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今日は「金持ちとラザロ」と言われる譬え話について二回目のお話しです。
ある金持ちがいました。きらびやかな着物をまとい、贅沢三昧の暮らしでした。この金持ちの門前にラザロという乞食が横たわっていました。金持ちの家から出る残飯でもいい、とにかく食べ物にありつきたいと思っていたのです。ラザロは可哀相なことに全身出来物だらけで、犬が来て体をなめ回す惨めさでした。
このように二人のこの地上での生活は、同じ人間とは思えないほどの差がありました。しかし、死はすべての人に平等に訪れます。やがてラザロは死に、金持ちも死んで葬られました。ところが、そこで二人の立場はまったく逆転してしまったのです。ラザロの魂は天使たちによってイスラエル民族の父祖であるアブラハムのもとに連れてゆかれ、大いなる慰めを受けました。しかし、金持ちの魂は、灼熱の炎の中に連れて行かれ、絶え間ない苦しみを味わうことになったのです。
炎の苦しみの中で、金持ちが目を上げると、そこにアブラハムとラザロが共に宴席についているのが見えました。彼はあらん限りの声をあげ、「父アブラハムよ、どうぞ、お願いでございます。ラザロをよこし、水を浸した指で、ほんのちょっとでも、この焼けた舌を冷やさせてください。」と、助けを求めます。しかし、アブラハムの返事はつれないものでした。
「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」(25-26)
アブラハムに拒絶された金持ちは、自分が助からないならば、兄弟たちが自分と同じ目に遭わないようにと願い、このように言いました。
「ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」(27-28)
しかし、アブラハムは答えました。
「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」(29)
「モーセと預言者がいる」というのは、モーセと預言者たちによって書かれた聖書があるではないかということです。その聖書をよく読んで、モーセの教える律法と、預言者たちの警告に耳を傾けていれば、それで十分に分かるはずだと、アブラハムは答えたのでした。
しかし、金持ちは「そうではない」と、アブラハムに食い下がります。
「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」(30)
どうも、この金持ちの兄弟たちというのは、熱心に聖書を読むような人たちではなかったようです。ですから、聖書を通して悔い改めるということはないだろうと、金持ちは考えているのです。しかし、たとえ聖書に不熱心な輩であっても、もし死者の国からラザロが現れて、彼らに忠告をしてくれるならば、彼等もきっと恐れて悔い改めに違いない、だからラザロを遣わしてほしいのだと、この金持ちはアブラハムに言っているのであります。
しかし、アブラハムはその申し出をきっぱりと断りました。
「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」
聖書を読んでも悔い改めないならば、たとえラザロが死者の国から現れたところで同じ事だ、というわけです。このことについては、今日においてもこの金持ちのように「何か徴があればもっと確実に信じることができるのに」とか、「どんな不信心な人も悔い改めるのに」と考える人がいます。しかし、そうではないのでありまして、実際、アブラハムが言うとおりなのです。たとえばモーセも人々の前に数々の奇跡を行いました。しかし、モーセの言葉をきちんと心に刻み込もうとしない人たちは、どんな奇跡をみても決して悔い改めて、その生き方を変えようとはしなかったと言われているのです。
また、イエス様の数々の奇跡をもって神様の祝福の力というものを表されました。しかし、それを見たすべての人が信じたかというと、決してそうではありませんでした。たとえ一時は信じても、そういう信仰が心の深いところで刻み込まれた信仰ではありませんから、感動が薄れていくと信仰まで薄まっていくということが起こります。また、否定しがたい奇跡を見ても、イエス様の教えをどうしても受け入れ難いために、イエス様の力を神の力ではなく、サタンの力だと言ったりする人もでました。
聖書の中だけの話ではありません。自分自身の信仰生活を振り返ってみても、あんなに素晴らしい神様のみ業を見せられたというのに、再び信仰を弱くして、心迷い、愚かな道に迷い込んでしまうということは度々あります。信仰というのは見ることによってではなく、聞くことによって、そして御言葉を心にしっかりと刻み込むことによってのみ与えられるのです。 |
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以上が、金持ちとラザロの譬え話のあらましですが、前回は「富の配分の不公平さと神の摂理」ということについてお話をしました。そのことについては多くを繰り返しません。結論だけを申しますと、『箴言』22章2節にこのような言葉があります。
「金持ちと貧乏な人が出会う。主はそのどちらも造られた」
