に仕え、皇帝を助けることが、自分の分を果たすことである場合もあるのです。何が何でも反権力というのが、信仰者の生き方ではないのです。

 同じように、家族や友人に贈り物をするにしても、病める人をお見舞いするにしても、貧しい人に施しをするにしても、教会に献金するにしても、誰に何をするにしろ、あるいはしないことも含めて、それらの人々に自分の分を果たすということは、結局は神様に仕えることなのです。神様への感謝を込めてお返ししていくつもりで、人を愛し、人に仕え、場合によっては人を戒め、またお捧げしていく。それが神のものを神に返すという生き方です。

 今日のお話しの最初に、自己中心から神中心へとコペルニクス的転換をすることが必要なのだということを申しました。ここでも同じ事が言えるのです。イエス様は、自分のために儲けようとする生き方をしている人々に対して、神に感謝して、神にお返ししていく生き方をお示しになりました。「神のものを神にかえす」、この新しい生き方を、イエス様は私たちに与えようとしてくださっているのです。
目次

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