神様はこの世に豊かな人と貧しい人をお造りになりました。これは一見不公平のようですが、実はそうではないということが、この譬え話から教えられるのです。人間の人生というのは、第一幕が終わると第二幕があります。そこですべてが調整されるということなのです。ラザロは、生前、悪いものを受けたという理由だけで、人生の第二幕においては慰めの場所が与えられました。しかし、金持ちは生前良いものを受けたのに遊び暮らすばかりで、その富を隣人を豊かにするために用いなかったのです。それゆえ、人生の第二幕では苦しみの場所に置かれました。
この譬え話では、極端な金持ちであるラザロと、極端な貧乏人であるラザロが登場してきますが、普通は、一人の人間の中に豊かさもあり、貧しさもあるのです。豊かさが大きい人もあれば、貧しさが大きい人もあることでしょう。しかし、神様は公平なお方でありまして、私たちは貧しさにおいて神様と共に生きるようにされており、豊かさにおいては隣人と共に生きるように求められているのであります。
極端に貧しいラザロの場合は、すべてが貧しさでありましたから、それだけで慰めの場所が与えられました。極端に豊かな金持ちはそれだけ多くの隣人に対する責任が神様に求められておりましたから、第二幕においては厳しい裁きを受けました。私たちの人生にも、このような神様の公平さがあるのでありまして、豊かさの大きい人はそれだけ隣人への務めがおおきく求められているのでありまして、逆に貧しさの大きい人はそれだけ神様の憐れみが近くにあるのです。 |
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さて、今日はさらにこの譬え話の後半に注目してみたいと思います。ここには、先ほど「人生の第二幕」という言い方をしましたが、要するに死後の世界のことが描かれているのです。とはいえ、これは一つの譬え話の中での話でありますから、この描写そのものも譬え話として語られているとも言えなくはありません。つまり、死後の世界はこうなっていると、イエス様が描いて見せたというよりも、当時の人々の一般的な考え方にならって死後の世界を描いたということであります。
実は、聖書には思ったほど死後の世界について詳細なことが描かれているわけではありません。地獄についても、天国についてもそうなのです。ですから、聖書の学者によっても色々な考え方があるのですが、その上で申しますと、どんな人間も死んでから一度「陰府(よみ)」という世界に行くと言われています。そして、今日の譬え話を参考にしますと、その陰府も決して一様ではなくて、ラザロが行ったような慰めの場所と、金持ちが行ったような苦しみの場所があるようなのです。
しかし、これはいわゆる天国と地獄ではありません。陰府なのです。陰府というのは天国でもなければ、地獄でもありません。死んだ者は最初に行くところなのです。死者の国と言っても良いかもしれません。
死んだ者は永遠に陰府に留まるのでもありません。終わりの日、これは新しい天と地が来る日でありますが、その日、今生きている者も、すでに眠りについた者も、皆、イエス・キリストによる最後の審判の前に立たされます。そこでキリストの裁きを受けて、永遠の命を受けて天国で生きる者と、第二の死という永遠の死を受ける者とが分けられるのです。
そうしますと、私もよくこういう言い方をするのですが、「天国の○○さんが」などという言い方は厳密に言うと間違いということになるのでしょうか。私はそんな風には考えておりませんで、ラザロのように慰めの場所に行った者は、すでに天国に行ったと言っても間違いではないのです。イエス様と共に十字架にかかった二人の強盗のうちの一人が悔い改めて、「イエス様、あなたが天国にいらっしゃるときには私のことを思いだしてください」と願いました時に、イエス様は「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言われました。イエス様の約束は必ず実現されるのでありますから、天国を約束された者は陰府に行っても天国のような慰めの場所が与えられ、最後の審判においてそれが確実に与えられるのだと言えるのです。 |
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それならば、陰府の苦しみの場所に行った者は、確実に地獄に堕ちるのではないか。それなら、地獄に行ったといっても同じではないかということになります。確かに、もし確実に地獄に行くというのならば、その通りだと思うのです。けれども、実はこれは賛否両論ある考え方ではあるのですが、たとえ陰府の苦しみの場所に行った者であっても、そこで福音を信じて悔い改めるならば、第二の死を免れ、天国に行くことができるという聖書の読み方もあるのです。
これをセカンドチャンスと言います。この地上での生活において、キリストを知らないで死んだ者、あるいはキリストを信じることができないで死んだ者、あるいは裏切って死んだ者が、陰府においてもう一度悔い改めるチャンスが与えられるのだという考え方です。
セカンドチャンスがあるのかどうか、これはみなさんもたいへん気に掛かる問題ではないかと思います。信仰を持たないで死んだ両親は果たして天国に行けるのだろうか? 教会には来ていたけれどもついに受洗の決意ができなかった人はどうなのだろうか。洗礼は受けたもののその後信仰生活を離れてしまった人はどうなのだろうか。他宗教の人はみんな地獄に行くのだろうか。そういうことについて聖書はどう教えているのかということなのです。
金持ちとラザロの譬え話を見ますと、金持ちは陰府の苦しみの場所でアブラハムにセカンドチャンスを求めているのです。しかし、アブラハムは、それはできないと拒絶しました。「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」とも言っています。
すると、今度は「それならば、地上にいる兄弟たちが自分と同じ目に遭わないで済むように、ラザロを遣わしてください」と頼みます。しかし、アブラハムは彼等には聖書があるから、わざわざ陰府からラザロを遣わす必要はないと、これも断ってしまいます。それでも金持ちはアブラハムに頼みますが、聖書を読んでも悔い改めない者は死者がよみがえっても悔い改めないと答えるのです。こうしてみますと、この「金持ちとラザロ」の譬えでは、セカンドチャンスは完膚なきまで完全に否定されているといっても良いでしょう。
しかし、私はこの譬え話にちょっと違和感を覚える部分があるのです。おそらく、みなさんの中にも同じ事を感じておられる方がいると思うのですが、なぜ陰府にいるのが神様ではなく、イエス様でもなく、アブラハムなのかということなのです。イエス様の譬え話には、父親であるとか、主人であるとか、王であるとか、羊飼いであるとか、明らかに天の神様やイエス様のことを指し示していると思われる登場人物が出てくることが多いのです。しかし、この譬え話にはアブラハムはいるけれども、天の神様やイエス様がいないのです。どうしてなのでしょうか。ここにこの譬え話を読み解く大切な鍵があるように思えて成りません。
アブラハムというのは、神様から救いの約束を受け取った最初の人間で、それを信じて生涯を歩んだゆえに神の友、信仰の父と言われるようになった人物です。このアブラハムへの約束は、アブラハム個人に留まるものではなく、アブラハムの子々孫々に及ぶものでありました。それゆえ、アブラハムの子孫であるユダヤ人は、自分たちこそ救われる民であるという選民意識をもっていたのです。
しかし、イエス様のこの「金持ちとラザロ」の譬え話は、そのようなユダヤ人の選民思想をうち砕くものではないでしょうか。つまり、同じアブラハムの子孫であっても、ラザロは慰めの場所に行き、金持ちは苦しみの場所に行きます。しかも、その間にはアブラハムですらどうすることもできない大きな淵が横たわっているというのです。アブラハムは確かに神の友であり、信仰の父であり、ユダヤ民族の父祖であるかもしれませんが、決して救い主ではないのです。イエス様は、あえてここに神様でもなく、イエス様でもなく、アブラハムを登場させることによって、救いはアブラハムによってではなく、イエス様によって与えられるのだということを語ろうとしているように思えるのです。
そうしますと、イエス様がいないならばセカンドチャンスはないかもしれませんが、イエス様がいるならば話はまた別になってくるのです。私は、セカンドチャンスがあるということを、聖書は物語っていると思います。いくつかの根拠となる御言葉をご紹介して、今日のお話としたいと思います。
一つは、旧約聖書『ルツ記』2章20節です。そこには「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主」という賛美の言葉が、ナオミの口から語られています。神様は愛の神様なのです。その愛は生きている者だけではなく、死んだ者にも行き渡る愛です。陰府の苦しみの場所における苦しみというのは、罪の裁きというよりも、神様の愛を知らせるための苦しみではないかと思うのです。人間というのは、苦しみを通してでなければなかなか神様の愛をなかなか悟れない存在なのです。
もう一つは、新約聖書『ヨハネによる福音書』5章25節で、イエス様はこのようにおっしゃっておられます。
「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時がくる。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」
さらに、これと関連があると思えるのが、『ペトロの手紙1』3章18-20節です。
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」
ここには、ノアの箱船に乗れなかったために、洪水に飲み込まれてしまった人の霊を神のもとに導くために、イエス様が陰府で宣教されたということが書かれています。このように、死んだ者たちにも福音が語られるということが、聖書には書かれているのです。
セカンドチャンスを信じるというのは、死んでからでも悔い改めのチャンスがあるから、この世を多少いい加減に生きても大丈夫ということではありません。神様の愛の広さ、高さ、深さということを徹底的に信じることなのです。善い人は救われて、悪い人は地獄に行くとうのではなく、またクリスチャンは救われて、ノンクリスチャンは地獄に行くというのでもなく、すべての人が神の憐れみを受けて、イエス様の十字架の血によって清められて、そしてイエス様の声に導かれて、神様のもとに導かれていくということであります。
もちろん、陰府の苦しみを避けられない人もあるだろうと思います。しかし、その苦しみですら、永遠の死を免れるためのセカンドチャンスとして存在しているのではないかと思うのです。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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